四話「素敵な名前」
廊下に出て、風さんから貰った一枚の紙を見つめる。そこには、地図らしきものが書かれていた。風さんが「屋敷の中は広いから迷わないように」と言ってこの紙をくれた。紙を見ると、居間を出て廊下をまっすぐ進んで突き当りを左に曲がると、そこに幸与様の部屋……菊の間があるらしい。
風さんがこの家を屋敷と言った通り、外から見ても大きな家だ。でも、まっすぐ進んで左に曲がるだけだから流石に迷うことはないだろう。私は紙を持って菊の間に向かう。
「あれぇ?」
おかしい。まっすぐ進んで突き当りまできたのはいいけど、曲がり角は右にしかない。居間からまっすぐ歩いてきたはずなんだけどな……。とりあえず、右に曲がってみる。こう言う広い家は村にはなかったから、迷ったと言い訳をして家の中を探検するのもまたよし。そう決めて右に進んで行く。
右に曲がってすぐにまた曲がり角が。左だ。曲がってみると、お目当ての菊の間があった。何だ、風さんのうっかりミスかー。私は安心したと同時に、家の中を探検できなくてちょっぴり残念な気持ちもあった。でも、今の目的は幸与様のあだ名を一緒に考えてもらうこと。家の中の探検ならまたいつかできるだろう……そう考えて菊の間の前に立つ。
「失礼します」
スーッと音を立てないようにふすまを開けると、部屋の中には誰もいない。って言うか、埃っぽい。物が乱雑に置かれていてどう見てもここは家の主の部屋じゃないだろう。物置だ。
おかしいな、確かにふすまの横に菊の間って書いてあったのに……確認しようとふすまを閉めてもう一度見ると、物置、と書かれていた。
……? おかしいな、この年ですでに老眼始まったかな。緑の中で育ったから目はいいほうだと自負してたけど、実はよくなかったとか?
とりあえず、来た道を引き返そう。私は物置をあとにして来た道を戻ることにした。
「あれ、行き止まり……」
さっきまで道があったはずの場所が、行き止まりになっていた。記憶違いかな?
それから、私は屋敷内を歩き回った。ぐるぐると、来た道を引き返してみたり適当に曲がり角で曲がってみたり。しかし歩けども歩けども目的の菊の間は見つからない。体力には自信があるからいいけど、この違和感……もしかしてこの家って。
「妖?」
「ご名答」
「あ、さち……様」
気配もなく私の背後をとったのは、幸与様だった。幸与様、と呼びそうになって慌ててやめたが流石に様はつけたほうがいいと思った結果が「さち……様」である。何ださち様って。馴れ馴れしいにもほどがあるわ私の阿呆。
「それでいい。あと、様はいらない」
「はい?」
「あだ名の話だ」
……え。つまり幸与様は人の子ごときに「さち」などと呼び捨てにしろと仰る? ご無体な……。例え私が村で唯一神様を信じていなかった存在だとしても、だ! 流石に相手が神様とわかった以上は敬称をつけて呼ぶのは当たり前。流石にひれ伏したりはしないけどね。村人ならやりかねん気もするけど。あいつら幸与様のこと本当に信じていたし、お供えした作物がなくなったら幸与様が食べてくださったんだ! って喜んでたし。ちなみにお供え物を食べたのは実を言うと私なんだけどね。罰当たりだとか思いつつも(私は)信じてない神様にあんな大量の作物を与える村人の気持ちがわからなくてねー。
「ええと……話を戻しますけど、この家って、妖だったりします?」
「そうだ。珍しく人の子が家に上がったから、部屋の間取りを変えたりしてからかっていたんだろう。ちなみに悪さをすると食われるぞ」
脅かすように低い声で言うけど、私は「はぁ……」としか返せなかった。幸与様――さちは思った反応が得られなくて不満気だったけど、元々神様の供物として育ってきた身だ。今更食われることの何が怖い。怖いのは、中途半端に生き残ってしまうことだと私は思う。
「ええと、もう一つ。言いたいことが」
「何だ?」
「あのね……幸せを与えるって書いて幸与、でしょう? それってすっごく素敵な名前だと思う。だから、女っぽいとか言わないでもっと誇っていいと思う……んだよ、ね」
さちの目が、見開く。その顔は驚きと動揺に満ちていて、そんな顔を見てしまったら最後までバシッと決めることはできなかった。尻すぼみになってしまう。
さちの目の奥が、頼り気なくゆらゆらと揺れる。そして、くしゃりと顔を歪めて今にも泣きそうな顔をすると、私の頭を鷲掴みにする。そのまま、力強くワシワシと撫でられた。正直言って、摩擦熱で痛かった。禿るかと思った……。
「ほんっとうにお前は……変わらないな」
絞る出すようにそれだけ言って、さちは項垂れたまま動かなくなった。