六.
「悩み事か?」
「うわっ!?」
考え事中――といっても特に思い浮かぶことがなく、ボーっとしていただけだが――にいきなり声をかけられて思わず声を上げてしまう。
「……なんだ。声をかけただけで悲鳴を上げるやつがあるか」
顔を上げると、そこには俺を見下ろす金髪の天使――ただし仏頂面――がいた。
「エ、エンフォード……」
「まったく、お前というやつは……本当に失礼なやつだな」
「す、すまん! 考え事をしていて……」
「ま、まぁいい。もうホームルームも終わったぞ。帰らないのか?」
「え?」
エンフォードの言葉を聞いて周りを見回すと、教室の同級生たちはすでに帰り支度を始めていた。隣を見る。席は空白だ。
「……綾奈は休みだ。お前も知っているだろう」
「あぁ、そうだったな」
「フン……!」
なぜか不機嫌なエンフォードに首を傾げながら俺も帰り支度を始める。
「おい!」
エンフォードが再度声をかけてきた。なんなんだ? いったい。
「も、もう帰るのか?」
「……は?」
「な、なんだその反応は!」
エンフォードが顔を真っ赤にして言う。どうやら怒っているようだ。理由はまったく分からないが……。
「帰るよ。だいたい帰らないのかって聞いてきたのはエンフォードじゃないか」
「ぐっ……!」
ムムムッと悔しそうに唇を噛むエンフォード。そんな潤んだ目で睨むなよ。悔しいのは分かったから……。
「エンフォード」
「なんだ……?」
「あの、一緒に帰らないか?」
「……へ?」
うわー! やっぱり恥ずかしいな。女の子を誘うのって。明華とか綾奈ならもう結構なれたんだけど、エンフォードはまだ会って一ヶ月も経ってない。それに二人っきりで帰るってのは初だからな。
俺は照れ隠しに頭を掻く。――あれ? エンフォードの反応がないぞ。不思議に思って顔を上げる。
目の前のエンフォードは、さっきより赤い顔をして、口元をアワアワといった風に変形させていた。……そんなに驚かなくてもいいだろうに。そんな様子のエンフォードを見てしまうと、俺の恥ずかしさは行き場をなくして霧散してしまう。
「おーい、エンフォードさん?」
呼びかけるとエンフォードはハッと意識を取り戻す。
「い、今お前はなんと言った!?」
「お、俺は、ただ一緒に帰ろうって言っただけだぜ? 今までだって帰ったことあるし、そんなに問題ないだろ?」
「し、しかし! しかし、今日は――」
さっきの威勢はどこへやら、エンフォードの声は小さくなっていき、それと共に顔もうつむいていく。
「――今日は、二人っきりだろう……」
「え? なんだって?」
最後の一言はすごく小さく、俺には聞き取れなかった。だから少し耳を近づけて聞いてみた。
「う、うるさい!」
しかし、一瞬でいつもの威勢に戻ったエンフォードの怒声をモロにくらって、俺の三半規管がキーンと鳴く。……お約束過ぎる。
「あぁもう! 分かったよ」
「な、なにがだ?」
「さっきのはなし! そんな深い意味があったわけじゃないけど、誘って悪かったな。一人で帰るよ」
「なっ!?」
エンフォードがなんで怒ったのかは分からんが、たぶん俺が誘ったからだろう。うーん……まだ溝深し、というやつか。
早計だった自分に反省しながら、俺は学生鞄を持って席から立ち上がった。そして、教室の出入り口に向かって歩き始め――ようとしたのだが、なぜか俺の進行方向とは逆ベクトルの力が働いて、俺の歩みは止められた。振り返ると、俺の制服の裾をクッと掴んだまま拗ねたような表情を浮かべているエンフォードの姿があった。
「なに?」
俺が聞くと、エンフォードは目線を逸らしながら口をとがらし言う。
「べ、別に、一緒に帰りたくないとは言ってない……」
「……はぁ」
ころころ変わるエンフォードの態度に、俺は生返事しか返すことができなかった。
……分からん。女子というのは、最早別の生き物ではないかと思うくらいに気持ちが理解できん。
俺は首を捻りながら、隣を歩くエンフォードを見た。俺から見えるのはエンフォードの整った横顔。その口元には朗らかな笑みが浮かんでいた。――エンフォードが微笑んでいる。いや、微笑んでいることが悪いわけじゃない。全国共通で微笑むというのはいいものだ。だが、俺にはなぜその微笑みが浮かぶのかが分からない。だってさっきまでいた教室ではあれだけ機嫌が悪かったんだぞ! この変わり身の速さはなんなんだ?
「……もしかしたら明華なみの変幻自在度かもしれん」
「どうした?」
「うわぁ!」
「まったく、お前はいちいち悲鳴を上げないと返事ができないのか?」
「す、すまん」
「まぁいい。――ふふふ」
狼狽した俺を見てエンフォードが可笑しそうにしている。本当にどうしたんだよ。まるで別人みたいだ。いつもと違うエンフォードの新鮮な表情は魅力的だった。むしろ、魅力的じゃない方がおかしい。
その一本一本が太陽の光を反射して輝く金色の髪。雲一つない青空をそのまま閉じ込めたような澄んだ瞳。不意に見せるその微笑みは、淑女が見せる慈愛の笑みだ。こうやって改まってみると様々な魅力に満ちているエンフォード。……いつもこうならいいんだけどなぁ。
そんなことを考えているうちに、俺たちは校舎から出て、《澪月院》の敷地内を歩いていた。俺たちが歩いているのは、校舎から正門までを結ぶ《澪月院》のメインストリートともいえる道だ。その道の脇にはいくつかの建物が存在している。そのうちの一つ、『満月』に俺は用があった。
『満月』と大層な名前がついてはいるが、実際のところはただの購買部だ。コンビニを二つ横に並べたくらいの大きさの建物には、学用品から日用品、カップラーメンにおかしにアイスクリームにジュースといった食料、さらには刀の手入れグッズに簡易守護符といった陰陽師用品なども売られていて品揃えは豊富だ。店のモットーは『買う人も売る人も満ち足りた気分になれる店』だそうだ。この辺りが名前の由来なのだろう。
俺はエンフォードに少しだけ買うものがあることを伝えてからガラス戸を押して店に入った。俺の後からはエンフォードも続く。
「なにを買うんだ?」
「まぁ、まずジュースでもどうだ? 奢るぞ?」
「い、いやいい! お前から施しは受けん!」
「ははは、施しってお前」
「な、なにがおかしい!」
エンフォードの頑なすぎる遠慮に俺は思わず笑ってしまう。そんな俺を見て、エンフォードは少し不機嫌そうな顔になるが、ここは放っておこう。
コンビニと同じ仕様の大きな冷蔵庫から俺はオレンジジュースを取り出す。その下の段にあったリンゴジュースも一緒にだ。
エンフォードが俺の部屋に来た際に、一番飲んでいたのがリンゴジュースだった。他にもっと好きなジュースがあったかもしれないが、本人に直接聞いてもどうせさっきの調子だろうし、ここは俺の判断で買わせてもらう。
そんな俺の行動に気づいたエンフォードが慌てて言う。
「お、おい! だからいらないと言っているだろう!」
「もう取り出したんだからしかたないだろ? 今さら戻すわけにもいかないしさ。まぁ、飲んでくれよ」
「うぅむ……」
俺がそういうとエンフォードが渋々といった感じで了承してくれた。その答えを聞いてから俺はレジに向かう。
「それはそうと、お前の目的はこれだけだったのか?」
「いや、違うよ」
エンフォードの問いに答えながら、俺はレジ脇にある目的のものを掴む。そしてそれをエンフォードの顔に掲げた。
「俺の目的はこれを買うこと」
「……『八卦統一新聞』?」
「あぁ、所謂スポーツ新聞みたいなもんだ」
俺の言葉にエンフォードは少し首を傾げた。いまいちピンときていないのかもしれない。まぁ、俺も最初に綾奈から聞いた時は同じような反応をしたような気がする。
この新聞は、その名の通り《八卦統一演武》をクローズアップした内容になっていて、予選の勝敗や有力選手の紹介などが載っているのだ。本戦予選の期間中は全部で八種類が刊行され、ブロックごとの情報がまとめてある。この新聞は、学内だけでなく近隣の店でも販売がなされていて、価格はちょっと高めの一部百円。それでも一般の間では結構人気らしい。
レジでの支払いを終えた俺たちは、店から出て近場のベンチに腰掛ける。俺のゆっくりジュースでも飲もうという提案が意外にも通ったからだ。
「はい」
「あ、ありがとう」
ジュースを渡すと、エンフォードがお礼を言ってきた。もっと恐縮するかと思ったけど、案外普通だ。まぁ、その方が気遣いもいらないから歓迎するが。
キャップを開けて、俺はオレンジジュースを一口飲んだ後、手元の新聞に視線を落とす。今ここで読む気はないが、一面に躍る文字だけは否応なしに目に映る。
『夜坂由美! 優勝候補、待ったなし!!』
でかでかと書かれた見出しと、由美さんがハンドガンを構えている写真が載っていた。
「…………」
しばらくその写真とにらめっこをしていると、隣に座っているエンフォードが俺の顔を覗きこむようにして声をかけてきた。
「山代総真、お前の悩み事はやはりそれか?」
「ん……まぁな」
少し決まりは悪かったが、ここは正直に答えた。
「すごい試合だったな」
「あぁ、そうだな」
別の場所から見ていたエンフォードたちにもあの試合は衝撃的だったらしく、あの後の祝勝会はいまいちテンションが上がらずじまいだった。誰もが自分たちとの実力の差を感じていた。
「しかし、なんにせよ厄介なのはあの銃だな。反則過ぎるぞ、あの武器は」
「まぁ、確かにな。ただあれは結構厄介な制約がついているんだぞ」
「厄介な制約?」
「あぁ。この前、五色先生にレポート提出くらっただろ? あの時に調べたんだが、陰陽師の三大装備の中でもっとも扱いづらいのが銃だそうだ。対霊体用の特殊な銃弾を《霊子弾》といって、見た目は普通の銃弾と変わらないそうなんだが、銃弾に呪力を込めることで弾そのものを霊子化できるだよ。一度霊子化した銃弾は霊体と同じ構成となり、人間が銃で撃たれた時と同じダメージを与えることができる。空気抵抗などの概念からも解き放たれて、重力の影響も受けずに呪力の続く限り銃弾は飛び続けるらしい。これだけ聞くといいことばかりなんだけど……」
「デメリットもある?」
「そう。でもたくさんあるわけじゃない。一つだけだ。ただその一つが強烈すぎる」
「どんなものなんだ?」
「銃弾を霊子化させることができる人が約十人に一人。そしてそのほとんどは射程距離二メートルに満たない。少しうまく呪力を込めることができる人でも一発撃つのにためが一分。連射性なしで使い物にならないよ。それを無視して撃ちまくれば、弾はただの弾として飛んでいく。もちろん霊に命中せずに人に命中する」
「……まったく使えないな」
「だろ?」
俺の説明の前半部分で少し目を輝かしていたエンフォードだったが、そのデメリットを聞いてカクッと力なく首を曲げた。
「だが、その《霊子弾》というやつは《八卦統一演武》では関係ないのではないのか? あくまで相手は人間なのだから」
「だから大会中は別の制限があるみたいだ。この前の試合、由美さんが撃った銃弾が光っていたのを覚えているだろ?」
「あぁ」
「あれはキチンと銃弾に呪力を込めているかどうか分かるようにした鍛錬用の銃弾を使っているからだそうだ。もし、一発でも弾が光ることなく対戦相手に着弾した場合、その銃弾を撃ったものはその場でリタイヤってルールみたいだぞ」
「あの光にそんな意味が……」
エンフォードは感心したように呟いた後、なにかに気づいたようにハッと顔を上げた。
「待て、お前は確か多少呪力を込められる人でも一発撃つのに一分はかかると言わなかったか?」
「あぁ、言ったよ」
「……ということは、由美さんは?」
「天才、そういうことだよ」
エンフォードの問いに俺はこれ以上ないくらいに的確な答えを返す。その答えを聞いたエンフォードはうつむくとポツリと言った。
「天才か……才能があるということは羨ましいな」
「エンフォード……」
「慰めはいらない……。分かっているのだ。……どうしようもないということくらい。しかし、たまに考えることがある……私に才能があれば、私に力があればと……」
エンフォードの生い立ちを聞いた俺にも、エンフォードが言いたいことくらいは分かる。自分に才能がなかった故に諦めざるを得なかったエクソシストの道。自分より才能があったから攫われてしまった妹。そしてそれを守ることのできなかった自分。
今のエンフォードの胸中には後悔の念が渦巻き始めているに違いない。そんな思いを抱くのはしかたないのかもしれない。けど……それを抱え込もうとするなよ。一人で重荷に感じるなよ。せっかく仲間がいるのに。それに俺だって――嫌われているかもしれないが――仲間の一人だ。その重荷を一緒に持ってやる。――絶対一人にはしない!
「エンフォード」
「……なんだ?」
俺の声を聞いて、エンフォードが顔を上げた。俺はその瞳を見て言う。
「俺は、エンフォードの才能を信じてる」
「……なに?」
「だから、お前の才能を信じているって言ったんだ」
「バカにしているのか? 私には才能がないってことくらい知っているだろう?」
「してないよ。それにエンフォードには才能がある。あの耐久力だって立派な才能だろ?」
「耐久力? 《天使の贈り物》のことか? ……言っただろう。あれはエクソシストなら誰だって持っているものだ。才能とかそういうものではない」
エンフォードが呆れたように言う。確かにあの《天使の贈り物》というのは、エクソシストとして天使と契約を交わした際に誰もが身につけるものらしい。
「けど、陰陽師は誰も持っていない。ここじゃ、お前しか持っていない。これは大きな武器だ。俺はそれを信じてる。必ず、そのお前だけの《天使の贈り物》が俺たちを土壇場で救ってくれるって! 力になってくれるってな!」
喋っているうちにだんだんと声が大きくなっていくのを自分でも自覚する。だが、ここはそんなこと気にせずに俺の思いを伝えるところだ。伝えなくちゃいけないところだ。
「私がみんなの力に?」
「あぁ! 絶対なる! むしろお前のその才能を考慮した上で作戦を立てる!」
「ホントになれると思うか? 私で」
「おう! もちろんだ」
エンフォードには似合わない弱気な態度での質問に、俺は多少わざとらしく元気に答えた。
「そ、そうか……」
すると、エンフォードの口元に薄らと笑みが浮かんだ。心なしか頬も赤くなっているようだ。
「それに、知ってるか? ギフトって英単語には『贈り物』って以外にも『才能』って意味もあるんだぜ?」
英語は苦手だが、それくらいは知っている。それにこれ、今の状況にぴったりの言葉じゃないか?
「…………」
俺の言葉を聞いた後、エンフォードは一言も話さない。驚いたように目を大きくしている。まさに目から鱗ってやつだろう。そう思い、俺は内心で満足する。
「…………くっ、くく」
ん? 今、吹き出さなかったか? こいつ。
「くっく……くくっ……」
なんとエンフォードは笑っていた。体をくの字に曲げて、込み上げる笑いを押さえようと必死になっているようだ。
あれー? エンフォードさん? なに笑ってるんですか? 俺の渾身のセリフだったんですけど!
「エ、エンフォード?」
「くくくく……お、お、お前はバカなのか? くくっ……わ、私はイギリス人だぞ? そ、その私に向かって……英単語の意味を説明されてもな……くくく」
し、しまったぁ!! そうだった! むしろなぜ気づかなかった、俺! めちゃくちゃドヤ顔で『英国人』に英単語の説明をしちまった!! …………今すぐ消えてしまいたい。
あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆って隠す。そんな俺にエンフォードが言う。
「まったく、お前と話していると才能のあるなしで悩むことすらバカらしく思えるよ」
「……はい、すいません」
今まで話した中で最もスムーズに謝罪が口から出た。いや、もうそれしか言えません。
「なぁ、山代総真」
一転、エンフォードが穏やかな口調で俺の名前を呼ぶ。その口調の変化に俺は顔を上げた。するとそこにはその口調と同じくらい穏やかな表情をしたエンフォードの顔があった。
「私も信じてみるよ」
「え?」
「信じてみると言ったんだ。私自身の力をな」
「本当か!?」
「あぁ、本当だ。だから思う存分、作戦を立ててくれて構わないぞ」
そう言ってエンフォードははにかんだ笑顔を浮かべた。
「分かった。早速考えてみるよ。ありがとう、エンフォード!」
「ありがとうは私のセリフだ。――ありがとう、山代総真」
「いや、俺はなにも……というかそれより、やっぱり山代総真ってフルネームで呼ぶのって呼びにくくないか?」
「む……しかし……」
「この機に呼び方変えようぜ」
「むむ……」
俺の提案にエンフォードは考え込んでしまう。そしてしばらくの後、
「……分かった。よろしく頼む、そ、総真」
「…………」
「な、なんだ?」
「いやー、エンフォードのことだから絶対『山代』って呼ぶと思ってたからびっくりした」
「――――ッ!」
俺の指摘にエンフォードの顔がカァッと真っ赤になる。俺に言われて初めて、そのことに気づいたのだろう。
「わ、悪いか!?」
「いや、嬉しいよ。これからそれで頼むよ、エンフォード」
照れ隠しなのか、俺を払いのけるように振る腕を躱しながら言う。すると、エンフォードが動きを止めて、ジッと俺を見つめてきた。――な、なんだ?
「私は…………だ」
「は?」
「だから私は……だと言った」
「いや、聞こえないって」
そう言って俺はエンフォードの方に耳を寄せた。
「うぅ……! だから、私の名前はアリスだと言ったんだ!」
キーンと耳鳴りがした。確かつい十数分前くらいにもくらったような……。ん? 今ところでなんて言った? 確かアリスって……。
「……アリスって呼べってことか?」
そう問いかけると、エンフォードが耳元まで真っ赤になった顔を縦に振り頷く。
「そうか! もちろん、喜んで呼ばせてもらうよ! ありがとう、アリス!」
「うむ……こちらこそだ、総真」
二人で名前を呼びあった後、どちらからともなく笑い合う。恥ずかしかったけど、アリスと一緒に帰ることにしてよかった。
また少し仲良くなれたという実感を噛み締め、俺は気づかれないように小さく拳を握った。