四.
「あれは俺が十五歳の時だから、今から六年前の話だ」
聖斗さんはそう言って話を始めた。場所はカフェのいつもの席だ。しかし今は俺と聖斗さん以外に人はいない。《八卦統一演武》のために特別に開放されているこのカフェなのだが、今日のメインイベントである由美さんの試合が間近に迫っているため、みんな観戦に行ってしまったようだ。
対面に座る聖斗さんは落ち着いた声で話を続けていく。
「当時の俺はとにかく生意気なガキだったよ。下級や中級陰陽師たちの仕事によく首を突っ込んでは現場を引っ掻き回していたな」
聖斗さんは当時の自分を思い出したのか、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「でも、事件は解決されたのでしょう? 綾奈からその功績で特級陰陽師にスカウトされたって聞きましたよ? しかもそれを辞退されたとも聞きました。すごいですね」
俺がそう言うと、聖斗さんは少し顔をしかめた。
「いや……俺はすごくない。俺は……最初、特級陰陽師になるつもりだった」
「え?」
「月神家に生まれたからかな。俺は子供の時から力をずっと欲してた。綾奈には……うまく隠していたけどな」
そう言うと聖斗さんは手元の紅茶を一口飲む。
「そうだったんですか……。けど、それと由美さんとの出会いになにか関係が?」
「ある」
俺の問いに聖斗さんが断言するかのように頷いた。
「六年前、連続で人が殺される事件が起きた。現場の状況から人の仕業ではないことが分かってな。下級陰陽師が中心となって付近の警戒にあたったんだ。――そう、寒い冬の日のことだった」
「話になりませんね」
そう言って聖斗は資料を机に放り投げた。資料は勢いのまま机の上を滑り、床に散らばった。
「し、しかし……」
聖斗の目の前では、四十路になろうかという男が気まずそうに首をすくめていた。気弱さが内面からにじみ出ているような男で、こんな男でも隊長になれる下級陰陽師という組織に聖斗は不安さえ感じた。
「目標を追い詰めておきながらみすみす逃すなんて論外ですよ。それも急な反撃にパニックになって逆に負傷者を出すというおまけ付けですか」
皮肉交じりに聖斗が言うと、男は悔しそうに睨みつけてきた。が、それも一瞬のこと、すぐに視線を逸らすと、また卑屈な態度で言う。
「私どもでは……《八神》の血を引かれています、聖斗様には到底及びませんよ」
その言葉を聞いて、聖斗はチッと舌打ちをした。そういうことじゃないだろうと心の中で毒づく。
このところ巷で起こっている連続殺人事件。被害者は全員、鋭い爪で斬り裂かれて絶命していた。そのことから、捜査は警察から陰陽師へと主権を移して捜査をしていた。
そして昨日、その捜査網に引っかかった妖怪がいた。その妖怪の名称を『しょうけら』といった。しょうけらは遠目で見ると猿のような姿をしている。しかし、その手足には人間を易々と斬り裂く鋭い爪を携え、体長は優に二メートルを超える巨躯を持つ。ギョロリとした大きな目に、醜悪で皺くちゃの顔、そして尖った牙。そして黄緑色をした体毛に覆われた姿は実に奇妙で恐ろしさを駆り立てる。
そのしょうけらを下級陰陽師四人からなる隊が捕捉し、路地裏に追い詰めたものの、逆に反撃を受けて逃走されてしまったのだ。その際に三人の陰陽師が負傷、そのうちの一人は腹を斬り裂かれて応援の隊が到着した時にはすでに虫の息だったという。
この事態を受けて、捜査指揮は下級陰陽師から中級陰陽師へと『委託』され、その過程で聖斗が捜査協力として加わる形となった。
しかしこの時の聖斗は、捜査協力に乗り気ではなかった。その理由は、もう捜査協力などしてもなんのメリットもないからだ。
つい先日、聖斗に特級陰陽師からのスカウトがあった。聖斗にとって今まで行ってきた捜査協力は、このスカウトを受けるため自らの力を誇示する場として利用していただけであり、それがなった今はもう必要のないものなのだ。
聖斗は捜査本部をあとにする。建物から出ると、外はもう夕暮れだった。街を歩くと、隊ごとにパトロールを行っている陰陽師たちと何度かすれ違った。聖斗は自身が通う中学校の制服を着ているため、陰陽師たちは彼が月神聖斗だということに気づかない。
へらへらと笑い、刀を一般人に見せつけるかのように手に持ち歩く下級陰陽師たちを見ていると、聖斗は無性に腹が立った。
聖斗は刀を持つことが嫌いだった。そんな物理的な戦闘を行わなければいけない状況に陥ることはないという絶対の自信があったからだ。そしてそれに見合う実力を聖斗は確かに有していた。
聖斗は立ち止まり正面に揺らめく夕日を見た。
(……逢魔が時か)
古来より夕暮れは危険な時間帯とされている。人の時間と妖魔の時間との境界線。二つの時間が混ざり合う時間だ。大人が夕暮れ時は外で遊ぶな、早く家に帰れと子供にいうのもここからきている。いつまでも外で遊んでいると、いつの間にやら誤って人と妖魔の境界線を越えてしまう。そして戻ってこられなくなる。所謂、『神隠し』というやつだ
逆に陰陽師にとっては、これからが自分たちの時間であるともいえた。
「ん?」
その曖昧になった境界線から漏れ出した微かな気配に聖斗は反応した。一瞬で消えてしまったが、明確な悪意を持った気配だ。出所は左手にある公園のようだった。
聖斗は公園の中に踏み込んだ。その敷地内には人の姿はない。見回すと、ブランコが独りでに揺れていた。さっきまで誰かいたようにゆっくりとゆっくりと。
しばらく眺めていると、その動きは徐々に弱まってついには静止する。それを見てから聖斗はブランコに近づいた。
ブランコに触ってみるが、特におかしなところはない。変哲もないただのブランコだ。
「……ふぅ」
聖斗が一息をついた瞬間、その瞬間を狙っていたかのように聖斗に背後で気配が膨れ上がった。形を成した気配は、ついで殺気のこもった眼で聖斗を睨み、右腕を振り下ろす。夕日で赤く染まる爪は今までに五人の人間を惨殺し、昨夜も三人の陰陽師を負傷させた凶器だ。
――だがそれが、聖斗に届くことはなかった。
「《疾風》!」
聖斗の言霊によって吹いた一陣の風が、聖斗と気配の正体、しょうけらの間を駆け抜けた。そして、その間にあったしょうけらの右腕は風によって肘から斬りおとされて勢いよく地面に転がる。
「ぐぎゃあぁ!!」
つんざくような悲鳴がしょうけらの口から発せられた。その悲鳴を不快な表情で聞きながら聖斗がゆっくりと振り返る。
「昨日のことで勘違いでもしたか? 相手の実力は見てからにした方がいいぞ。ま、お前はここで死ぬがな」
聖斗がそれを言い終わる前に、しょうけらは斬りおとされた傷口を押さえて一目散に逃走を図った。本能的に勝てないと思ったのだろう。
「人の話は最後まで聞け」
逃げるしょうけらに聖斗は呟いて、左手をかざす。
「《四式結界》!」
月神家の十八番である《四式結界》がしょうけらに向かって発動した。しかも他の陰陽師たちが発動する場合と違い、結界はしょうけらの左足のみを瞬時に囲う。左足は結界の中に固定されるが、全力で逃げているしょうけら本体はすぐに止まれるわけがない。結界に固定された状態で動かしたため、今度は左足の脛から下が切断された。
左足を失ってバランスを崩したしょうけらは、地面に倒れ込み潰れた悲鳴を上げた。
「ぐっ……がが……」
それでも体を引きずって逃げようとするしょうけらに聖斗はゆっくりと近づいていく。
「往生際が悪いぞ。……《土突》」
「げぇ……!」
鋭く隆起した地面がしょうけらの腹を貫く。地面に磔にされた格好になったしょうけらに近づいた聖斗はそれを見下ろした。
聖斗の冷酷かつ無慈悲な瞳は目の前でもがく妖怪を虫けらの如く認識していた。もう駆除は終わったようなものだった。あとは脳天に術の一つでも叩き込めばいい。
(……馬鹿らしい)
しかし聖斗の口から最後の術を放つための言霊が発せられなかった。この虫けらを踏みつぶす作業に聖斗は嫌気がさしたのだ。
(特級陰陽師になる俺が、こんなやつの処理までなぜしないといけない)
やってられないという思いが強くなり、聖斗はしょうけらを一瞥した後、クルリと背中を向けた。
(ここまでやったんだ。あとは青印のやつらが始末すればいい)
周囲でパトロールをしているいずれかの隊が発見し処理するだろうと聖斗は考えた。そしてすでに頭を切り替えて、近くの本屋に小説の新刊が出ていることを思い出していた。
(本でも買いに行くか)
聖斗は振り返らずに公園から出て行く。
この判断が最悪の結末を招くことになることを、この時の聖斗はまだ知る由もなかった。