五.
入っていくと言っても、このフロアの店は、店と通路が仕切られているわけではない。床の色などの違いから区分けはされているが、基本的に開放型の店舗だ。ブースという呼び方がしっくりくる。
しかし、ペットショップのみ少し構造が違っていて、店と通路は他と同じだが、逆に店内で仕切られている場所がある。店の一角を占めるガラス張りの空間だ。『ふれあいコーナー』と書かれたこの中で、ゲージに入った動物を放し、触れ合うことができるようだった。すでに先客がいるようで、中では猫が数匹放されている。
このペットショップ『ワンニャン広場』は、その名前の通り犬と猫を専門に扱う店のようだった。ゲージに入っている動物はもちろんのこと、陳列棚に並ぶ商品も犬か猫用ばかりだ。
「可愛いー!」
「本当ですね!」
そのゲージの一つに、明華と綾奈が張り付いていた。ゲージの中は、どうやら犬のようで、説明文には『ビーグル』とあった。よく見かけるポピュラーな犬種だ。明華の肩越しにヒョイッとゲージの中を覗くと、まだ幼いビーグルと目が合う。確かに可愛い。
「持って帰りたいなぁ」
明華がため息をつく。もし、これが捨て犬だったら、間違いなく連れて帰って来ているだろう。
「小型犬っていいですよね」
綾奈もうっとりした表情でビーグルを見つめていた。ただビーグルは成長すると、意外と大きくなるんだけどな。分類は確か中型犬だったし。
「ねぇ、総君。この子触らせてもらえないかな?」
「今は駄目じゃないか? ふれあいコーナーには猫が入っているし」
明華にそう答えながらふれあいコーナーの様子を窺う。大人が三人と子供二人の姿が見えた。大人のうち一人は店員のようで、子供を含めたあとの四人が家族のようだった。両親は、すでに飼うことを決めたのか、薄茶と白の毛並みをしたアメリカンショートヘアに興味津々だ。対応をする女性店員の話を真剣に聞いていた。子供は男の子と女の子で、女の子は数匹の猫に囲まれて、ご満悦の顔をしている。一方の男の子の方は、つまらなそうな顔で出入り口のドア近くに立っていた。
あれじゃ、まだまだ時間かかりそうだな。
そう判断し、あきらめろと明華に言おうとした時だった。出入り口に立っていた男の子が、我慢の限界とばかりにドアを力強く開けて、ふれあいコーナーから出てきた。それだけならよかったのだが、開け放たれたドアが閉まりきる前に、たまたま近くにいた灰色の毛並みをした猫が、外に出てしまったのだ。
「あっ! ペルが!」
女性店員が気づいて声を上げるが、その時にはすでに猫は店外に走り出ていた。
「明華、綾奈、ここにいてくれ!」
「総君? どうしたの!?」
驚く明華の声を後ろに、俺はすでに走っていた。人ごみの中をスラリスラリと抜けていく灰色の猫を追いかけるために。
……とは言え、俺は人間だ。猫のようにスラリスラリと人ごみを抜けるわけにはいかない。あっちに押され、こっちに押されしながらなんとかその後を追う。見失いそうになりながらも、なんとか追いかけられているのは、猫が時々なにかを探すように立ち止まるおかげだった。
追いかけること約十分、右に行き、左に行き、上ったり下りたり――なんとエスカレーターでだ――しながらもついて行く。その末に猫がたどり着いたのは、とある階の空店舗だった。賑やかなデパートの中で、そこだけがひっそりとしていた。しかし、次の店が入ることは決まっているのだろう。『改装中立ち入り禁止』の看板が立てられ、店の周りは材料飛散防止目的の白い板で囲まれていた。その板の隙間、人一人がなんとか通れるくらいの間に猫が軽やかに入っていく。
おいおい、勘弁してくれよ。
自由奔放な猫の姿に呆れながら、俺も続いてその隙間を抜けた。入ったらまずいかな? っとも一瞬思ったが、誰かを呼んでいるうちにまた猫に逃げられたら大変だ。
なんとかここで捕まえないとな。そう思いながら、猫が曲がっていった角を同じく曲がった。そこで俺は息を飲んだ。曲がった先に人がいた。
店内は薄暗かった。白い板で囲んでいるためだ。しかし、その板の隙間から漏れる光に少し神秘的さを感じた。
その店内の薄暗い場所にその人はいた。まさか人がいるとは思っていなかったから驚いてしまう。
……本当に人なのか? もしかしたらさっきの猫が化けたんじゃないか? 猫って何年生きたら化けるんだっけ? 二十年? 十年? そもそもペットショップの猫ってそんなに生きてないよな?
俺の頭の中は混乱していて、余計な考えが浮かぶ。
「……誰? あなた」
そんな俺に静かな声が問いかけてくる。それが目の前の人物が発した声だということに気づくのに数秒かかった。
「あ……えっと……ね、猫」
慌てて答えようとするも、舌がうまく回らない。要領の得ない単語だけが口から出るだけだ。
「……猫?」
そう言いながらその人物が一歩踏み出す。シルエットと化していたその人が光の中に浮かび上がった。
猫、か?
その人――その女性の容姿を見て、俺は改めてそう思った。
小柄でしなやかな肢体。黒い瞳を宿す目は、少し目尻が上がっていた。そのせいもあってか、その整った面立ちはシャープな印象を与える。そしてなにより目を惹くのは、その髪色。先ほどまで追いかけっこをしていた猫と同じ灰色だった。しかし暗いイメージはない。ツーサイドアップでまとめた腰の辺りまである長い髪は、隙間から射す光の中で煌めいてとても綺麗だ。
「はい、猫です。灰色の毛並みをした」
俺は少し警戒しながらも、彼女の問いに答える。あえて毛並みのことも言ってみた。飛躍しているかもしれないが、もし彼女が本当に『化け猫』ならば、対処しなければならない。俺だって一応陰陽師の端くれなのだから。
そう考えていた時、彼女がスッと左手を上げた。一瞬身構えた俺だったが、彼女の左手は、部屋の隅を指差しただけだ。
「……猫なら、あそこにいる」
「えっ?」
驚いて彼女の指差す方向を見ると、その先に探していた猫がいた。愛らしい瞳でこちらを見ている。
「い、いた!」
「……待って」
猫に駆け寄ろうとした俺の肩が引っ張られる。振り返ると、すぐ後ろに彼女の顔があった。その表情は、先ほどからまったく変わっていない。常に無表情だ。
というかいつの間に……?
彼女とは少し距離があったはずなのに、少し目を離した間にその距離を詰められていた。
「な、なに?」
「……強引すぎ。怖がる」
「は?」
それだけ言うと、彼女は俺を押しのけて猫に近づく。そして、
「……猫、おいで」
膝を曲げると、猫に向かって手を伸ばし呼びかけた。しかし猫の方も警戒しているのか寄ってこない。
無表情で呼びかけているそっちの方が怖いんじゃないか? そう思ったりもするが、確かにさっきは強引だったかもしれない。俺は一息つくと、まだ呼びかけている彼女に言う。
「ペルだって」
「……?」
彼女が不思議そうな顔――表情は変わっていないからたぶんだけど――をする。
「その子の名前。店員が呼んでた。たぶんペルシャ猫だからペル」
「……そう」
彼女の視線が俺からまた猫に戻る。
「……ペル、おいで」
そして名前で呼びかけた。すると、猫はゆっくりと彼女に近づく。彼女は猫を優しく抱き上げた。
「……可愛い」
腕の中に納まる猫を見て、彼女の口元が少しだけ笑った気がした。
「……はい」
「――よいしょ、と」
彼女から猫を受け取った。逃がさないようにしっかりと抱く。しかし猫は、外の世界に満足したのか、俺の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らして大人しくしている。
「ありがとう。……えっと」
「……お礼なんていい」
そう言う彼女の左胸に目が行く。見慣れた印がそこにあった。赤いラインの『八卦印』、そしてその中に『月』の文字。
うちの制服!? 猫に気が行っててまったく気がつかなかった。
「君も《澪月院》なのか!?」
俺の問いに彼女はコクリと頷いてから言う。
「……五年生」
「ご、五年生?」
思いっきり年上だった。見た目的には間違いなく年下なのに……。
「あ、ごめん――じゃなくて、すいません」
「……いい。気にしてない」
彼女はそう言うと、俺の横を通り抜け、店から出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて呼び止めようとしたのがよくなかったのかもしれない。腕に力が入ったためか、驚いた猫が体を捻って逃げようとする。
「あぁ、すまん! よしよし」
腕の位置をうまく変更してやると、猫は再び満足そうに大人しくなった。
「あ……」
しかしその時には、同じ学校の服を着た彼女の姿はなかった。
「名前、聞きそびれたなぁ……」
俺がハァっと一つため息をつくと、腕の中の猫が励ますようにニャアと一つ鳴き声を上げた。