第一章
第一章 サイフと魔界は、意外と身近な関係でした
「…………………………………………きて」
百崎は意識の奥で何かを聞いた。人の声だ。どこか遠くのところで、誰かが声を発しているらしい。しかし聞き取れたのは最後の一部分だけだった。
「………………い、起きて」
今度はかなり近く、より鮮明に声が聞こえた。きれいな女の子の声だった。意識が覚醒に向かっているようで、体の感覚が戻ってくる。どうやら仰向けで寝ているようだ。
「おぅ「起きろって言ってんでしょおぉがあああああ!!」
パシィィィィ!。
右頬に鋭い痛みが走った。意識を無理矢理引っ張り上げられる。
「おおおおおぉぉぉぉううううぅぅぅぅ――――――!!!???」
目を開ける。十センチにも満たない距離で、ピンク髪の少女が顔を覗き込んでいた。
「やっと起きた。とんだクソ野郎ね」
超至近距離から罵倒された。ぱっちりとした大きな瞳、小ぶりな鼻、瑞々しい唇。美少女に罵倒され、心の隅でちょっといいかもと思ってしまった。二次元のキャラクターに罵倒されるのは大好きな百崎だが、三次元でそれはないというのが今までの考え方だった。でもこれを機に思いを改めることになるかもしれない。
「お、お目覚めのキスは?」
「あるわけないでしょ!」
パシィィィィ! 右頬をビンタされた。ああ、さっきのもビンタだったのね。
「とりあえず起き――ん!?」
体が動かなかった。脳は完全に起きているのに、体がまったく動かない。これは、もしや俗にいう金縛りというヤツだろうか。
「金縛りで動けねぇっ!」
「金縛りぃ? それはあたしが、なけなしのお金で買った『行動封印符』よ! めっちゃ高かったんだから! 買うのに十分くらい悩んだのよ!」
右手の人差し指で百崎の胸のあたりをぐりぐりと突いてくる。視線をそこに向けると、白い紙に赤い模様が描かれた長方形の符が確かにあった。
「せめて首だけ動かしたいんだが。めっちゃ体が気持ち悪い」
「ええーっ、んもーしょうがないわねぇ。ホントに首だけよ」
まさかの交渉成立である。絶対許してくれないと思っていた。言ってみるもんだなあ。
少女は符の端っこを摘むと、ぺりぺりと少し剥がした。その瞬間、首から上が軽くなり、いつものように動くようになった。
周囲を見回すと、百崎は自分が大きめのテーブルの上に横たわっていることに気がついた。少女の姿が上半身しか見えなかった理由がやっと分かる。ざっと見る限り、どうやらここは人の住む『家』のようだ。
「ここは、どこだ?」
誰それの家、と答えることを想定していたのだが――
「魔界よ。あたしのホームタウン。あんたのホームタウンは人間界ね」
――場所のスケールが、百回りくらい大きかった。
さらりと。さらっとすごいことを仰った。ここが魔界だって? ある人は邪悪な魔物が徘徊する恐怖と荒廃の世界を思い描き、またある人は可愛い人間のような悪魔がたくさんいる希望と夢の世界を思い描く、創造の産物でしかなかった魔界がここだって?
「魔界って人間の俺が来ても大丈夫なんだな」
百崎はこれまで数多くの漫画やラノベ、アニメを見てきたが、その中で魔物、モンスター、悪魔、魔界が登場する作品はいくつもあった。すんなり『魔界』という言葉を受け入れられたのも、そういった疑似経験があったがゆえである。
「世界はそれほど複雑じゃないのよ。魔界や人間界って言っても、東京と千葉くらいの違いしかないわ」
「せめて日本とアメリカくらい違うだろ――って、え? 東京とか千葉知ってるの!?」
「知ってるわよ」
これには百崎も驚かされた。まさか異世界の人がその地名を知っているとは。観光庁は手を上げて喜ぶべきだろう。
「魔界か、親近感が湧いてきた」
「ところで」
少女が話題転換を促す単語を言った。百崎はほんのちょっとだけ身構える。忘れているかもしれないが、彼は今、絶賛拘束中である。
「お互い、自己紹介がまだだったわよね?」
「ん? ああ、そういえば。心の距離、縮めますか」
「あたしは知花メル。メルって呼んでいいわ」
「千葉舐める?」
「バカなの? 誰がそんなアクセントで言ったよ? 知花、メルね。知花メル」
「……はい、知花メルさんですね……」
殺されるかと思った。冗談で言ったつもりなのに。体がぶるっとした。
「え、あれ? チバナ? ちばなって、知花? 魔界の人は日本語を使うの?」
「使ってるじゃない。ほら」
ピンク髪の少女――いやメルは、自分の口を指差した。
「いやいや、でもそこは魔界語(仮)でしょ、常識的に考えて。アメリカ人は英語を話すんだから」
「あんたは小説読んだことある?」
「は?」
「あるかって訊いてんの」
「あります」
しかし主にライトノベルだが。
「じゃあその中で、日本人の主人公と外国人のキャラが話す時、何語を使ってる?」
百崎は某有名な魔術と超能力が出てくる作品を思い出した。日本人の主人公と多くの外国人キャラが、巻を重ねるごとに出会っていくが、その時使われている言葉は――
「日本語だな」
「でしょ? それと同じことよ」
「………………? ………………いや、その理屈はおか――」
「バカ野郎!」
スパァァァァン! 三度頬を引っぱたかれた。メルが早口で言葉を続ける。
「そういうもんなの! 1+1が2であるように、魔界の人も日本語を話すの! OK!?」
「お、オッケー……」
何だかうやむやにされた気がした百崎であったが、これ以上追及すると面倒くさいことになりそうだったのでやめておいた。魔界の人は、日本語を話す。うん、実にシンプルでよろしい。
「で、あんたの名前は?」
「俺か? 俺は百崎才人。呼び方は……まあ、好きにしてくれ」
「モモヒキサイフ?」
「百崎才人な。も・も・さ・き・さ・い・と」
「サイフでいいや」
「おいぃ! あだ名にしてもひどすぎるだろそれ!」
サイフ。財布。すごく金をむしり取られそうな名前である。まるで悪ガキがカツアゲの対象につける名前ではないか。
「サイフじゃ嫌だって? あんた、ここに来る前に約束したわよね、あたしの金になるって」
「……………………………あ」
今まで完全に忘れてました。はい。
「……それは、確かに約束した気がする」
腕が再生した理由を知るのと引き換えに、彼女の金になるという約束だ。
「たぶん口で言っても分かんないと思うから、実際にやりながら説明するわね」
「え? やりながら説明する? どういうこと?」
金になる、とはつまり、買い物の時に何でもかんでも支払わされるようになるんだとばかり思っていた。だがどうやら違うらしい。
「まずはあんたの首を斬り落とします」
「何でええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――――!?」
「うっさ! いいから斬らせなさい!」
コマンド、逃げる。しかし符の力で体が動かなかった!
「やめろぉ! 死にたくなーいっ!!」
「死ぬ? 首を落とされて死ぬのは普通の人間の常識でしょ?」
「いやいや、俺はいたって普通の人間だし! 人間界の生粋の人間だし!」
「いつから普通の人間だと錯覚していた?」
「は?」
な、何だ? 意味が分からない。言葉の端に含みを持たせるような言い方をされても、一ミリたりとも該当する記憶がない状態では、ただの無駄にしかならない。
「説明すると長くなりそうだから、集中して聞いてね。まずはあんたの腕が復活した理由だけど、これはいたって単純。あたしたち魔人……あ、魔人ってのは魔力を持つ人という意味ね。魔力を持たない普通の人と区別するために使われるわ。悪魔と言ってもいいけど、あたしたちの中の悪魔ってのは、専門学校を卒業して人間相手に仕事をする一部の魔人のことを差すから、表現としては正しくないの。で、そのあたしたち魔人は、体内の魔力を肉体再生に使用することができるのよ。めちゃくちゃ魔力を使うから、ほいほい再生することはできないけどね。あんたの腕が治ったのも、魔力が肉体に変換されたからだと言えるわ。どう? 分かった?」
「言いたいことは分かった。魔力で体が元通りになるんだな?」
「そうよ。第一段階はオッケーね」
「でも俺は普通の人間だぞ? 魔人じゃない。何で俺が魔力なんか持ってるんだ?」
「それが説明の第二段階。魔力を持つ人が生まれるには、両親ともに魔人か、どちらかが魔人であることが必須条件となるわ。けれどもそれは人単体の条件であって、生まれる場所も、受精する場所も関係ない。つまり、両親が魔人だった場合、その子は人間界で生まれたとしても同じく魔力を持つ人となるわけ」
「と、いうことはもしかして……」
「そう。あんたの両親、二人とも魔人か、もしくはどっちかが魔人よ」
「やっぱりいいいいいぃぃぃぃぃ!?」
衝撃の事実が判明してしまった。この世に生を受けて十六年あまりになるが、そんなこと一言も知らなかった。両親との仲は良い方だったのに。
「な、何で両親は教えてくれなかったんだ……?」
「厳しい法律があるからよ」
「法? 何でもアリな魔界で?」
「それはゲームや漫画の勝手なイメージでしょ。魔界だからって好き勝手やっていいわけじゃないわ。……法律にはね、人間界との関わりを定めたものもあるのよ。これが結構厳しくて、人間界の人と結婚するには何枚もの書類を書かなくちゃいけないし、人間界に永住するつもりならさらに多くの書類を書かなくちゃいけない。そうして人間界に行ったとしても魔力の使用は絶対禁止、自分の世界の話も禁止。本当に普通の人間として生きていくことになるわ。両親があんたに言わなかったのも、その法律に触れるからよ」
「そう、だったのか……」
「それだけ人間界が好きで、二人の愛も大きかったんでしょうね」
「…………」
百崎は言葉が出てこなかった。人生の十六年間を振り返り、両親との思い出をいくつも思い出していた。
笑顔でいつも明るく優しかった母、陽気だが仕事熱心で努力家だった父。その二人の姿を脳内で再生して、ああその裏にはそんな大変なことを抱えていたのか、と今聞いた話から考えさせられた。
「ターンエンド。あんたの身に起きたこと、その背景、余すとこなく分かったかしら?」
「……何とかな。正直いまだに信じられんが、事実だから受け止めるしかない」
「そ。じゃあいいわ。約束通り、次はあんたの番よ」
メルはそう言うと、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。百崎の体に起きたことを教える代わりに、自分の金になれという約束のもと、彼女はしっかりとその理由を説明した。ならば次は百崎の番だ。約束通り、メルの金にならねばならない。
「分かった、言う通りにするよ。最初は何をすればいい?」
「あんたはそのまま何もせずに、じっと横たわっていればいいわ」
「了解。お前を信じるぞ」
まかせて、と短く答えるとメルは右手を突き出した。ビルの真下にいた時と同じように、右手から出た光が刀の形に変化し、光が弾けるとともに日本刀が姿を現す。ぱしっと音を立てて柄を握った。
「安心して、痛みはないから」
メルが優しく声をかける。しかしどんなに安心だと言われても、刀――凶器であっては絶対に恐怖を消し去ることはできない。百崎はごくりとつばを飲み込み、それから意を決して視線を刀から外した。首を真っ直ぐにして天井を見る。
「はあぁ、緊張してきたぁ……」
まさかのメルが緊張していた。百崎は心の中でズッコケそうになる。
「何でだよ。他人の首を斬ることに今になってビビッてんのか?」
「違うわよ! 首なんて数えきれないほど斬ってきたわ! そうじゃないのよ……あんたの首を斬った時に下のテーブルまで斬ってしまわないかが心配なの」
「俺よりテーブルかよ!」
「当り前でしょ! 斬ったらあたしは間違いなく三人に殺されるのよ!」
メルはその三人に殺される想像でもしたのか、顔を青ざめてぶるぶると震えている。マナーモードどころではない、わざとやっているのではないかというくらいブルブルしていた。そんなに怖い奴らなのか。
「できるできるあたしならできる何年この刀を愛用してきたと思ってるんだというかこの刀はあたしの半身手足のように使えなくてどうするそうだできるできる思い込め思い込めよし思い込んだ!」
メルが両手を振り上げる。
「せいやっ!」
一刀両断。ドスッ、と鈍い音が部屋中に響き渡った。
百崎の体は頭とその下とにきれいに二分され、テーブルには表面に二ミリほど傷がついた。
「…………やった。できた……」
メルが安堵の声を漏らす。全身を弛緩させ、ふぅ、と一つ息を吐いた。
「おおおおおぉぉぉぉ!?」
当の百崎は、変な感覚に襲われていた。メルが言った通り痛みはなかったが、神経が強制的に切断され、首から上の感覚しかないという摩訶不思議な状態になっていた。体を動かしたくても動かない。そもそもどうやって生きているのかすら分からない。脳がパニックを起こしそうだった。
「大丈夫? 脳みそが爆発したりしてない?」
メルは刀を首から引き抜く。
「ああ、何とか……大丈夫、だ」
「最初は変な感じよねぇー。あたしもそうだったわ。今となっては足が取れたりするとイライラしかしないけど」
「その気持ちは分かりたくない!」
会話をするうちに変な感覚も遠ざかり、頭だけでも過ごせるくらいに慣れてきた。いや慣れたくはなかったが、人間というものはどんな状況でも慣れてしまうものである。
「ふと疑問に思ったんだが、この状態って喉切れてるよな? どうやって喋ってるんだ?」
「知らない」
「え!? 知らない!?」
「分かんないのよ、誰にも。喉がなくてどうして喋れるのか、心臓がなくてどうして生きられるのか。本当にブラックボックス状態。でもいいじゃない、何の不都合もないんだから。考えるだけ無駄よ。そうなるものはなると思えばいいの」
「そう、かなぁ?」
幽霊みたいなものだろうか。ありそう、いそうな気はするのだが、科学では解明できないみたいな。
「ちなみになぜ魔力で体が復活するのかも不明。というか魔力自体がよく分かんない代物なのよね。でも物心ついた頃から普通に使ってたし、空気みたいなものかしら」
「へぇー…………で? 俺の首を斬っただけだけど。金になるのはいつだよ」
「い、今やろうとしてたわよ! うるさいわね!」
あれ忘れてました?
「じゃあ、やるわよ!」
メルは刀を水平に構えると、刃の側面を百崎の方に向ける。
口が、開いた。
刃の中央あたりが二十センチほど口を開けたようにガバッと広がり、中から白い歯と真っ赤な舌が姿を現した。
「吸金!」
メルが声を発した、その瞬間。百崎の顔から下の体が、きらめく黄金色に輝き始めた。その輝きが、光と呼べる程度の眩しさに変わり、直後。
服をすり抜けて花火のように光が弾けたかと思うと、黄金色のそれらが全てお札へと変化した。部屋の空中に大量のお札が舞い上がる。
「おお!」
今までに見たことのない光景に、百崎は思わず声を上げていた。
「すごいのはここからよ!」
メルが威勢よく言うと、舞い上がっていた無数のお札が流れを変えて動き始めた。掃除機に吸われるがごとく、刀に開いた口に勢いよくお札が飛び込んでいく。途中でお札に交じって制服が吸い込まれていったが、百崎は見なかったことにした。一つ残らずお札が吸い込まれると、刀の口は役目を終えたのか、何もすることなく静かに閉じられた。どこからどう見ても普通の日本刀に戻る。
「……………………」
メルは目を瞑ったまま何も言わない。
「どうした? 何かあ――」
「ふひょおおおおおぉぉぉぉぉ!! みなぎってきたあああああぁぁぁぁぁ!!」
開・眼! メルは天を仰ぎ、雄叫びを発する。その圧倒的声量に、百崎は鼓膜が破れるかと思った。小柄な体のくせに声だけはデカい。
メルは視線を百崎に向ける。ついでに刀の切っ先も突きつけてくる。
「どうよ! これが金になるってことよ! あたしのサイフになるってことよ!」
「ああ、サイフってそういう……」
ようやく『金になる』という意味と、サイフとあだ名を付けられた意味が分かった。
百崎は金を作り出す体を持っており、メルはその百崎を所有しているのである。
「あーテンション上がっちゃったわー」
メルが呟くと同時に、手に持っていた刀が再度白い光に変換された。光の粒子はゆるやかに空気中に広がり、ややあって消滅した。
「金になるって意味はよく分かったが、何で俺が金になる必要があるんだ?」
「お金を安定して手に入れるためよ。こんな無制限にお金が湧き出るようなシステムなんて、誰であろうと喉から手が出るほど欲しいんだから」
「そりゃ金はたくさん欲しいけどさ、それでも何でそんなに求めるんだ?」
「お金が魔力の源だからよ?」
「へ?」
「え?」
二人とも疑問符を頭の上にいくつも並べる。お互いがお互いの言動を理解できていないらしい。二人の間にわずかながらの沈黙が流れる。
先に沈黙を破ったのはメルの方だ。
「あ、あれ? 知らないの? あたしたちはお金から魔力を生み出すのよ?」
「いや、お前らの力の詳細なんか知らんし」
「でも漫画でそういう設定のものがあったわよね? だから知ってるかと」
「その設定の漫画は確かにあったし俺も読んだから知ってる。けどそれがそっくりそのままお前たちの世界のルールだとは気づかねぇよ」
「そう言われればそうかもね。ちなみにその漫画を描いた人、魔人だから」
衝撃の事実を聞いてしまった。……しかし、それは大丈夫なんだろうか。魔界の話をするのは法律的に禁止されているはずだが。百崎は少し考えて、やがてある結論に至った。魔界の話は禁止でも、人間界でそういう設定の漫画を出した時には、魔界の話ではなくただの一般人が考えついた設定だと認識されるから、ぎりぎり法的にOKなのでは、と。
「しっかし魔力が本当に金から作られてるとはな」
「これがありがたくもあり、厄介でもあるのよ。ありがたいところは、金さえ取り込めればいくらでも魔力が作れること。厄介なところは、この金は現実として日常生活にも使われているお金だから、魔力を使いすぎると日常生活に使うお金がなくなっちゃうことね」
「面倒くさいな……………………………………でさぁ」
百崎はだいぶ前から疑問に思っていたことをようやく口にした。
「俺はいつになったら元に戻るんだ?」
「…………」
露骨に目を逸らされた。首が九十度グイッと回転した。
「おい! 目を逸らすな! 何か言え!」
「…………そのうち治るわよ」
「結構経ったが治らんぞ」
「あれれぇー、おかしーなー。あの時は意外とすぐに治ったのにー。条件があるのかしらぁ? ………………………………………………」
黙った。まさかの黙った。何も解決策を言わずに黙りこんだ。
「お前! どうすんだよ! 素人の俺じゃもっと分かんねぇんだぞ!」
百崎はメルの横顔に言葉を浴びせる。肝心のメルは、口を開けてアホの顔をしていた。
「そのムカつく顔やめろ! ちったぁ真面目に考えやがれ!」
メルは怒りの表情を顔に貼りつけると、再び首を九十度動かし百崎の方を向いた。
「分かんないのはどんなに考えたって分かんないでしょおが!」
「うるせえ! こっちは金より大事な体がかかってるんだよ!」
「だ・か・ら! 分かんないって言っ」
ガチャ。
「ただいまー」
メルは高速で百崎の頭をわし掴むと、両手を背中にまわし音速で扉の方を振り返った。
「お、おかえりッ。早かったわねッ」
微妙にうわずった声でメルが返事をする。百崎はメルの腰に後頭部を当てた状態のまま息を殺し、事態の様子をうかがっていた。
「何か知らない人の声がしたのだけど」
「ええー気のせいじゃないかな。そう、疲れてるんだよ。あんまり無理しないでね」
「わたしを気遣うとかどうかしたの? 変な物でも食べた?」
「いやいや、何もしてないよ」
「ふうん……。それより補習、ちゃんと受けてきたんでしょうね?」
「も、もちろんさ!」
ああ、学校の制服みたいな服装だと思ったら、本当に学校の制服だったのか。
メルと誰かの会話が終わると、リズムの良い足音が聞こえてきた。メルが動いているわけではないのでその見知らぬ誰かの方だと思うが、どうやら一人ではないらしい。注意して聞くと、足音は二つ分聞こえてくる。二人いるようだ。
「何で椅子が引いてあるのかしら?」
テーブルには四つ椅子が備え付けられており、そのうち片方の二つの椅子が壁際まで動かされていた。このテーブルは部屋の幅の三分の二を占めていて、一方の壁際に限りなく近づけて置かれている。そして反対側は人二人が通れるくらいのスペースがあいていて、おそらくその向こうの冷蔵庫、キッチンへ向かうための通路となっている。今はその通路側の椅子が壁際まで引かれ、メルと合わせてその通路を塞いでしまう形となっていた。
「ああ、こ、これはね。ちょっと落し物をしちゃって。今拾ったから戻すよ」
たぶん百崎を動かしたり、斬ったりするのに邪魔だったから、あらかじめ動かしておいたのだろう。
メルは誰か――推測ではメルの同居者――に体の正面を向けたまま、つまり絶対に背中は向けず、片手で椅子をテーブルに戻した。
(いててててててててっ!)
少女の小さな手では頭全体を片手で掴むことはできず、その結果、髪を掴まれることとなった。いくら頭だけとはいえ、髪でその重さを支えるのはかなりつらい。毛根に激痛が走る。だが声は死んでも出さない。
「腰でも打ったの?」
ずっと背中に手をまわしているメルを不審に思った同居者が、疑問の声をかけてきた。
「う、うん。立ち上がる時に、ね」
「気をつけなさいよ」
会話が終わると足音が復活した。徐々に近づき、メルとすれ違う。メルはすれ違う瞬間も背中を後ろに向け続け、必死に百崎の頭を隠していた。
両者の位置が入れ替わったが、幸いにも気づかれていないようだった。メルは後ずさりをしながら部屋を出る扉まで行く。自分の足音と同居者の視線に注意しながら、あと数歩まで差し迫った時。
「ふぁ~~~、何だこれ」
メルの手から、百崎の頭が取り上げられた。
「しまっ――」
時すでに遅し。
三人目の同居者と、百崎の視線が交差した。
体躯はメルよりも少し小さく、かなり華奢である。丸みを帯びた幼い顔立ちをしており、肌は雪のように白い。百崎を見つめるその目は、まだ眠っているかのように半分閉じたままだ。一般にジト目と呼ばれるその瞳からは、何を考えているのか読み取ることができない。髪は赤茶色で肩にかかるほどであり、ところどころ寝癖のようなものがついている。服装は髪に似た赤いパジャマだった。
「おーいアリス、リン。メルが何か隠してるぞー」
赤茶髪の同居者は、突然声を張り上げた。
「ちょ! ローナ! 待って!」
ローナと呼ばれた少女は、メルの横をすり抜けて部屋に入る。先に部屋にいた二人、アリスとリンがローナの方を振り向いた。
「見ろ。こんなもん隠してやがった」
ローナが両手を掲げ、百崎の頭を見せびらかす。慌ててメルが駆け寄り、言い訳タイムが始まった。
「こ、これは違うのよ! むしゃくしゃしてやったとかそういうんじゃなくて、ちゃんとした目的があってやったのよ! それにしっかりと合意の上でやったことだし、何もやましいことはしてないわ! だからそんな目で見ないで! 心が折れるからああああああぁぁぁぁぁ――――――――!」
最後は叫びに変わっていた。
「変だと思ってたけど、やっぱり何か隠してたのね」
二人のうち、右に立つ方が言う。他の三人と比べると一番背が高い女の子だった。ただしそれはあくまでも三人と比べての話。男である百崎の背には少しとどかない。美人というべき端正な顔立ちに、アーモンド型の釣り目はどこか気の強い印象を与えてくる。髪はきれいな金色。腰まで伸びたロングストレートのその髪は、しっかりと手入れされていてさらさらだ。服装は白を基調とした清楚な感じで、ロングスカートをはいたその姿からは、どこか上品な家庭のお嬢様を思わせる。
「…………うぅ、タイミングを見て言うつもりだったのよ……。 本当よ……」
メルはうなだれてぽつりと呟く。その様子を見ていたもう一人の女の子が、メルに優しい声をかけた。
「……大丈夫、私はメルを信じる」
ぶわっ、とメルの両目から大粒の涙がこぼれた。心が弱っていた時に不意に受ける優しさというのは、いつもの優しさの何倍も力がある。大きな優しさは心を揺さぶり、魂を揺さぶり、やがて言葉にできない感覚へと昇華していく。その感覚が一気に押し寄せてきた時に、人は涙が出てしまうのである。
「うわ~ん、ありがとうリン」
リンと呼ばれた少女は穏やかな笑みを浮かべた。背はメルと金髪の少女(つまりこちらがアリス)の中間くらい。スポーツ少女のような健康的に引き締まった体で、シャープな頬の輪郭によってとても小顔に見える。静かな口調とは対称的に切れ長な目をしており、そこにギャップの素晴らしさを感じさせる。髪は暗青色。ダークブルーのその髪を後ろで一つに束ね、長めのポニーテールにしていた。服装は黒のジーンズに同じく黒のパーカーという、ボーイッシュなものだった。
「……おい、変な空気になっちまったぞ」
ぽろぽろと涙を流すメルと、穏やかに微笑み続けるリン。その二人によって、謎の頭について言及するはずであった空気がガラリと変わってしまった。妙な空気を破ったのは、件の頭を持ったローナであった。
「と、いうことで」
ローナは言葉を区切ると、半身になって野球の投球フォームのような体勢をとった。
「こいつをアリスのおっぱいにシュウウウウゥゥゥゥ――――――ッ!」
ぶんっ、とメジャー級の腕の振りで百崎の頭を投げつけた。
「空気の変え方が雑よっ!」
アリスは慌ててつっこみを入れると、高速で飛来する球をキャッチする姿勢になった。百崎が顔面からアリスのおっぱいに飛び込む。ドッジボールよろしく、胸と両腕の三点でしっかりと包まれ、勢いを殺されて停止した。
(――!!!)
カッ!! 百崎の目が見開かれる!
(な、何だこれはああああああぁぁぁぁぁぁ!!)
おっぱいだ。何だと訊かれればおっぱいである。そう、お・っ・ぱ・いである!
柔らかかった。ふにふにだった。ぷよぷよだった。マシュマロだった。人体でこれほどまでに柔の部分があったとは! やはり女性の体というのは素晴らしい! 男にとっての天国であったのだ!
触覚でおっぱいを味わいながら、鼻で息を吸い込む。すると、女の子特有の香りと服のフローラルな香りが入り混じった至高の匂いが嗅覚に殺到した。
その瞬間、百崎の脳内が快感と興奮で埋め尽くされた。
すると。
(おおおおおお!?)
斬られて換金されたはずの首から下の体が、白い光となって復活を始めた。神経接続が完了し、指先までの全神経が開通する。百崎の頭はアリスの豊満な胸の位置にあるので、体が戻ると必然的にかがまねばならなかった。膝を曲げ、腰を突き出した妙な姿勢に無理矢理変えられる。
「……あ、やべ」
そんな中、メルが思い出したように呟いた。
四人の少女の視線は、肉体再生をしている百崎に注がれている。
やがてパッと光が弾け、百崎の体が完全復活を遂げた。
「はあっ!?」アリス「おいおい」ローナ「…………」リン「やっぱり」メル
百崎は全裸だった。
? ? ?
『やあ、どうしたのかね? 定期連絡の時間にはまだ早いようだが』
電話口から聞こえてくるその声は、男性にしては高めの声だった。
『僕の声が聞きたくなったのかな?』
「いえ、急きょ連絡しておきたいことがありまして」
『君のことだから、そうだろうとは思っていたよ。……それで?』
「はい。謎の少年が現れました。身長175センチ前後、中肉中背。髪は黒。身体的な特徴はなく、普通の人型でした」
『分かった、他は?』
「出会った時は頭しかなく、途中で肉体の再生が行われました。どうやら魔人みたいです。しかも、その再生するスピードがすさまじく早く、まさに一瞬のうちに元通りになっていました」
『なるほど』
「しかし、その場の様子から見るに、借金をして再生したわけではないようです。彼がもともと持つお金を使用して再生した感じでした」
『それはまたすごい。どれだけ溜めこんでいたんだ』
「詳しく調べてみなければ分かりませんが、どうやら彼は魔力のコントロールができていないようです。再生した時も、能動的にやったのではなく、勝手に再生してしまったというような様子でした」
『ふうむ』
「何かご存知でしょうか?」
電話先の男は黙り、何かを考えているようだった。ややあって、口が開かれる。
『……いや、僕にとっても初めての存在だねそれは。だからさっぱり分からないよ』
「そうですか。自分は今後どのように行動すればよろしいでしょうか?」
『君は今まで通り自分の任務を遂行してくれ。ああ、ではついでに謎の少年の監視もお願いしようか』
「了解しました」
◇ ◇ ◇
「で? 何で彼を連れてきたのかしら?」
午後六時三十分。日が暮れ、月が出てくる時間になった頃。四人の少女たちは夕食を開始していた。テーブルにはご飯と味噌汁、箸が個別に置かれ、中央にメインディッシュの酢豚、その周りにはきんぴらごぼう、サラダ、漬物など様々な副菜が用意されていた。
魔界は人間界の日本と同じ時刻に夜になるのか、と百崎は思った。
「吸金しても金が減らない人種だと思ったからよ」
アリスの問いに、メルはご飯を口に運びながら答えた。テーブルの席は、メルとローナが隣、アリスとリンが隣で、メルの正面にアリスという位置だった。
「そんな奴がいるのかー?」
味噌汁を箸でかき混ぜつつ、ローナが横から口を挟む。
「あたしも古い日記で知っただけなんだけどね」
「日記?」アリスが聞き返す。
「そう。ゼシュおじさんの古本屋でたまたま見つけたの。他の本よりも段違いに古くて、めくるだけでページが取れそうなくらいだった」
「メルはあの本屋で立ち読みするの好きだなー」
ローナが酢豚を口に放りこむ。メルは味噌汁をすすってから話し始めた。
「その日記にね、書いてあったのよ。どんなに吸金してもお金がなくならない人のことが」
「へぇー、それでそれでー?」
「その人は魔力のコントロールができなくて、勝手に魔力が何かに使われてしまう変な体だったみたい。その上、お金を魔力に変えるのも何かのきっかけがないとできないような人だったらしいわ。魔人としての能力がかなり欠落していたようね」
「ローナだったら耐えられないなー、うん」
「けど、その代わりに体内にあるお金が無限に増えていく性質を持っていたって。日記には、その体質のせいで出くわしたいくつかのエピソードが書いてあったわ。日記の所有者がその人に聞いたんでしょうね」
「その変な体質の人と、同じような体質を彼が持っていたってこと?」
アリスの質問にメルはこくりと頷く。
「そうなの。人間界で運悪く彼の腕を斬っちゃったけど、気づいたらその腕が再生していたの。でも彼は人間界の生まれだから、たとえ魔人でも魔力の使い方は教わっていないはず。なのに再生したのよ、勝手に。その時に日記のことを思い出して」
「その日記の人と同じく、魔力のコントロールができず、無意識に魔力が使われる体質だから、その裏側にも同じく無限に金を生み出す体質を持っていると推測した、と」
「連れてきた理由、分かった?」
メルはそう言うと、酢豚に箸をのばした。
「理由は分かったけど、本当にそんな体質が存在するの? 人生で一度も聞いたことないんだけど」
「そうだよなー。そんなに特殊な体質なら、ローナたちも耳にしてるはずだしー」
アリスとローナが二人して声を上げる。
「あたしも本気でその日記の体質を信じてるわけじゃないんだけどね。でも本当に彼がそんな体質だったら、逃すのはもったいないじゃん。だから連れてきた」
「……はぁ、……あなたの行動力だけは認めるわ」とアリスが呟く。
「もしこいつが金製造機だったら、金燃費が最悪のメルにもついに時代が来るな! あっはー!」
「さすがローナ。よく分かってるじゃない!」
ぐぎゅるるるるるるる~~~~~~。
「あ、すいません。お話を続けてください」
百崎は謝罪した。和やかな場の空気を、自分の腹の音で壊してしまったことに対する謝罪だ。反省の気持ちを表すように、拳で自らのお腹を殴りつける。
彼は今どこにいるのか。四人の少女とそんなに離れた位置ではない。そう、テーブルの横である。
テーブルの横の床に正座していた。
服装は全裸から制服にクラスチェンジ済みである(メルの刀の中から返してもらった。しかしなぜか分断された右袖が糸で繋がれていた)。
………………………………。
四人の視線が百崎に向けられる。百崎はごくりとつばを飲み込んだ。これから何を言われるのか、何をされるのか、まったく見当がついていない。
「…………」
百崎から見て左手前に座っているリンが、椅子を引いて立ち上がる。リンは先ほどの会話に最後まで参加せず、黙々と箸を動かしていた。そのため他の三人よりも先に食事を終えていた。
リンは百崎のそばまで近づくと、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「……お腹すいてるの?」
「……………………胃が言うには、そうなんでしょうね……」
切れ長の目でじっと見つめてくる。二次元の美少女に見つめられる経験はあっても、三次元の美少女に見つめられる経験は、残念ながら百崎にはなかった。こういった場合にどんな対応をしたらいいのか分からない。
「……待ってて」
と言うと、リンはすっと立ち上がった。くるりと方向を変え、テーブルの向こうにある冷蔵庫へと足を運ぶ。冷蔵庫から何かを取り出すと、こちらに引き返してきた。
「……食べて」
二十秒前と完全に同じ位置にしゃがみこむと、リンは百崎の目の前にある物を置いた。
パックに入った生の豚肉だった。
「………………え?」
百崎は絶句した。本当に言葉を失った。
どう見ても豚肉。どの角度から見ても豚肉。どっちの目で見ても豚肉。穴が開くほど食い入るように見ても、おにぎりではなく豚肉だった。
豚肉とリンの顔を交互に見る。何も言わないし何も言えない。
「……つっこんで」
「えっ!?」
百崎は豚肉に落としていた視線を、高速でリンの顔に向ける。
「……私が恥ずかしい」
「えっ、ああ、うぇ!? つっこみ待ちだったの!?」
リンはほんの少しだけあごを引き、頷く。心なしかその頬が朱に染まっているようにも見えた。
予想外だ。これは完全に予想外だった。まさかこの子が、感情薄めの無表情っ子が、そんなボケをかましてくるとは思わなかったああああぁぁぁぁ――――!!
これは素晴らしいギャップ! 普段真面目で優しそうなタイプが、勇気を出して精一杯のボケをする! その後の恥ずかしがっている顔ときたら! それはそれはもう、お腹がいっぱいになるほどの破壊力を持つッ!
彼女は普通の人以上に表情を変えない。しかし、羞恥心でその石の仮面のような表情が少しでも変化した時、そこにはビッグバン級の可愛らしさが生まれるっ!!
「――――ッ!!」
百崎の魂が、萌えによって激しく震える。空腹など一瞬で吹き飛び、明日を生きるための活力が胸の内からふつふつと湧き出てくる。
「お嬢さん! お名前は!?」
「……清宮リン」
「清宮リンさん、あなたが好きです!」
「……え」
「俺と楽しいことしませんか!?」
「……どこで」
「もちろんベッドの上でです!」
「おい! 誰かこいつを止めろぉ!!」「わたしのリンが!」「リンの貞操が危ないっ!」
事の成り行きを見届けていた三人が、さすがに声を荒げた。三人とも百崎に向けて箸を投げつける。ライフルの弾丸のように空中を直進した六本の箸が、百崎の顔面にめり込んだ。
「ぎゃああああああぁぁぁぁぁぁ――――――!!」
変態は両手で顔面を押さえてのたうち回った。
◇ ◇ ◇
「百崎才人と言います。先ほどはすみませんでした」
土下座。額を床に擦りつけて、百崎は最大限の土下座をした。
顔がまだ痛い。もしかして青くあざになっているのではないだろうか。鏡を見ていないので何とも言えないが、もしそうだったら嫌すぎる。顔に六つの小さな青あざがついているのを想像してみた。……泣きたくなった。
しかし、あのタイミングでリンに迫ったことは後悔していない。あそこで言わなければ男でない気がしたのだ。箸の弾丸を喰らったのも自業自得である。彼女たちを恨むのは筋違いだ。
「みんなサイフって呼んであげてね」
テーブルの右奥からメルの小言が飛んでくる。百崎は顔を上げた。
「才人って名前と無限の金、メルの所有物つーことで『サイフ』ってかー? いいセンスじゃないか、メルさんよー」
「でしょ? ローナなら分かってくれると思ってたわ」
席が隣同士の二人はがしっと握手をした。この二人はどことなく似ている気がする。
右手前に座っているローナが、体全体を百崎の方に向けた。
「あたいは一条ローナ。よろしくなーサイフ」
口の両端を上げ、ニッと笑った。はにかんだ顔が非常に可愛らしかった。
「あとはアリスだけだよ」
メルがアリスに声をかける。
「……高月アリスよ。アリスでいいわ」
少々素っ気なくそう言うと、アリスは紅茶のカップに口をつけた。
「なーなー、メル―。サイフが本当に無限な金を持っているのか実験しようぜー」
「やっぱり気になるわよね。じゃあ今やろう。すぐやろう!」
メルは中空に右手をを掲げると、光をまき散らして日本刀を生み出した。席を立ち、軽い足取りで百崎の近くまで歩み寄る。
「今からこの中に入ってもらうわ」
「……この中とは、どの中で?」
「この刀の、中よ」
「ですよねぇ~」
ある程度予想はついていた。
メルが両手で柄を握り、その刃の側面を百崎に向ける。体が金に変わった時と同じように刀身が薄く広がり、真っ白な歯と赤い舌を覗かせて口が開いた。
「中で『へーちゃん』っていう人に会うから、よろしくねー」
そう言いながら、メルは刀を百崎の前に置いた。鍔によって微妙に斜めったその口の中を覗いてみる。真っ暗だった。底の見えない漆黒の闇が広がっていた。さながら床に開いたワープホールのようである。
「さあ入った入った。この刀を出しているだけでも、あたしは大事な魔力を使ってるんだから。ちんたらしないで」
「わ、分かった」
百崎は立ち上がる。深呼吸を一つして、ぴょんと跳ねると一気に中に飛び込んだ。
「いってら~」
頭上からメルの声が聞こえた。
Mission1 無尽蔵の金の真偽を確かめろ
百崎が口の中に飛び込んだのを確認して、メルは刀を持ち上げた。口が閉じ、薄く広がった刀身が元に戻る。あとはへーちゃんの報告を待つだけだ。
メルはきびすを返し、自分の席についた。テーブルの上に刀を置く。マグカップを手に取ると、黒茶色の液体――ココアを喉に流し込んだ。甘いチョコレートの味が脳に伝わり、何とも心地よい感覚が身を包む。食後のティータイムにはやはりココアが一番だ。
「メルの武器ってさー、何でそんなに金燃費が悪いんだろうなー?」
照明の光を反射して鋼色に輝く刀身を眺めながら、ローナが言った。
彼女の台詞の中に含まれていた『金燃費』とは、武器をどのくらい長く使用できるかを表す言葉である。車の燃費のようなものだ。一リットルのガソリンで十キロ走る車と一リットルのガソリンで三十キロ走る車では、三十キロの方が燃費が良いと言う。それと同じで、同等の金額を魔力に変えた場合に、長く武器を出し続けていられるほど『金燃費』が良いと言う。
「知ーらない。でも、あたしはその分威力が高くて好きよ?」
「一撃必殺で倒すのは面白くないと思うけどなー。あたいには理解できん」
「あんたは金燃費がいいから遊んでいられるのよ。あたしは瞬殺しないとすぐ赤字になっちゃうんだから」
ローナとメルのやり取りが終わり、部屋の中に久方ぶりの沈黙が訪れた。サイフと出会ってからずっと喋りっぱなしだったので、何だかこの沈黙が妙に新鮮に感じる。いつも四人で生活している時には、沈黙など珍しくないのだが、この時ばかりはなぜか落ち着かなかった。
今頃彼はへーちゃんと会っているだろうか。へーちゃんは人見知りなところがあるから、
ほんの少しだけ心配である。でもまあ、彼のトークスキルがあれば大丈夫だろう。へーちゃんは小動物っぽくて可愛いから、彼がガンガン話しかけて場を繋いでくれるに違いない。
サイフはあれで結構人の話をよく聞いて、しっかりと行動してくれる。へーちゃんがやってと言ったものはすぐにやってくれるだろう。体の調査も円滑に行われるはずだ。
――と。
そんなことを考えているうちに、へーちゃんからの報告である。頭の中に直接彼女の声が響く。
『ま、マスター、報告します。百崎さんの体を調べたところ、体内でお金の増加は見、見られませんでした』
(え!? 嘘でしょ!?)メルが声に出さずに会話をする。
『平常時と身体損傷時の二つとも、し、調べてみましたが、どちらも増加することはありませんでした』
(うむむむ……)
『それと気になることが、ひ、一つ。百崎さんの体内の残金が、きっかりゼロ円になっていました。……主な報告は以上、で、です』
(………………)
『ま、マスター?』
(……待って、考えるわ)
『は、はい』
どういうことだ? やはり日記の話は嘘だったということか? いや、あれは本当なのかもしれない。しかし、彼の方が違うのだ。彼も勝手に魔力が使われるが、体内の金が無限に増える体質は持っていないという可能性だ。むしろその可能性の方が濃厚である。つまり、彼は魔力のコントロールができないだけで、あとは普通の魔人と同じ。
――何だ、期待して損し……。
待て。おかしい。彼が普通の魔人と同じだとすれば、ありえないことが存在する。
彼は人間界で生まれた一般的な人間だ。結果的には魔人であったが、自分と出会うまでは間違いなく、疑う余地もなく、自身のことをただの人間だと思っていたはずだ。
魔人には体内にお金をチャージする方法が二通りある。一つは数時間ほど前に自分がやった、吸金をはじめとした武器を使ってお金を取り込む方法。もう一つは、肉や野菜を食べるのと同じように、自らの体の口でお金をむしゃむしゃと食べる方法だ。
ここで、魔人の生まれた時の話に話題を変える。魔人として生を受けた時、体内の金・魔力といったものは完全なるゼロの状態からスタートする。つまり、初めから体内にお金がある人は誰一人としていないのである。
彼は魔人だ。生まれた瞬間から金を体内に取り込むことができる。しかし、生まれた直後は魔力がないので武器を出すことができない。したがって、初めは例外なくむしゃむしゃ食べる方法でしかお金を取り込むことができないのだ。
だが。
だが、彼は自分のことを普通の人間だと思っている。人間界にお金を食べる習慣などあるはずもない。彼が体内にお金をチャージした可能性など、ないに等しいだろう。魔人といえど、体内にお金を取り込まなかったら、そのまま永遠に体内残金はゼロのままである。
ビルの下で彼と会った時のことを思い出そう。
彼とすれ違い、ビルが爆発し、危険物が落ちてきて、それを分断し、運悪く彼の腕もついでに斬り飛ばし、狼狽し、彼を抱きしめ、そして――。
――彼の腕が、再生した。
推測通りなら、体内のお金はゼロ。金がゼロなら魔力もゼロ。
なのに。
どうしてあの時。
彼の腕は再生したのだ?
「はぁ……はぁ……」
メルは息が荒くなっていることに今になって気がついた。息をするのを忘れるほど思考に集中していたようだ。
「どうしたのよ。さっきから石のように動かなくなって」
「息が荒いぞー? 大丈夫か―?」
心配するアリスとローナの声を聞き、高速回転する脳を一時止める。メルはマグカップを手に取り、ココアで口を湿らせた。それから三人に話を切り出す。
「サイフの体質が確定するもう一歩のところまで来たのよ」
「な、なんだってー!」
ローナがわざとらしく大声を上げる。
「へ―ちゃんのからの報告によると、サイフは平常時でも身体損傷時でも体内貯金は増えなかったらしいわ。でもね、それだと一つおかしいことがあるのよ。彼と人間界で出会った時、へ―ちゃんの報告通りなら体内貯金がゼロのはずなのに、魔力を使って腕が再生したこと。その両方が矛盾して、説明できなくなるのよ。だからこの矛盾さえなんとかできれば、体質の判断ができるんだけど」
メルの言葉を聞いて、他の三人は思案顔になった。それぞれが自分の知識、経験を用いて考えてくれているのだろう。メルも、その矛盾を何とか突破しようとして、再び脳を回転させる。そのまましばらく沈黙が続いた。
「無理だー、分かんねぇよー」
最初に声を発し沈黙を破ったのは、やはりというべきか、隣のローナであった。彼女は体重を椅子の背もたれに預けると、天井を見上げた。考えるのを諦めたらしい。まあ、ローナの頭には初めから期待していなかったが。
頼みの綱は、成績優秀な二人の方だ。
「わたしもお手上げ。というか考えても無駄ね、これは」
ぷちんと音を立てて、頼みの綱が一本切れた。あわ、あわわわ、慌てるな。まだリンがいるじゃないか。希望はついえていないぞ。
「リ、リン~~~」
めっちゃ動揺した声が出てしまった。これでは自分の頭で考えるのをやめて、他人に頼っているのがモロばれではないか。
ピンッ、と。リンが人差し指を立てた。三人の視線がリンに集まる。
「……みんな。彼の体質は0か100だと思ってない?」
その言葉を聞いて、三人は驚き目を丸くした。
「つまり、あるかないかってこと?」
メルが訊き返す。リンはこくりと頷き、話を続けた。
「……そう。普通の魔人と同じくそのような体質は存在しない、か、日記の人のように何もしなくてもお金が増える体質なのか。みんなはその二択でしか考えていないと思った」
「確かにそうだけどよー。じゃあリンはどんなふうにサイフの体質を考えてるんだ?」
ローナの質問を受け、リンは目を瞑った。リンは物事を考える時に目を閉じる癖がある。
やがてゆっくりとまぶたを持ち上げ、彼女は自分の意見を言うために口を開いた。
「……彼はある条件で体内貯金が増えると思う」
「条件?」とアリス。
「……うん。条件があれば常時増えていることはない。それならメルが初めて会った時に再生した理由にもなるし、今現在お金が増えない理由にもなる。分かりやすく言うと、人間界で出会った時は条件がそろい、お金が増えた。今は条件がそろわずお金は増えない。……というのが私の考え」
「そ、その条件って何?」
メルが身を乗り出して尋ねる。リンはかぶりを振った。
「……分からない。たぶんメルの方が分かると思う」
「あたしっ!?」
急にこちらにパスが来たので、メルは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「……思い出してみて。彼の体が再生した時のこと」
「うーん、………………」
メルは椅子に深く腰掛けると、腕組みをして記憶をたどった。脳内でサイフとの一連のやり取りを再生してみる。
「まずは彼の腕を斬って……パニクって変なことをして…………土下座でもよかったんだけどそれじゃあかわいそうだったから、代わりにハグをしながら謝って……そのあとに腕が治って……会話をして…………んでポータルに入った」
あの時の映像を思い出しながら、メルはぶつぶつと呟いた。誰に向けて言っているわけではなく、単なる独り言だったのだが、
「ちょっとお待ちな、メルさんよー」
ローナが食いついてきた。
「ん?」メルは視線を彼女の方に向ける。
「ハグ、だって?」
「そうだけど?」
「そりゃあつまり、抱きついたと。こう、ガバッ、と」
ローナは見えない人に抱きつくように、両腕を輪っかの状態にした。
「そうです」
「ああー、なるほどなるほど。あたい分かっちゃったよー。リンの言う、『条件』が」
額に手を当てて、顔を上向けるローナ。自分ではカッコいいと思っているのだろうが、正直微妙なポーズである。
「それは何なのですか! 教えてくださいまし!」
「お嬢様をつけろこの貧民がっ!」 「茶番始まった」アリス
「ひぃー、すみません! 教えてくださいませ、お嬢様!」 「……うん」リン
「うむ。耳と目をかっぽじってよく聞け――」
「――それはな、ずばり『性的興奮』だ!」
「性的興奮だとォ!? それってエロってことですかァ!? 人が永久に求めてやまないエロってことですか教授ゥ!?」
「そうだメルロ君。君もエロティ学を専攻しているならすぐに気づけたはずだが。勉強不足ではないのかね?」
「ははァ、ごめんなさいィ!」
茶番終了。
二人はタイミングを計ったかのように会話をピタッとやめる。姿勢を正し、椅子に真っ直ぐ腰掛けた。
「サイフの体内貯金が増え、魔力が使われた時の直前には、共通点があるんだ」
ローナがつとめて冷静に切り出す。変わり身の早さに、アリスとリンは別段驚きもしない。それはいつものことだから。もう数えきれないほど二人の茶番を見てきたからである。
「共通点?」
メルがローナの方を見て首を傾げた。
「そうだー。人間界の時はメルの抱きつき。そしてさっきはアリスのおっぱいキャッチ。男であるサイフには性的に興奮するシチュエーションだったということだ」
「ってことは、つまり……」
「ああ。あいつにエロいことをしてやれば、体内貯金が増える」
導き出された結論は、どうしようもなくひどいものだった。
「つーわけでメル。はよ実験だー!」
「おう!」
メルはへーちゃんと思考を繋げた。彼女の声が聞こえてくる。
『その人のスライダーはすごいですよね! 私あれで』
(へーちゃん)
『あ、でも私、ナックルが好きなんですよ。あの他にはない揺れる感じ! もうたまら』
(野球オタク!)
『ひいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!? マスタァァァァァァァァ――――――――――!?』
(ずいぶん盛り上がっているじゃない。彼と意気投合でもしたの? おぉ!?(威圧))
『す、すみませんっ!! 調子に乗りましたぁ!!』
見えないが確実に土下座している気がする。
(まあいいわ。へーちゃん、次の実験よ)
『は、ふぁい!』
(彼にエロいことをしなさい。○○○を―――したり、×××を~~~してみたり、とにかく彼の○○○がギンギンに立つくらいのエロいことをしなさい)
『えええぇぇぇ――――――っ!? む、無理ですよぉ!!』
(や・り・な・さ・い)
『そんなぁ~、絶対む』
ぶつっ、と思考共有を解除した。へーちゃんの言葉は聞こえなくなる。
メルはマグカップを手に取ると、ぬるくなったココアを一気に飲み干した。そして席を立ちキッチンに向かう。戸棚を開け、ココアの粉が入った袋を取り出した。チャックを開けて粉を適当にカップに入れると、再び密閉して戸棚に袋を戻す。ポットからお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜながら自分の席へ帰った。
メルは椅子に座る前に、壁に掛けてある時計をちらりと見る。
午後七時三十二分。
「んなっ!?」
まずい。瞬間的にそう悟った。
「ローナ! 時間!」
ローナも時計に目をやると、彼女のジト目が大きく見開かれる。
「やべぇ! 虐殺戦隊が始まってる!」
ローナは慌てた声を上げて、椅子から飛び出した。体勢を崩し、床に手をつき、けれど足は止めずにある場所へと走る。
それはリビングた。この部屋の半分はキッチンとダイニングで、もう半分はリビングとなっている。テレビの前に二人掛けのソファーが二つ置かれており、その前には上面がガラスでできた小さなテーブルがある。
ローナはソファーを後ろから飛び越え、そのままストンと腰を下ろした。高速でリモコンを取り、ピッとテレビの電源を入れる。
テレビの中では、五人の男女が敵をバッサバッサと倒していくオープニングが流れていた。
「くそぉー、出遅れたかー」
ローナがそう呟き、画面を食い入るように見つめ始めた。もうテコでも動かないだろう。
メルはマグカップを持ったまま、ソファーに歩み寄る。ガラスのテーブルにカップを置くと、ローナの隣に座った。
やがてアニメ『虐殺戦隊キラーアーマーズ』はOPが終わり、本編に入る。
『はぁ、はぁ……。ま、マスター…………』
(……………………)
『マスタぁー』
(…………)
『反応しろやアニオタぁ!!』
(ん? ああ、へーちゃん何か言った?)
『い、いや何も。何も言ってななないでですよよよ! そ、それよりも実験の報告に来ました』
(そう。結果は?)
『増えましたよ! それももう、うなぎ上りに! 軽く百万を突破しました!』
「マジで! きぃぃぃぃぃたああああぁぁぁぁぁぁ――――――――――!!」
メルは無意識のうちに声を出してしまった。
「うるさいぞー、メル―。あたいの時間を邪魔するでない」
「そんなことより! サイフの体内貯金が増えたのよ!」
「もちろん増えるだろうよ。あたいの推理は完璧だからな」
ローナはテレビを見つめたまま、右手の親指を立てた。格好良すぎて惚れた。
『あっ、マスター!』
(何っ!?)
メルは自分でも驚くくらいテンションが上がっていた。
『これは…………。まさか』
(どうしたの?)
『百崎さんの体内貯金が徐々に減少し、しています! 一〇三万円、一〇二万九八〇〇円。九六〇〇円。一秒で二〇〇円ずつ減っています! このままでは、一時間半もしないうちにまたゼロになっ、なってしまうでしょう』
(何でそんな体質があるのよ! そこは増えるだけでいいじゃない! さらにややこしくしないでよ!)
『し、知りませんよぉ』
(じゃあ、溜めておくことはできないってこと!?)
『そ、そうなりますね』
(お金が欲しかったら、いちいちエロいことしなきゃいけないってこと?)
『そのようです……』
(まあ、エロいことするのはへーちゃんだからいいけど)
『ふぁい!?』
(何にせよ、彼の体質が判明してよかったわ。じゃ、あたしはテレビを見るから)
『ちょ、ちょっと待っ』
ぶつっ。
Mission1 complete
広大な闇の中、二十畳ほどの、色のついた床がある場所で百崎はあぐらをかいていた。
近くにはテーブルや本棚、テレビやベッドなど、生活に必要な家具がいくつも置かれており、そのどれもがきれいに整頓されていた。
ここには壁と天井がない。どんなに目を凝らしても、何も存在しない闇があるだけだった。要するに、床と家具だけしかない空間であった。
そこに住んでいるのは、へーちゃんという水色の髪を持った小柄な少女。
主であるメルに次々と命令されるが、しかしそのどれもをそつなくこなす、優秀な少女だった。
彼女は今、ベッドで横になっている。百崎に背を向けて、顔を見せない体勢で。
『マスターなんて嫌いです……。大っ嫌いです……。もう声も聞きたくないです…………。うぅ……。ぐすん……。んぅ……。もう少し私の気持ちを、ぐすん……、考えてくれてもいいじゃないですか…………。ぐす……。ぅう……。ずびっ……。もうちょっと私の仕事を、褒めてくれてもいいじゃないですかぁ~~~~~』
ものすごく拗ねていた。どえらい拗ねていた。
七時三十分頃、へーちゃんがメルと話をしているのを、百崎は隣で聞いていた。その話が終わると、急に彼女は暗い顔になっていき、そのままふらふらとベッドに横になってしまった。それから三十分間、ずっとあの調子で呟き続けている。
(へーちゃんの気持ちは分からなくもないけど……)
こっちは誠心誠意仕えているのに、当の主人はそれに対して労いの言葉すらかけてくれない。それは誰だって拗ねたくもなるだろう。拗ねるまではいかなくとも、少し心に嫌な感情が芽生えるかもしれない。
(でも、この子の拗ね方は異常だよなぁ……)
ここまで見事に『拗ねる』を言動で表現したのは見たことがない。このレベルにまで来ると、何だか可愛く思えてくる。半泣きの声でぶつぶつ言っているのがすごく可愛い。
百崎がへーちゃんの背中を眺めていると、不意に背後から声がした。
「サイフ、もう出てもいいわよ」
振り向くと、メルの顔があった。空間の一部がもといた部屋と繋がっていて、やや歪んだ円形のそこから顔をのぞかせていた。
「あいよ」
百崎は一言発し、立ち上がる。ワープホールに向けて一歩踏み出そうとしたところで、へーちゃんに別れの挨拶をしてなかったことに気づき、もう一度振り返った。
「俺はここで帰っちゃうけど、またな、へーちゃん。野球の話ができて楽しかったよ」
ベッドの上の、水色の髪の後頭部に声をかけた。
「……………………………………………………………………………私も楽しかったです」
蚊の鳴くような声が耳に届くと、百崎はニッと口角を上げた。もう何も言わずにワープホールへと足を運ぶ。
空間の境目に手を掛けて、頭・足・胴体の順に穴をくぐる。支えにしていた手を離すと、即座にワープホール――刀の刃から開いた口が、音もなく閉じられた。
通常モードに戻った日本刀も、メルの手の中で白い粒子になって消滅した。
「なあ」
百崎はメルに話しかける。
「何よ」
五十センチにも満たない距離で、二人は向かい合った。
「へーちゃんすげぇ拗ねてたぞ」
「拗ねてた? ああ、よくあることよ」
「よくあるのかよ。もう少し彼女のことを大事にしたらどうだ」
「もう少し大事にって……あたしはへーちゃんのことをこれ以上なく大事にしてるわよ?」
「お前は大事にしてるつもりかもしれないが、残念なことにそれがへーちゃんには伝わってないんだよ」
百崎は確信を込めた声で言った。
「伝わってない?」
「お前さ、付き合いが長ければ言葉にしなくても気持ちが伝わると思ってるだろ」
魔武器である私は、ご主人様のメルと一緒に生まれました。だから私たちは生まれた直後からの付き合いなんです、と百崎はへーちゃんから聞いていた。
「違うの?」
「確かに言葉にしなくても伝わる関係の人はいる。けど、彼女は違うんだ。だからこそ拗ねるし、もっと褒めてほしいと言ったりする」
「そんな……」
メルは目を伏せてぽつりと呟いた。その顔は、信じられない、という表情をしていた。
「だから言葉で、『あたしのためにありがとう』と言ってやれ。彼女の気持ちを考えた言葉を言ってやってくれ」
百崎はメルの肩を掴んで頼みこんだ。
「……分かった。分かったわよ! 言うから! ちゃんと言ってあげるから!」
メルは顔を上げた。
「頼むぞ」
二人の視線が交差する。
肩から手を離した。二人には、このままギスギスした関係でいてほしくなかった。そう思ったからこそ、百崎はこんなにもメルにお願いしたのだ。
百崎の耳に、今まで意識の外に追いやっていたテレビの音が届いた。
その時だ――。
「二人とも、ちょっといいかしら?」
そう言って近づいてきたのはアリスだった。胸の下で腕を組み、百崎とメルから一・五メートルほど離れた位置で立ち止まった。
「私たち、明日は月曜日で学校があるんだけど、サイフはどうするつもりなのかしら? メル、そこら辺考えてある?」
アリスの言葉を聞いて、メルの顔が焦りの色に変わっていく。
「か、考えてなかった! どうしよう!?」
アリスは一つ溜息をついた。
「……そんなことだろうと思った。あなたが連れてきたのだから、彼の管理ぐらいきちんとしてやりなさいよね」
「う、うん」
「あとは二人で考えることね。……それじゃあ」
彼女はきびすを返し、部屋を出ていった。部屋の中には、重大な問題を抱えた二人組と、リビングで依然としてテレビを見ているローナだけが残された。
「と、とりあえず座りましょ」
メルの指示で、二人はダイニングテーブルに向かい合って座った。メルは自分の指定の椅子、百崎は夕食時にアリスの座っていた椅子を使わせてもらった。
「サイフって何歳?」
「十六歳」
「高一?」
「そうだけど?」
「じゃああたしたちの学校に転校してきなさい。それが一番いいわ」
「ちょちょちょ! 簡単に決めすぎだろ!? それに転校するにしても手続きとかいろいろあるだろうし!」
「手続き? 魔界にはそんなまどろっこしいものはないわよ。入学したいです、って言うだけでOKだから」
「魔界適当すぎだろ!?」
社会的に大丈夫なのか? それで。
メルはスカートのポケットからスマホを引っ張り出すと、人差し指を画面上で滑らせた。最後にぽんっとタッチすると、スマホを耳に近づける。
「もしもし? あっ校長先生? あたしあたし、メルだよ」
「ずいぶんフランクだなぁおい!?」
「うん。……うん。それでね、お願いがあって電話したんだ。一人この学校に転校したい人がいるんだよね。……うん。明日から。…………それはちょっと言えないなぁ。……うん。うん。男。……あたしのクラスにできる? ……そう、ありがとう。じゃあ、よろしくねー」
電話を切ると、メルはスマホをテーブルの上に置いた。
「はい、転校が決まったわよ」
「今の電話が手続きかよっ!? 親にも相談せずに勝手に転校とか………………」
百崎は急に黙りこんだ。
「どうしたの?」
メルが不思議そうに声をかける。
「そうだった! 親に何の連絡もしてねぇじゃん!」
百崎はガタンと音を立てて席を立った。
「絶対心配してるよ! やべぇどうしよう!?」
「あたしのスマホ使う? 人間界にも繋がるわよ?」
「お願いします……!」頭を下げた。
メルはスマホを手に取ると、再び指を滑らせた。そして百崎の方に差し出してくる。
「サンキュ」
百崎はスマホを受け取ると、母親の携帯番号にかけた。四コールめで繋がった。
『もしもし?』
十六年間ほぼ毎日聞いてきたきれいなソプラノの声が、スピーカーから発せられた。
「母さん? 俺おれ、才人だよ。連絡できなくてごめん」
『あら才人。どうしたのよ、少し心配してたんだから』
「ああーそれが、今日の夕方……――」
百崎は言葉を詰まらせた。待てよ。母さんが魔人じゃなかったら、魔界の話をしてもいいんだろうか。このまま話して法を犯すことになったりしないだろうか。
声を拾うマイクの部分に手を当てて、メルの方を見た。
「魔界のこと言ってもいいんだよな?」
「いいわよ。あんたが魔界に来た時点で、両親にはその発言が解禁されるわ」
百崎は頷くと、マイクから手を離して話を続けた。
「えーっと、今日の夕方なんだけど、魔界に住む女の子に会ったんだ。そしたら俺の体質が特殊とかで、魔界に連れてかれちゃったんだよ。で、今はその女の子の家にいる」
『あら、そうだったの。魔界……うふふ、懐かしいわ。才人、ちなみにね、お母さんが魔人なのよ。お父さんは人間界の人』
「そうなんだ。……あ」
百崎はもう一つ言わなければならないことがあったのを思い出した。
「あと母さん、俺さ、何でかその、急になんだけど、こっちの……魔界の方の学校に転校することになっちゃったんだよね。あはは……」
言い終えるのと同時に頬をぽりぽりと掻いた。
『転校? ふふ、大丈夫よ。心配しないで』
「了承はやっ!?」
『だって才人にはいろんな経験をしてもらいたいもの。ま、難しいことは考えず、楽しんでらっしゃい。人間界の学校には、お母さんが連絡しておくから』
「わ、分かった」
『そうそう。女の子に代わってもらえる? 出会ったっていう』
百崎はメルにスマホを差し出した。
「母さんがお前に代わってくれって」
「うそ!?」
メルはスマホを持つと、ぴんと背筋を伸ばした。
「もしもし? …………はい。そうです。知花メルと言います。………………もちろん、彼はあたしが責任をもって面倒を見ますので。…………はい、分かりました。それでは」
メルはスマホを百崎に返す。あー緊張した、とメルは小さく呟いた。
「母さん?」
『うふふ、可愛らしい声の子だったわね。……じゃあね才人。頑張ってねー!』
「お、おう」
電話が切れた。百崎は一つ息をつくと、椅子に腰を下ろした。
スマホをテーブルの真ん中に置く。
「これで本当に明日から、お前の学校へ行くことになったわけだが」
「ん?」
メルは頬杖をつきながら、視線を百崎に送った。
「魔界の学校って何を勉強するんだ?」
「国語に数学、理科社会。それと外国語だけど」
「まんま人間界の高校と同じじゃないか」
「同じよ。だって魔界は、人間界と同じ教育システムを使ってるもの。ちなみに、魔界の高校を卒業すれば、人間界の大学を受験することもできるわよ。あとその逆も」
「ふぅん……」
異世界って結構繋がっているんだ、と百崎は思った。
明日から自分も転校生の仲間入りか、どんな展開が待っているのだろうか。可愛い女の子はいっぱいいるだろうか。クラスの雰囲気はどうだろうか。期待と不安が入り混じった気持ちが、胸の内からこみ上げてきた。
――と。
「あれ?」
ふと気づく。百崎はメルの言葉を思い出した。『あたしたちの学校してきなさい』『あたしのクラスにできる?』
「お前も、高一ってこと?」
「そうよ。気づいてなかったの?」
「全然気づいてませんでした」
「五日前にあたしも十六歳になったわ」
「ヴぇっ!?」変な声が出た。「……お」
メルの顔をまじまじと見つめる。
「?」
「同い年だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ!?」
? ? ?
『やあ、今日もお勤めご苦労さん』
「今日は、謎の少年が現れたこと以外、特に気になることはありませんでした」
『彼について他に分かったことはあるかな?』
「はい。名前は百崎才人。百とかいてモモ、サキは宮崎県の崎、サイは才能の才、トは人間の人と書いて、百崎才人というようです」
『百……崎……才、人ね。分かった』
「彼は人間界の出身のようです」
『ふむ』
「それから彼には特殊な体質があることが分かりました。どうやら彼は、性的興奮状態になると、体内貯金が増えるようです」
『何だって!?』
いつも冷静な男が、驚いた声を上げる。
「直接確認したわけではありませんが、あの状況で嘘をつくことはないでしょう。ですので間違いないと思われます」
『……ますます謎の多い人物になってきたな』
「自分も監視するのが楽しいです。報告は以上です」
『僕も彼のことについて、上に訊いてみるよ。それじゃあ、また』
「はい」