ショートカット
今時、失恋くらいで髪を切る女はいない。相手の好みに合わせて無理をしていたならいざ知らず、自分で選んだ髪型と恋の間には何の関係も無いものだ。久しぶりに髪を短く切ることに決めたのは、たまたまそういう気分になったから。
それだけのこと。
「いらっしゃいませ。こんばんは。」
黄色いペンキで塗られた扉を開くと、アシスタントのユキちゃんが迎え入れてくれる。一カ月ぶりに会う彼女はミルクティー色のボブカットになっていた。
「こんばんは。ごめんなさい、遅くなっちゃった。」
予約は十八時にいれたのに、時計を見ればもう二十分も過ぎている。
「大丈夫ですよー。ハコさん、今日最後のお客様ですから。」
他のお客さんを待たせていないのは良かったけれど、つまりこの二十分の分だけ今日の店じまいは遅くなるわけで、ユキちゃんにも、オーナーの須藤さんにも申し訳ない。
「定時に抜けだす予定だったんだけど、ちょっと捕まっちゃって。」
「大変ですねー。急いでいる時ほど、そういうことってありますよねー。」
ユキちゃんはのんびりと語尾を伸ばして喋る。お店の扉をくぐるまで、遅れてしまったと急いていた私の心はそのペースにはまって宥められていく。
彼女の後ろについてほんの数メートル、細い廊下を抜けると二席っきりの小さな美容室が現れる。温かい色みの灯りに包まれた部屋で、白い壁と鏡を背景にすらりとした長身の男性が一人待っていた。ゴールデンレトリバーが立ちあがったらこんな感じかもしれない。初めて会った時にそう思ったこの男性がオーナー兼スタイリストの須藤さんだ。外に出る暇がないから、日焼けしないといつぞや言っていた白い肌。綺麗にカラーをいれている茶色い髪。大柄な体と薄い色素のせいか、須藤さんは日本人離れして見える。
「いらっしゃい。」
彼はいつものように、にっこりと笑いかけてくる。
「ごめんなさい、遅れました。」
「平気、平気。仕事帰りでしょう?お疲れ様でした。」
そう言いながら手を差し出して、二人は私の鞄とコートを素早く引き取って行く。
「こちらへどうぞ。」
勧められるまま、大きな鏡の前に腰掛けて鏡越しに改めて須藤さんと向かいあう。自分の仕事場ではついぞ目にすることのできない穏やかな笑顔。
「それで、今日はどんな感じにしましょうか?」
「ショートカットにしてください。前髪はこのくらい、後ろはこのくらいで。」
手でラインを示すと、須藤さんはちょっと目を見開いて頷いた。
「随分、思い切りますね。」
「はい。たまには。」
私が須藤さんに髪を切ってもらうようになってから、かれこれ三年以上経つ。月に一度、通っているのでもうすぐ五十回目になるだろうか。その間、私の髪型はずっとセミロングとボブの間を行ったり来たりしていたから須藤さんが驚くのも無理は無い。けれど、彼はすぐに笑顔を浮かべて頷いた。さすがプロ。
「これから段々暑くなるし、首元が涼しくなっていいかもしれないですね。」
「そうですね。」
ショートカットなんて高校生の頃以来だ。
「では、一度髪を洗いますね。」
カウンセリングが済むと、シャンプー台へ移動してユキちゃんに髪を洗ってもらう。人に髪を洗ってもらうのって、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。温かいお湯と頭皮をマッサージする指先に緊張感もほぐされて、どうしても眠くなる。金曜の仕事上がりともなれば効果覿面。
「はい、お疲れさまでした。椅子、起こしますねー。」
声をかけられてはっとする。タオルの下で本当に少し、意識が飛んでいた。
「では、こちらへどうぞー。」
もう一度、鏡の前に戻ると私はユキちゃんから須藤さんに引き渡される。どういうわけだか須藤さんはいつもギャルソンのようなエプロンをしている。今日も白いシャツに黒いエプロン。エプロンの大きなポケットでは足らずに更に腰に下げたポシェットに鋏や櫛。美容師の七つ道具が収まっている。
「最初は少し長めに切って行きますね。長さは様子を見ながら最後に調整できますから。」
「はい。」
私が素直に頷くのを見届けて須藤さんはギュッギュッとペダルを踏んで椅子の高さを上げて行く。
この瞬間、いつも小さなころに連れて行ってもらったデパートの屋上遊園地を思い出す。その中にあった飛行機の乗り物。色違いの飛行機が四つ付いていた。子供たちが乗り込むと、じわじわと飛行機の高さが上がっていって、そこでゆっくりと回るだけの単純な遊具だ。けれども、私は毎回それに乗りたいとおねだりしたらしい。美容院の椅子が上がっていくときの揺れ方も髪に鋏を入れられるのを待つワクワク感も、懐かしい遊具にそっくりだ。
背の高い須藤さんに合わせるために椅子は随分高く上げられる。そこから、彼はほとんどしゃべらずに鋏の音と、控え目なボリュームのJackson5の歌声だけが空間に漂う。
私がこの美容院を行きつけにしている最大の理由が静寂だ。髪をいじっている間中、のべつまくなしに話しかけてくる美容師は得意じゃない。私にとって美容院は月に一度の自分への御褒美。毎日朝から晩まで休みなく働いて疲れた自分を休める時間。だからこそ美容院は静かで何も考えずに安らげる場であってほしい。私が美容院を選ぶポイントは、席数が少なくて他のお客さんの声を気にしないでいいこと、そして美容師がおしゃべりじゃないこと。この二点に尽きる。ここは、私の隠れ家だ。古いマンションの一階。少し奥まったところにある入り口は、無愛想な事務所の入り口と間違われそうなほど飾り気がない。最初に訪れた時は扉を開くのにだいぶ勇気がいったものだ。扉を開くと白木の廊下があって、その向こうに片面を大きな窓で覆われた明るい部屋が続いている。席は二つだけ。会計用の小さなカウンターと、シャンプー台。それから点々と観葉植物。少し懐かしい洋楽が小さな音で流れる他は、余計な音はしない。店は完全予約制だから他のお客さんとかちあうことも殆どない。そして何より須藤さんは最高だ。こちらが何か言えば気の利いた返事もしてくれるけれど、こちらが黙っている限り、髪を切っている間に世間話をしかけてはこない。もちろん、腕も良いのだ。
私は安心して彼に全てをお任せする。ジョキジョキと耳元でリズミカルに鳴る鋏の音が小気味よい。座り心地の良い椅子に沈んで目を伏せ、見るともなしにファッション誌を開いた。ちょうど開いたページは一カ月の着回し特集で、可愛い家具に彩られた部屋や、おしゃれなカフェで「お仕事ガール」達がポーズをとっている。一言ずつ書き添えられている台詞は憧れの先輩に褒められたとか、仕事で失敗したとか、お友達と女子会だとか。やっぱりキラキラした日常を思わせるものばかりだ。
本当のお仕事ガールはこんなじゃない。
私は苦笑いでもしたい気持ちでパラパラとページを進める。月曜は朝一番に会議。先週の内容から変わり映えしない課長の指示を聞くのに一時間。それから勤勉すぎる誰かのおかげで週末の間に溜まっているメールの処理をして、慌ててランチを食べる。間違ってもオープンカフェで優雅にサンドイッチを食べている時間は無いから近所の定食屋で済ます。それでも外で食べられたら良い方で、週の半ば以降はコンビニで買った何かをかじって終えてしまうことも多い。あちこち動き回るのでピンヒールは厳禁。特に大事なお客様との会議のある日は今年の流行よりも男子ウケよりも、とにかくフォーマル。黒いリクルーターみたいなスーツでアクセサリーも極小化が基本。例え夜に合コンの誘いが来ていても、そこは諦めるしかない。やっと一週間終わって週末になれば一週間分の家事を片付けるためにスウェットにTシャツで一日掃除に洗濯。夕方ようやくシャワーを浴びて、スウェットをジーンズに履き替えたらスーパーで買い出し。疲れているときは自炊は諦めて、近所のお店で適当にお一人様の夕食を済ます。独身の素敵な上司や同僚もいないから着飾って会社に行く意味なんかないし、女子会に繰り出すパワーさえ残らない週末も多い。
枯れてるなあ。
周りからだって良く言われるし、自分だって良く分かってる。それでも、長いこと恋人はいたのだ。学生の頃からの付き合いで、私は彼なしの自分を想像できないくらい長いこと付き合っていた。
彼はいい人だった。社会人になって以来、お互いに忙しくてなかなか会えなかったけれど、自分も忙しい分、私に時間がないことも理解してくれて、無理にデートに連れ出したり、電話に出ることを強要してこない、理解のある人だった。たまに会うときは夕方から、どちらかの家かレストランでゆっくりおしゃべりをして、美味しいご飯を食べて、一晩寄りそって眠る。それだけだけれど幸せだった。彼に会うと疲れがみんな吹っ飛ぶ気がした。なんとなく、このまま結婚するのかもしれないとも思っていた。もう、彼さえプロポーズしてくれたらいつだってYesというつもりだった。
でも、長い出張から戻った後で、改まった様子の彼が申し込んできたのは結婚ではなくてお別れすることだった。
「君がいなくても、毎日あんまり普通に過ぎて行って。ふと思ってしまったんだ。どうして付き合っているんだろうって。」
つまりは、私は必要ないということ。
「私にとっては必要だよ。自分の味方が世界に一人はいてくれると思ったら、頑張れることがたくさんあるよ。」
私の言葉は、彼には響かなかった。彼にとっては、私はそういう存在ではなかったのだろう。彼にとって絶対的な、世界に一人の味方だと思えなかったんだろう。
私は献身的じゃなかった。
私は分かりやすく優しくなかった。
私は彼を母親のように甘やかさなかった。
私は彼に媚びなかった。
何よりも、私は彼に甘えなかった。
彼の心に私の居場所を作らなかった。
だから、彼は私が居なくても平気。
反省することは沢山あるように思ったけれど、もう遅い。どちらかの心が離れたら恋愛は終りだ。だから私は彼の申し込みを受け入れた。その日は泣いた。悲しいのでもなく、寂しいのでもなく、ただ不安で泣いた。時間が経つと、自分を一番理解してくれていると思っていた人から切り捨てられたのだということにやっと気がついた。それからは自分が人間として魅力がないのではないかと、何度も考えた。
ところが、更に時が流れて行くうちに彼の言っていたことが段々と分かってきた。私も、彼がいなくても毎日を普通に過ごして、そして、彼がいなくても平気になった。絶対的な世界に一人の味方がいなくなっても、私は本質的に変わったりしなかった。なんだ、と思った。恋人がいなくなったら私は駄目になってしまうんじゃないかと思っていたのに、私は一人でも大丈夫だ。
そう気がついたときに、ふわっと肩が軽くなったような気がした。肩に乗っていたじっとりとした後悔や不安を吹き飛ばしたもの、それは真夜中に笑いだしたくなるくらい哀しくて、どこまでも透き通った喜びだった。
翌朝、道でショートカットの女の子とすれ違った時にその軽快な潔さが今の気持ちにぴったりだと思って髪を切ることに決めた。
「何か、気分の変化でもあったんですか?」
すっかり自分の世界に浸っていた私の意識は、須藤さんの声によってゆっくりと浮上した。
視線を上げると、鏡越しに目があう。
「いや、ただショートカットも可愛いかなと思って。」
まだどこかぼんやりとしたまま答えれば、彼は目を細めて一つ頷いた。
「そうですか。」
髪を切っている最中に話しかけてくるなんて、珍しい。また私の髪に集中している須藤さんを鏡の中で目で追った。そういえば、彼が髪を切っているところをあまりちゃんと見たことがない。会社帰りによる時には、一日の仕事のおかげで目は疲れていて雑誌を開いたまま目を伏せるとそのまま半分眠ってしまう。たまにお休みの日に寄っても、やはり視線は雑誌に向いたままで、彼の手元を真剣にみたことは無かった。
迷いなく動く大きな手。刃が曲がって見えるくらい素早く動く鋏。時折、髪をつまみ上げて長さを確認するときは少しだけ目を眇める。
へえ、こんな風にして切っているんだ。
なんだか興味が湧いて、そのままじっと須藤さんの手の動きを追いかける。私の頭一つなど簡単に掴めそうな手で、でも触れるときはとても柔らかに触れる。誰かに労わられている感じがして、癒される。大事にされていることに、安心する。手元を見ていなくてもその手の感触は覚えている。月に一度、この手から与えられる安心感。これを失ってしまっても私は大丈夫だろうかと、考える。いやいや、これだけはやっぱり譲れない。
そう思っている間に髪は短くなっていく。何カ月かかけて伸ばして、毎日トリートメントにブローにと手間をかけた私の髪も、一度ジャキンと鋏が入ればあっという間にゴミに早変わり。
顔を上げて鏡を見てみると、今朝とはすっかり違う自分がいる。すっきりと耳元で揃えられた髪は、思った通り清々しくて気持ちが弾んだ。
「前髪、眉くらいの高さでいいですか?」
ピンで横に止められていた前髪を解きながら須藤さんが聞いてくる。彼の視線は前髪に留まったまま。
「はい。少し横に流せるくらいの長さで。」
「じゃあ、切っちゃいますよ。」
少しおどけた様子の声に頷けば、間髪いれずに銀色の鋏に切られた長い前髪がパラパラと目の前を落ちて行った。
どんどん短くなる私の前髪。髪が切られるごとに視界が開けていく。もう首を真っ直ぐにしていても髪に視界を遮られることがない。
髪を長くしている間に、前髪が邪魔で髪が顔の横に流れてくれるように右に首をかしげる癖がついた。その癖も直せるだろうか。
首を傾げながらご飯を食べる癖。向かいに座ってご飯を食べていた恋人は、その仕草が可愛いと言ってくれたっけ。もうそんな癖もいらなくなる。前髪が綺麗さっぱり切られてしまうのを見届けて、私はにっこり笑顔を浮かべた。うん、これでいい。
鋏の動きがまばらになって、やがてゆっくりと椅子が下ろされて行く。一段、また一段と椅子を下げらると、私はあの飛行機の遊具が止まるときのような名残惜しさを感じる。楽しい時間は終りだ。
髪を漱ぎ直して乾かせばカットはすっかり完成だ。
ドライヤーを手伝ってくれていたユキちゃんが鏡を覗きこんでにこっとする。
「ハコさん、ショートも似合いますねー。なんか大人の女って感じでかっこいいですー。」
「ありがとう。」
御世辞と分かって割り引いても褒め言葉は嬉しい。にこにこと機嫌良くお礼を言えば須藤さんまで、うんうんと頷いてくれる。それから少し髪の流れを整えながら確認される。
「スタイリング剤、つけておきます?」
金曜の夜に、予定があるなら美容院には寄らない。これから家までの間にどこかに寄って一人で軽く夕飯でも食べて。それから帰って寝るだけ。それでも、誰も知り合いに会わなかったとしても綺麗にして歩きたかった。今の自分が何だかとても誇らしく思えて自慢したい気分だ。
「あ、お願いします。」
「はい、かしこまりました。」
須藤さんはいい香りのするヘアオイルを手にとって髪の毛をパラパラと散らして行く。
そして、私は居心地の良い椅子を下りた。
お見送りには、須藤さんだけが出て来てくれた。黄色い扉を開いて一緒に表に出ると「まだ夜風は冷たいですね」と微笑む。
「明日からは、ストールを忘れないようにしないと首元がすうすうしますね。」
予想通り襟元から忍び込んでくる夜風に首をすくめてお別れの挨拶をする。
「ありがとうございました。」
満面の笑みで会釈をした拍子に髪が揺れる。須藤さんはひょいと手を伸ばして前髪を直した。それからにこにこしながら、彼にしては珍しく長めに答えてくれた。
「こちらこそ。喜んでいただけると美容師冥利につきます。特にハコさんはお店にいる間にぐんぐん元気になるから、僕もお手伝いしていて楽しいですよ。」
そんな風に見える程、私は萎れていたかしら。今は元気に見えるのかしら。意外な言葉に目を瞬かせると、須藤さんはふふふと笑って「夜道に気をつけて」といつもの送り出しの言葉をかけてきた。もう説明する気はないのだろう。
今、元気に見えるならいいか。
確かに彼の言う通り、私は今とっても良い気分なのだ。少し奮発して、美味しいものでも食べて帰ろう。
春の夜風が首筋をすり抜けるのを感じながら、私は大きめに一歩を踏み出した。




