三.
その日の夕方、俺は寮の自分の部屋にいた。
寮といっても校内にあるわけではなく、学校側が周辺のマンションなどを丸ごと借り上げて学寮と呼称しているだけだ。
俺の住む場所は、学校から徒歩で五分ほどのところにあるマンションの207号室で、間取りは2LDK、一人で住むには広すぎるくらいだ。
贅沢なことだが、他の生徒もみんなこうなのかというと、そうではなくて、普通は一部屋に二人から三人で住んでいるようだ。俺が一人なのは、『《特待生》の特権』というやつらしい。
「この荷物どうするか……」
持ってきたのはいいが、まだ半分以上段ボールに入ったままの私物をどうするか思案のしどころだ。
「いきなり新しい荷物も増えたところだしな……」
両手に持ったレジ袋から見えるのは、大量のおかしとリンゴジュース、そして歯ブラシなどの日用品だ。
もちろん俺のものではない。――明華のだ。
学校からの帰り道にあるドラックストアで、朝の約束通りジュースとともに追加のおかしを買っていた。
そこで明華が急にいろいろと日用品を買い始めたからおかしいとは思っていたのだが――
「はい、総君。これ持って帰って」
「なんだこれ?」
「えっと、おかしとジュースと、あと日用品」
「それは見れば分かる。お前のじゃないのか?」
「私のだよ?」
「じゃあ、なんで俺が……まさか」
「そっ! お泊りセット!」
こういうことを平然と言いきるからたちが悪い。しかも笑顔で。
確かに昔はよく俺の家に泊まりに来ていたし、よく一緒に寝たりもしたが、高校生ともなると話は別だ。
「レシートあるか? すぐに返品しに行こう」
「残念でした! そう言われると思って、もう丸めて捨てたもん!」
「そう言われると思うんなら、最初から買わないでほしいんだが……」
誇らしげに言う明華の顔を見て、俺はガックリと肩を落とす。
「……とにかく、俺は持って帰らないぞ」
「えぇ! なんで!?」
いや、今の流れからなんで驚くんだ! 当然の流れだっただろうが!
俺が心の中でツッコんでいる間に、明華の瞳がみるみる涙目になっていく。
「……総君、だめ?」
そして、その潤んだ瞳で見つめてくる。
「……中学校の時も一緒に寝たのに?」
「ちょ、ちょっと待て! 一緒に寝たのは小学校までだろ?」
突然出てきた身に覚えのない話を、俺は必死に否定する。
「寝たよぉ! うちと総君の家族が旅行に行っちゃった時、私が泊まりに行ったでしょ!」
しかし、否定する俺に明華は頬を膨らませながら反論してくる。
……そういえばそんなことがあったような気もする。
明華のあまりの剣幕に記憶を思い返してみると、確かにそれに該当するような記憶が蘇ってきた。
「けど、あの時はお前が勝手に俺の布団に潜り込んできたんだろ!」
そう、確かに朝起きたら明華が俺の背中にぴったりとくっついて寝ていたことがあった。
だがそれは俺の同意があって寝たわけではない。不可抗力だ。ただ――
――あの時の明華の寝顔はむちゃくちゃ可愛くて、思わず抱きしめてしまいそうになってしまったなぁ……ってそんなことを今思い出してる場合じゃなくて!
完全に蘇った記憶と、目の前の涙目の明華の顔が重なって、俺は少し顔を反らしてしまう。
なにかいけないことを思い出したような気恥しさがあった。
「あ、あの時とは事情が……」
顔を反らしたまま俺が言うと、明華が上目遣いに懇願してくる。
「ぐすっ……どうしてもだめ?」
「どうしてもだめだ!」と言えば終わったのだろうが、涙目の明華を見ていると、その言葉をどうしても言い出すことができなかった。
『女の涙は武器』と言うが、少しでも意識的にやるやつには反抗することは容易い。
けど、明華の場合は完全に無意識だ。それ故に無敵なのだろう。――かく言う俺も勝てたためしがないのだが……
だから今回も思っていることとは正反対の言葉を口にする。
「――分かったよ! とりあえず持って帰る。けど、泊まりに来ていいとは言ってないからな! いきなり来たりするなよ」
毎回、こんな風に大甘な決定を下すことになる。
「……ホント?」
「本当だ。だから泣くな」
「うん! ありがとう、総君!」
そう言って明華は満面の笑顔を向けてくる。
この大甘な決定をすると、大抵後々苦労することになる。だが、明華の笑顔を見るとそんな苦労も吹っ飛んでしまう。
幼馴染とはいえ、まったく不思議な効果を持つ笑顔だ。
……まぁ、おかげでいきなり苦労している俺がいるわけだが。
三十分ほど前の自分に少々悪態をつきながら、明華の荷物の処遇に頭を抱えていた時、
ピンポーン!
甲高いインターホンの音が部屋に響いた。
「誰だ?」
とっさに明華の顔が思い浮かぶが、先ほど別れたばかりで来るにしては早すぎる。
しかし他にここを尋ねてきそうな人の顔は思い浮かばない。
管理人か誰かだろうか。
「はーい」
とりあえず生返事を一つすると、いつもの癖で覗き穴から外の様子を確認しないでドアを開いた。
「…………えっ?」
そして、そのままの体勢で俺は固まってしまった。
予想外の人物が教室で会ったときの姿のまま立っていたから。
それが、俺の中で一番そこに立っているはずのない女の子だったから。
「こ、こんにちは……」
女の子が気まずそうにぺこりと頭を下げた。
トレードマークといえるポニーテールが体の動きに合わせてぴょんと跳ねる。
「な、なんで……?」
あまりの驚きにうまく口がまわらない。
「あ、あいさつをしたくて……教室で、無視してしまいましたから」
「だからって……」
――なんで俺の部屋まで来るんだよ?
頭では思ったものの、続きを言葉にできない。
昼休み終了間際の光景が頭の中にフラッシュバックする。
「教室では、その……み、みんながいて、恥ずかしかったので……」
いや、おかしいだろ! 男の部屋に一人で尋ねてくる方が、絶対恥ずかしいに決まっている。
「……迷惑でしたか?」
俺の反応が芳しくないのを察知したのか、目の前の女の子は不安そうな顔になる。
「い、いや、そんなことはないよ。ただ、驚いて……」
この言葉は本当だ。
こんな可愛い子が来てくれることが迷惑なんてことはあり得ない。
この状況についていけていないだけだ。
「よかった。――それでは」
その女の子は俺の言葉を聞いて安堵した表情を見せる。
そして深呼吸をした後、俺の方をまっすぐに見て言う。
「は、はじめまして。私の名前は月神綾奈です。これからよろしくお願いします」
その女の子――月神綾奈は小さく微笑んだ。
夕日をバックに微笑む月神は、本当に、本当に可愛かった。