四.
試合の終わった俺たちは、受付に未使用の呪符を返すとメインアリーナの隅にあるドアから外へ出る。そこは通路になっていて、少し向こうにもう一つのドアがあった。そのドアから中に入ると、関係者以外立ち入り禁止の選手控室になっている。選手はそこで試合までの時間を過ごすのだ。っといっても、選手の出入りは自由なため観客席に上がって試合を観戦したりもできる。ここも建設時に条件として造られたものらしい。因みにこの控室はメインアリーナの反対側にも設置されていて、対戦選手同士が顔合わせすることがないような配慮もされていた。――まったくどこまですごいんだよ、月神家は。
そう思いながら隣を歩く綾奈に視線を向けた。綾奈は不思議そうに首をかしげながら微笑む。うーむ、今日も可愛いな。
その微笑みに胸を満たされながらもう一方のドアを開けて控室に入った。すると、明華が俺の腕をとって言う。
「祝勝会しよ! 祝勝会!」
勝利の喜びがぶり返してきたようだ。俺の手を左右にぐいぐいと引っ張りながらおねだりしてきた。回避不可のおねだり攻撃、だが今は場所が悪い。
「こーらっ! まだ試合がある人いるんだから、でかい声出すなって」
「あ……ごめん」
俺が指摘すると、明華は申し訳なさそうに身を縮めて謝った。素直でよろしい。
「で、でも……」
と思ったのだが、あきらめきれないのか俺を上目遣いで見つめてきた。別に祝勝会をやらないって言ってるわけじゃないんだけどなぁ……。けど、この不安そうな表情のままほっとくのも気が引ける。とりあえず安心させてやるとするか。
「祝勝会はやろうな。この後ジュースかなにか買ってさ」
「う、うん! ――えへへ」
俺の言葉を聞いて明華は表情をパッと輝かせた。そして嬉しそうに笑う。もう大丈夫だろう。
「二人もそれでいいか?」
俺は一応、綾奈とエンフォードにも確認をとった。
「はい、そうしましょう」
「うむ、問題ない」
二人も今日の勝利を祝いたかったことは間違いないようで、すぐに了承してくれた。
「そうと決まれば! 着替えだけしてすぐに準備しよ!」
元気を取り戻した明華が再び俺を急かす。
「ちょっと待てって。お前、少し落着け」
「なんで?」
『なんで?』と返すか、こいつ……。まったくいつもながら楽しいことには目がないやつだ。
「着替えるのはいいけど、この後まだ試合を見ないと駄目だろ?」
「えっ?」
まぁ、伝えてなかった俺も悪いんだけど。いや、そもそも自分たちの試合があるから伝えなかっただけなんだけどな。一応、順番的には二の次だったし。
「俺たちの次の対戦相手の試合は明日だけどさ。この試合は見ていかないと駄目だろ」
そう言って俺は控室の壁に掲示してある対戦表の一つを指差す。
「あ! 由美先輩の試合」
「そうだ」
俺の指の先にある名前を見て明華が言う。その通り、俺たちの試合の後には本日のメインイベントといっても過言ではない試合が控えていた。前年度全国制覇チームで唯一今年も参加している由美さんの試合だ。正直、これを見ないで帰ることなんてできやしない。まだ直接戦うわけじゃないけど、見ていて損があるはずないんだから。
「この試合は私も見たい。あの人がどんな戦い方をするのか興味があるからな」
「わ、私も見たいです」
「そうだろ? だから着替えたら観客席に集合な!」
俺はそう言うと、着替えるために男子の方の更衣室に向かおうとする。その背中をポンッと叩かれた。
「ん?」
振り返るとエンフォードが思いっきり不信気な顔で言った。
「……覗くなよ」
「どんだけ信用ないんだよ!」
思わず全力のツッコミを返すと、他の選手たちからジロリと睨まれた。
「あ……」
まずい! っと思った時にはすでにエンフォードの姿はない。というか他の二人の姿も。……なんか俺だけ一人で騒いでいるみたいになってないですか?
周りはもちろん全員が上級生。――気まず過ぎるわ! 俺は盛大に――ただし心の中で――悪態をついた後、そそくさと更衣室のドアをくぐった。まったく、なんで俺がこんな目に……。
しばらく経って、俺たちは何事もなく着替えを済まし、観客席に集まっていた。ハァ……本当になんともなくてよかった。強面の先輩とかが怒ってきたらどうしようかと思ったぜ。
生きた心地のしなかった着替えの間を思い出し、俺はため息をつく。そんな俺をよそに、今日の戦いが終わった女子三人はリラックスした表情で会話に花を咲かせていた。ま、楽しそうなのはなによりだし、それに今日はみんな頑張ったんだからいいけどよ。それはさておき、席を探さないとな。
俺はキョロキョロと周りを見渡す。観客席は満員とはいかないものの、多くの人が座っていた。空いている席はあるにはあるのだが、実は《八卦統一演武》の席の取り方というのは結構難しい。《八卦統一演武》は最初の一試合目は同時に始められるのだが、それ以降の試合はエリアが空くとそこで行われる。つまり試合場所が最初から決まっているわけではないのだ。目当ての試合がないのならテキトーに座ってしまえばいいのだが、今の俺たちのように目当ての試合がある場合はそうはいかない。観客席の端と端ではかなり距離があるため、間違った席に座ると全然見られなくなってしまう。かと言って試合が始まってから動き出すと席が取れなくなる可能性がある。特に由美さんのような注目選手の試合はみんなが狙っているだろうし……。ある程度の予測が必要だな。
「あのー……」
そう思って動き出そうとした時だった。背後から突然声が聞こえた。
「ん?」
振り向くと、そこには同い年くらいの女子二人組がいた。制服を着ていないことから試合を観戦しに来た一般の人だと思う。
「えっと、どうしました?」
呼びかけられたものの、その後に続く言葉がなかったため、しかたなく俺の方から声をかけた。すると女子二人組は気まずそうに視線を交わした後、右側の子が言った。
「あ、あの、月神綾奈さんに用があるんですが!」
「綾奈に?」
完全に予想外の言葉だった。それは名前を呼ばれた本人も同じようだった。
「えっ? わ、私、ですか……?」
俺の背後で綾奈の狼狽した声が聞こえた。どうやら俺と女子二人組が話し出したのに気づいて会話を中断していたみたいだ。それにしても綾奈に用事ってなんだ? 訳が分からんのでとりあえず事の成り行きに任せてみることにする。
すると、用があると言った女子が綾奈の前に立つ。ん? 背中になにか持っているみたいだけど……あれは?
「え、えっと……?」
いまだに狼狽し続ける綾奈に向かって、その女子が背中に隠していたなにかを出す。
「月神綾奈さん! さっきの試合を見てファンになりました! サインしてください!」
と同時に発せられた言葉を聞いて、俺たちは固まった。
――へ? サインって言ったか? 今。
俺がその言葉の意味を理解したのと、綾奈がテンパった悲鳴を上げたのとはほぼ同時だった。
「ふぇえええ!? わ、私が、サ、サ、サインなんてそんな! そ、それにファン!?」
理解の許容限界を超えたかのように激しく狼狽し、目を回わす綾奈。……基本的に他人への耐性がないのに、サインを求められたら確かにこうもなるわな。
「ま、まぁまぁ、落ち着けよ」
「で、でも、私がサインなんて……。総真さぁん、助けてください」
「助けるもなにもないと思うんだけどな……ははは」
俺は苦笑いしながら助けを求めてすがりついてくる綾奈を見た。人見知りの綾奈には少し気の毒ではあるものの、はたから見たらなんとも微笑ましい。
「書いてあげたら? 綾奈の戦いぶりを見てくれたんだからさ」
「……私の戦いを?」
俺が諭すように言うと、綾奈は少し落ち着いたのか、その言葉を聞き入れてくれた。そこに続いてファンだと言った女子が言う。
「はい! 私、最初から目をつけていたんです。なんて言ってもあの『月神聖斗さんの妹さん』ですから!」
――っ! まずい! それは綾奈の前では禁句だ! 俺はチラリと綾奈を見た。案の定、綾奈の表情が陰ってしまう。しまったな……でも今さら追い払うわけにもいかないし。
俺がそんなことを思っている中、ファンの子は言葉を続けた。
「でも、試合が始まったらそんなこと忘れていました。相手の攻撃を華麗に躱す身のこなしに。そして相手を一撃で沈めた術攻撃に見惚れていました! 一瞬でファンになってました!」
「わ、私の戦いに見惚れた……?」
「はい! すっごくかっこよかったです! なので、できたらサイン貰いたいなって! 駄目ですか?」
「い、いえ! 駄目なんてことはないです……」
綾奈はそう言うと、ファンの子から恐る恐るサインペンを受け取った。そして、次に受け取ったサイン色紙に自身の名前を書いていく。
「は、ははは」
思わず俺の口から笑いがこぼれた。――なんだ、まったく心配いらないじゃないか。最後まで話を聞かずにいろいろ考えてしまったことを綾奈にもこのファンの子にも謝りたい。そうだよな……綾奈は試合中、聖斗さんのことなんて考えずに全力で戦っていたわけだし、ファンの子だってその綾奈の姿を見てサインを貰いに来たのだ。そこに俺の下手な邪推が介入する隙間なんてないよな。……ごめん、綾奈。
俺は心の中で綾奈に謝った。当の綾奈はサインが書き終わったのだろう、ペンと色紙をファンの子に返していた。
「どんなサインなんだ? 見せてもらっていい?」
俺は気を取り直してファンの子に尋ねた。
「はい! これです!」
「えっ? や、やめてくださいよ! 総真さん」
慌てて止めに入る綾奈だったが、それより速くファンの子からサインが公開された。そこには、サインペンで書いたとは思えないほどの達筆で『月神綾奈』と書いてあった。――というか、かっこよすぎるだろ! なにこれ!? サインペンでどうやったらこんな筆で書いたような感じになるんだよ!
「……綾奈、もしかして密かに練習してた?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
顔を真っ赤にして自身のサインを隠そうとする綾奈はとっても可愛いかった。そんな綾奈にファンの子がお礼を言う。
「ありがとうございました! これからも頑張ってください!」
「えっ……は、はい! が、頑張ります!」
その言葉を受けて、律儀に頭を下げて対応する綾奈に思わず頬が緩む。あー、もぉホント可愛いなぁ……。
そんな綾奈の姿を見て癒されていたその時、綾奈ファンの子と一緒に来た女子が満を持して声を発した。
「あの、私もサインを貰っていいでしょうか!?」
そう言って差しだされた色紙の正面にいたのは、エンフォードだった。
「わ、私か!?」
エンフォードも当然こういったことには慣れていないようで、少し驚いたようにして聞き返す。すると、エンフォードファンの子はコクリと頷いて言う。
「その……アリスさんすごく綺麗で。それに外国の人なのに日本人の中に飛び込んで戦っているところとかを見て憧れてしましました! サインください!」
素直に率直に、エンフォードのすごいところを言い当ててくれる。この子もホントによくエンフォードのことを見てくれていたんだなってことが分かった。
「分かった。そこまで見てくれたんだ。サインくらいしよう」
エンフォードもファンの子の言葉にまんざらでもないようだ。少し赤らめた顔で、照れ隠しなのかファンの子の顔を直視せずにペンと色紙を受け取った。そして、一気にペンを走らせた。
「こ、これでいいか?」
そう言ってエンフォードが色紙を返す。どれどれ……覗いてみよう。
「うぉ! すげぇな!」
その色紙の上には、見事な曲線を描いて英語のサインがしてあった。まさに日本人よ、これがサインだ! って感じだ。
「さすがイギリス人! かっこいいなぁ」
「――っ! う、うるさいぞ! 山代総真!」
……怒られたぞ。俺はサインを褒めたはずなのに……。
「あ、ありがとうございます! これからも応援します!」
「あぁ! これからもよろしく!」
色紙を受け取ったエンフォードファンの子は、嬉しそうに言う。その子にエンフォードも流麗な顔をほころばす。さっきの俺への態度とはえらい違いだ。
「ホントにありがとうございます! これで失礼します!」
「頑張ってください!」
二人の女子はそれぞれもらったサイン色紙を大事そうに胸に抱えると、手を振りながら歩いて行く。俺は関係ないんだけど、そんな姿を見ていると頑張ろうって思えてきた。
「むー……」
――が、そうじゃないやつもいたみたいだ。俺の背後から聞こえたこの不満そうな声は。
「明華……」
名前を呼びながら俺は振り返った。顔を見るまでもないが、見るとその整った顔に不機嫌と書いてあった。……お前、その顔は人に見せれんぞ。
「……どうしたんだよ」
脱力しながら、原因の分かりきったことを聞く。
「私だけサインなかった」
「…………」
予想通り過ぎて泣けてきた。こいつはホントに……。
「しかたないだろ。お前はさっきの試合、俺のサポートをしててあんまり見せ場なかったんだから」
「そうだけどさぁ……私だって……」
頬を膨らませてブツブツとなにやら文句を言う明華。……やれやれ。
「お前は頑張ったよ。誰かが見てなくても俺が見てた。サポートありがとうな」
これ以上いじけられても困るので、フォローを入れてやる。と同時に頭に手を置いて軽く撫ぜた。
「ホント? 私、頑張ってた?」
すると、さっきまでの不機嫌顔はどこへやら、一転して目を輝かして明華が聞いてきた。
「あぁ、頑張ってたよ。それに、サイン書いてないのは俺も同じだろ?」
「えへへー、そうだよねぇ! 総君も書いてないもんねぇ」
そこでもう一言フォローを追加してやると、今度は完全に笑顔になる明華。ホントに分かりやすいやつ。
「総君と一緒だねー」
「まぁ、そうだな」
なにが嬉しいのか分からないが、『一緒』という単語を強調してくる。……なんなんだ、一体。
俺が明華の謎のテンションに首をひねった時だった。クイックイッと制服の裾を引っ張られた。
「ん?」
なんだろう? と思って振り返った。しかし振り返った先に人の姿はない。あれ? おかしいな……。
不審に思っていると、どこからか声が聞こえた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
声の方向を見た。声は俺が見ていた箇所より下から聞こえていた。頭を下に向ける。すると、その場所には一人の女の子が立っていた。小学校低学年くらいの可愛らしい子だ。
「どうしたの?」
俺が聞くと、その子は子供らしい元気な声で答えてくれた。
「あのね、サインください!」
「えっ? 俺の?」
ビックリしてその子に真面目に聞き返してしまった。
「うん! さっきね、お兄ちゃんが剣でズバッと敵さんを倒してたでしょ! あれすっごくかっこよかった! だから、ちーのおさいふにサインしてください!」
そう言って女の子――名前はちーちゃんみたいだ――は首から提げたこれまた可愛らしい白ウサギの財布と、どこから持ってきたのか油性マジック大を渡してきた。
サインを頼まれたのは嬉しいのだが、こんな可愛い財布に俺の名前を、しかも油性マジックの大で書き込むのには罪悪感がある。しかし女の子が向けてきている期待のこもった視線を無下にすることは俺にはできそうにない。……えぇい、しかたない!
俺は白ウサギの財布の裏面、あまり目立ちそうにないところに自分の名字である『山代』の文字を少し崩した文体で書いた。芯のサイズがでかいため思ったようにはできなかったけど、なんとかうまくいったんじゃないかな。
「はい、これでいい?」
「うん! ありがとう! お兄ちゃん!」
俺の手から財布を受け取った女の子は、早速サインを見ると本当に嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔を見ると、俺もなんだかんだでサインしてよかったなと思えた。
「それじゃあね! バイバーイ!」
「バイバイ。またね」
女の子が手を振って去っていく。俺もその子に向かって手を振った。なんだか心が温まったな――と、その時またも背後になにかを感じた。負のオーラ満載の鋭い視線だ。
「あ……」
振り返ると、さっきよりかなり不機嫌な顔の明華がいた。
「ま、まぁ今のはしかたないだろ? 断るわけにもいかないし」
あくまで不可抗力だということを強調する。だって本当にそうなのだからしかたない。あんな無邪気な女の子の頼みを断ることなんてできるわけないだろ? そんな意味も込めて明華に視線を送ると、明華は渋々といった感じだったが頷いてくれた。
「よしよし、これにて一件――」
「総君のロリコン!」
「……おい!」
「や、山代総真……お前、そうなのか……?」
「違うわ! って綾奈まで俺から距離を取らないでくれ!」
とんでもない誤解を受けた俺は、このあと試合が始まるまでの間、必死の弁解を重ねるはめになった。