十二.
「なんで総君がベッドで寝ないの!?」
「お前が俺のベッドで寝たいって言ったからだろ!」
あの衝撃的な出来事から数時間後、今日の行事もあとは寝るだけとなった時、またしても明華がごねだした。
理由はものすごく安易に予想できるが、『寝る場所』についてだった。
「総君のベッドで寝る!」と言い出して聞かない明華に、俺もついに――もとい、また折れてしまい、俺のベッドを貸すことにしたのだが。
「それはそうだけど……総君のベッドで、総君と寝ないと意味ないの!」
「意味が分からん! とにかく俺はソファで寝る!」
意味不明の持論を振りまく明華を無視しながら、俺は毛布を一つ持ってリビングに入ると、その後を薄いピンク色のパジャマを着た明華がついてくる。
俺はさっさとソファに寝転ぶ――はずだったのだが、その直前で俺はその動作を停止した。
寝転ぼうとしたその部分だけ通常は藍色のはずのソファの色が違っていたからだ。その部分だけ色が濃い。
嫌な予感がして、その濃い色の部分を触ってみる。
ヒヤリとした感覚が手に伝わってきた。予想通りソファはぐっしょりと濡れている。
……あの時か。
俺は小さく舌打ちをする。
思い返すのは数時間前の出来事だ。
あの時、明華は服を着ていなかったし、体も髪も拭いていなかった。
その状態のまま、俺が驚いて飛び起きた拍子にソファに倒れ込んだのだ。濡れて当然だろう。
濡れ具合から見て、今のソファの状態で寝るのは難しいそうだ。かと言って他に寝るところもない。
床で寝てもいいのだが、体を痛めても困る。
「ねぇ、総君」
ポンポンと肩を叩かれる。
振り返ると、明華が満面の笑みを浮かべている。
「なんだよ?」
「寝るとこなくなっちゃったね」
そう言う明華の声はとても嬉しそうだ。
「床で寝ればいい」
「体痛めるよ? 総君、昔から床で寝たりするの嫌いでしょ?」
「くっ……」
俺が言い返せず黙ったのを見て、明華は弾んだ声で言う。
「だから、一緒に寝よ?」
「……ただし、今日だけだぞ」
「やった! よし、そうと決まれば早く寝よ!」
ガクッと肩を落とす俺とは対照的に、明華は飛び跳ねそうな勢いで喜ぶと、俺の手を引っ張って寝室に移動する。
寝室は学校側が支給してくれたベッドとクローゼットがある以外はなにもない。元々が広い部屋だけにちょっと殺風景に感じてしまう。
クラスの男子に聞いてみると、複数で生活している場合は、一部屋に二人が寝ているということだったので、そう感じてしまうのもしかたないように思える。
「総君、どっちがいい?」
明華が尋ねてくる。
どうやらベッドの奥がいいか、手前がいいかということのようだ。
「俺が壁側で寝るよ。その方がお前も動きやすいだろ?」
「うん、ありがとう。そうする」
「それじゃ、寝るか」
「はぁい!」
俺は頭を掻きながら布団へと潜り込む。
その後に明華がためらいもなく続く。
「電気、消すぞ」
「うん!」
リモコンを操作して電気を消す。
俺も明華も電気は完全に消してしまう派なので、部屋は真っ暗になる。
ごろりと二人そろって横になると、明華の左腕が俺の右腕に密着してしまう。高校生二人が並んで寝るには、このベッドは狭かった。
腕が触れている部分からは、布団とは違う人の体温の温もりを感じる。
……あ、温かいな。それにいい匂いもする。
ふわりと漂ってくる明華の匂いに誘われるように息を吸い込む。
明華も俺がいつも使っているボディソープやシャンプーを今日は使ったはずなのに、漂ってくる匂いは全然別物だった。
その匂いは、困ったことに明華が女の子なのだと意識させるのに十分な威力を持っていて、俺の胸の鼓動がとんでもないことになっている。
――お、落着け! 明華はただの……
「ねぇ……総君」
心を落ち着けようとした時、明華が声をかけてくる。
「ど、どうした?」
そう言いながら俺は明華の方に顔を向けずに、寝返りをうって反対側の壁の方を向く。
行動は不自然だが、この際しかたない。今は少しでも明華を遠ざけなくては……。
「昔もこうやって二人でよくお昼寝とかしたよね」
「あぁ、そうだな」
「総くんは、今みたいにいつも反対向いて寝ちゃうし」
「この体勢が一番寝やすいんだよ」
俺が意識的に無愛想に返事をすると、明華はクスッと笑った後、
「だから私もいつも総君と同じ体勢で寝てた」
そう言うと同時に俺の背中に重さと共に柔らかな感覚が走る。
「あ、明華!?」
思わず声を上げてしまう。
明華の方を見ようとするが、首を回しても見える範囲はたかが知れていて、よく見えない。
しかし明華が俺の背中にぴたりと体を寄せてきているのだけは分かった。
「総君の背中、おっきぃね」
俺の背中に顔を押し付けているためか、その声はくぐもってはいた。その証拠に、明華が呼吸するたびに背中に熱い吐息がかかる。
「分かったから! 明華、離れろ!」
俺は体を動かそうとするが、前が壁で後ろに明華がいるためにまともに動けない。
「今日はこれで寝るもん」
そう言って、さらにグッと体を押し付けてくる。
柔らかなものの感覚が強まる。なにが柔らかいのかは考えたくない。――考えるとヤバい!
血液が沸騰しているのかと思うほど、体中が熱い。そしてその熱が、俺の思考を鈍らせる。
――理性が……保てない……
俺の後ろに女の子が寝ている。
それも中学時代の人気ナンバーワンが。
しかもその女の子は自分から俺にくっついてきているのだ。そして、無防備に微笑んでいるのだ。
少し強引に体を回転させれば、その女の子は目の前だ。
手を伸ばせば触れることもできるし、抱きしめることも、それ以上のことも当然可能だろう。
これほどまでに明華のことを異性として意識したことは記憶にない。
今まで幼馴染という線引きをずっと行ってきたからだ。
だけど今日からは……今日からはその一線を踏み越えてもいい……かな
俺の気持ちが大きく揺れたその時だった。
「総君、くらえー!」
その声と同時に、俺の脇腹を複数のなにかが素早く這い回る。
「うわああぁぁ!!」
「こちょこちょこちょこちょー!」
それが明華の指だと知覚した時にはすでに遅かった。
指は、それ一本一本が意志を持っているかのように俺の脇腹を縦横無尽に這い回る。
「あはは! ちょっ! や、やめー! ぐぁはははは!」
体をねじって逃げよとするも失敗する。
明華が上から押さえつけるように覆いかぶさってきているからだ。
しかしすでに柔らかい感覚がとか、そんなものを感じる余裕が俺にはない。
本気で苦しいからだ。
俺の最大にして最高の弱点、その名も『くすぐり』。
特に脇腹は触られるだけで体の制御ができなくなるほどだ。
それを今、惜しげもなく撫で回されているのだからたまったものではない。
「まだまだ寝かせないよ!」
弾んだ声を出しながら、明華はまだまだ攻勢を緩めようとはしない。
どうやら明華は、俺が黙り込んだのを見て、さっさと寝ようとしていると勘違いしているらしい。
――冗談ではない!
勘違いで殺されるわけにはいかない。
しかも死因は『笑死』。まさに「笑止!」と誰かに言われかねない死に方である。
「――っ! い、い、いい加減にしろ!」
「あうっ!」
俺の渾身の振り向きざまデコピンが見事に明華の額に決まる。
明華が短い悲鳴を上げて、両手で額を押さえる。
おかげで俺も地獄から解放された。
「ぜー……ぜー……」
俺は荒くなった息を必死で整えながら、こっちをムッとした顔で睨んでくる明華を見て思う。
……や、やっぱりこいつは幼馴染だ! それ以外ありえん!
ほんの少し前に抱いていた感情は完全に消え去り、今後もそんなことは考えないと、俺は固く心に誓う。
「いたぁ……デコピンするなんてひどいよ」
「黙れ! むしろそれだけですんでよかったと思え!」
「変わらないねぇ、その弱点」
「うっさい! お前の首筋も同じだろ」
「私は克服したもん!」
「……ほぉ、それじゃ試してやろうか?」
「ひゃん!」
強がる明華の首筋を素早く手で軽く撫ぜる。
すると明華はビクッと体を震わせる。
「ほら見ろ。お前も全然じゃないか」
「ち、ちがっ! い、いきなりなんて卑怯!」
「その言葉をそのままお前に返すぞ」
「うぅ……」
「膨れても駄目だ。……もう寝るぞ」
「えぇ!?」
「口答え禁止!!」
「……はぁい」
そう言って俺が布団をかぶると、明華も残念そうな声を出しながらも今度は素直に従った。
「ふぁ……おやすみ、総君」
「あぁ、おやすみ」
俺はそれだけ言うと、目を閉じる。するとすぐに、俺の意識は眠気に誘われ、プツリと途絶えた。
◇
スースーと規則正しい寝息をたてながら、隣で総真が眠っている。
総真の寝つきがいいのは小さなころから変わらない。おやすみと言い合ってから五分ほどで寝てしまった。
「うぅん……」
壁の方を向いて寝ていた総真が眠ったまま体勢を変える。
幾度か体を捻った後、最終的には仰向けに落ち着いたみたいだ。
顔が天井の方を向いたため、明華から総真の寝顔がよく見えるようになった。
「総君」
名前を呟きながら、明華は総真の寝顔を見つめる。
小学校時代、よく一緒に寝ていた時の寝顔とも中学時代に一度だけこっそり総真の布団に忍び込んだ時に見た時の寝顔とも違っていた。
成長し、ずいぶんと大人びた寝顔がそこにあった。
「……無防備すぎだよ」
明華はそう言いながら指で総真の頬を軽くつつく。その言葉には、自分を信頼してくれているという喜びと、自分がそういった目でまったく見られていないことへの少しばかりの非難の色を込める。
無論、寝ている総真にその言葉が届くわけがない。――いや、起きていてもたぶん真意を総真が読み取れるとは思ってない。
「総君……」
もう一度名前を呟く。
「また、私に戦ってる姿を見せてくれるんだね」
そう言葉を続ける明華の脳裏には、総真の小学校時代の姿が甦る。
総真のおじいさんが営んでいる道場で毎日鍛錬に明け暮れていた総真。
明華には流派がどうとかはよく分からなかったが、それでも剣術を主に教えていたことは知っている。
竹刀、木刀に模造刀、そして時には真剣でさえも総真は握っていた。
重い真剣の扱いに苦労しながらも鍛錬をする総真の姿は、明華にはとても勇ましく見えたものだ。
その鍛錬の成果なのだろう。
総真は強かった。
剣道という形を取って大会で同世代の子たちと戦っても、道場内で大人たちと混ざって戦っても総真はほとんど負けなかった。
そして勝った後、明華に向けてくれる満面の笑顔が好きだった。
だけど……
「うっ、く……」
あの悪夢のような日々を思い出して、明華は顔をしかめる。
今でも根強く心の奥を蝕むあの日々の記憶。
さらにあの日々は、明華から笑顔を奪っただけでなく、同時に総真から生きがいともいえる剣を奪った。
小学校六年生の夏、総真は剣を置き、以来三年の間一度も握っていない。
けど、そんな総真が突然また戦うと言い出したのだ。
どんな心境の変化がそこにあったのかは分からない。
しかし明華にはどんな理由だろうと関係なかった。
ただただ総真について行く。
いつまでも総真に寄り添っていく。
総真のことが好きだから。
「一緒に頑張ろうね」
いろいろな思いを込めながら総真の耳に囁く。
「う、ん……」
耳にかかった吐息がくすぐったかったのか、総真は身をよじる。
総真の顔が明華の方を向く。
「あっ……」
思わず息を飲んでしまう。
総真の無垢な寝顔。
その寝顔に引き込まれるように明華は顔を近づける。
これから自分がしようとしている行為に胸が高鳴る。
(総君、ごめんね)
心の中で総真に謝る。
総真の意志と関係なく、勝手に行おうとしていることからくる背徳感で、さらに鼓動が速くなっていくのが分かった。
総真の薄く開いた唇と、自分の緊張のため無意識に固く閉じた唇が、触れるか触れまいかという距離になる。
しかし明華の動きがそこで止まる。
頭の中にある人物の顔が浮かんできたからだ。
――昨日、友達になったばかりの女の子。
――いつの間にか総真の隣にいた女の子。
――月神綾奈。
可愛くて聡明で、そして自分にはない凛々しさも兼ね備える女の子。
「……抜け駆けはなし、だね」
明華はそう呟いた後、総真から顔を離す。
「絶対、負けないから……」
明華は真剣な顔で言葉を続け、目を閉じた。
明日から始まる《八卦統一演武》の訓練ともう一つの重要な戦いに思いを馳せながら。