十一.
シャーシャーという微かな音が、リビングのソファに寝転がる総真の耳に聞こえる。明華がシャワーを浴びている音だ。
あの後、結局明華に押し切られ、泊めるはめになってしまった。
――あいつとの本気の言い合いでは勝ったためしがないな……
そう思いながら今までの記憶を振り返ると、自分の不甲斐無さに頭が痛くなってくる。
正当性はいつもこっちにあるのになぁ……
基本的に見て正しいのはいつも俺の方で、理詰めで攻めてやると、明華の言い分は一瞬にして崩壊させることが可能だ。しかし、問題は崩壊させてからなのだ。
言い分が通らなくなるとその後は「お前は小学生低学年か!」とツッコみたくなるような――いや、実際に何度もツッコんだが――我がままぶりを発揮し出す。
それでも拒否し続けると、仕舞いには涙目になりながら「総君のバカ!」である。
それ以上はない。
そこでいつも俺は降参してしまうからだ。今回もそうだった。
まったく……あれでよく他のやつに嫌われないな。
それがいつも不思議でならない。
あれだけの我がままを通そうとすれば、同級生とかから嫌われてもおかしくはないのだが、今までずっと一緒に居てきて明華のそんな噂を聞いたことがない。
……あれってやっぱり俺にだけやってるのか?
だとすると相当たちが悪い。まぁ、いつも甘やかしてしまっている俺も俺なのだが……
そんなことを一人考えている間もシャワーの音は途切れることなく続いている。
たぶん上がってくるまでにまだ時間がかかるだろう。
「くぁー……なんか疲れたな」
ソファに寝転がっていることもあって、睡魔が忍び寄ってきたようだ。あくびが出るし、目蓋が重い。
少し……寝る、か……
そう思って目蓋を閉じると、俺の意識はなにかに引っ張られるように、急速に沈んでいく。
下へ下へと誘われる。かと言って意識が途切れることはない。
下に引っ張られているという感覚ははっきりと残っていた。
――――どれくらいそれが続いたのだろうか。
かなり長いこと続いたようにも感じるし、それほどでもないようにも感じる。
突然、フワリとした浮遊感がした後、下へと引っ張られていた感覚がなくなった。
ちょうど下りのエレベーターに乗っていて、目的の階に着いた時のような感じだ。
俺はゆっくりと目を開いてみる。
当然、その目に映り込むのは無機質なマンションの天井のはずだった。
……あれ?
しかし、視界に飛び込んできたのは、透き通るような青空だった。
「え、えぇ!?」
ありえない光景に驚いて身を起こす。
「ど、どこだ……ここ……」
見覚えのない風景。
周りには深い森が広がっていて、その向こうになにがあるのかは木々に阻まれて見ることができない。
俺の寝転がっていたところだけ森が開けて、原っぱのようになっていた。。
「これは……夢、か?」
思わず頬をつねってみる。つねった頬には痛みが走った。
古典的かつ有名なこの方法、実際効果のほどは分からない。けど、その方法で試してみた限りは、ここは現実のようだ。――正直、夢といわれた方が信憑性が高いが。
立ち上がって、もう一度周囲を見回してみる。
先ほどは座ったままだったので、自分の後方までは見ていなかった。そのため、体を回転させてみる。
「……あれは?」
体を回して初めて、この空間に建物が建っていることに気づいた。
自分が立っている場所から百メートルほど向こうだ。
――家? いや、屋敷かな。
少し離れてはいるが、かなり大きな建物ということは分かる。
都会ではちょっと考えられない大きさだ。
「……行ってみるか」
そう呟いた後、もう一度周りを見回す。
やはり開けているのはこの場所だけのようで、当然人の気配もなかった。
どうやらあの建物に行ってみる他ないようだった。
俺は建物に向かってゆっくりと歩を進める。慎重に周りを確認しながら進む。
歩いて行くと小さな池が見えてきた。
池の水は澄んでいてとても綺麗だ。水面には花が――確かスイレンという名前だった――咲いている。
周りの木々がサワサワと揺れている。たぶん風が吹いているせいだ。
『たぶん』と付くのは、その風を俺自身は感じとれていないからだ。いや、風だけではない。
意識して初めて気づいたが、気温も感じていないように思う。
木は青々と茂っているし、晴天に昇る太陽の日差しの眩しさは真夏のそれだ。
しかし暑くはない。寒くもないし、温かくも肌寒くもない。
感じとれないというより、そういったものが存在しない。と言った方が適切なのかもしれない。
――やっぱり夢なのか?
じゃないと説明できないことが多すぎる。――ありえない。
そんなことを考えている間に、建物の近くまで歩いてきてしまっていた。
「でかいな……」
遠目に見て大きいものは、近くで見ても大きかった。
その建物は、やはり屋敷と形容した方が正しいようだ。
正面にこれまた大きな木造りの門があり、それ以外の場所は塀で囲まれているため、その全容は見えないが、すべてが木造建築のようで、お寺や神社のようなしっかりした造りをしている。
どっしりとしたその雰囲気は、現代の建売住宅などにはない重厚感があり、年季の入ったものを感じる。
門の前に立つ。
大人三人が真横に並んでも悠々と入れるだろうその門扉は、固く閉じられていた。
簡単に開けられそうなものではない。
とにかく誰かを呼んでみようか。
屋敷や門の手入れ具合からして、誰かが住んでいるのは明白だ。
そう思って、門を叩こうとしたその時だった。
「誰かいるのか?」
門の内側からいきなり声をかけられて体がビクッと反応し、手を上げた状態のまま硬直してしまう。
「誰かいるのか?」
もう一度門の内側から同じように声をかけられる。
その声は、柔らかな口調ではあるが、どこか威厳を漂わしている。
「誰もいないのか?」
再々に問うてくる声に、俺は一言も返せずにいた。――頭が警告を発しているからだ。
……気配がなさすぎる。
声は門のすぐ内側から聞こえてくる。ということは、当然声の主もそこにいるのだろう。
だが俺は、声がするまでその人物が門のところに立っているのをまったく感じ取れなかった。
――これはやばいかも、な……
そう考えた途端、門の内側にいる人物が得体の知れないものに感じる。
しかし問題は、その得体の知れない人物に話しかけなければ、たぶん事態が進展しないだろうという事実だ。
――話すべきか、話さざるべきか
頭の中でその二択がグルグル回る。
考えがまとまらない。不確定要素が多すぎる。
……どうする?
そう心に問いかけた時だった。
ガコッという重い音が門の内側でしたと思ったら、両開きの門扉の片側がゆっくりと開き始めたのだ。
予想外の事態に俺の頭は完全に停止していて、ピクリとも体が動かない。
これは……まずい!
このままでは門の中の人物との鉢合わせは避けられない。
――くん!
門はすでに半分ほど開いていて、いつそこから人が出てきてもおかしくない。
――くん! ……そうくん!
そして遂にその開かれた門から人が出て……
「総君!!」
大きな声に驚いて目が覚める。
「……え?」
「もぉ……うなされてるからびっくりしたよ。呼びかけても起きないし」
目覚めた俺の視界には、ホッとした表情の明華が映る。
俺は思わずその頬をつねる。
「いひゃい! いひゃい!」
「あ、ごめん」
明華の頬から手を離す。どうやら現実のようだ。
「もぉ! 起きたと思ったらいきなりなにするのよ」
「だからごめんって。ていうかお前、上に……」
「乗るな!」と続くはずだった言葉が途切れる。
少し上体を持ち上げたため、変わった視界が信じられない光景を映したからだ。
映したのは明華の姿。しかしいつもと決定的に違うのは、その体を覆っているものが白いバスタオル一枚だということだ。
かなり慌てていたようで、そのバスタオルですら巻き方が甘く、今にも胸のふくよかな部分がこぼれ落ちそうになっている。
「あ、明華! お、おま!?」
俺は慌ててソファから飛び起きる。
「ひゃっ!」
俺の体の上に乗っていた明華は、いきなり俺が立ち上がったために投げ出されるような形でソファに倒れ込む。
その時の衝撃でバスタオルが崩れ、さらに際どさを増していく。
「お前、ふ、ふ、服は!?」
タオルから覗く、透き通るような白い肢体に目を釘付けにされながら俺はなんとか言葉をひねり出す。
「着る時間がなかったの。お風呂から上がったら、総君のうめき声が聞こえてきたから体も拭かずに飛んできちゃった」
少し顔は赤くなっているものの、あまり恥ずかしがっている様子もなく明華が言う。
確かによく見ると、明華の髪はぐっしょりと濡れていて、ポタポタと水滴が滴っていた。
「だ、だからって……」
その光景はとても色っぽく、心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響く。
普段とあまり変わらない明華とは逆に、俺はかなり狼狽していた。
「だって心配だったんだもん」
「わ、分かったよ。心配してくれたことには感謝する。だけど早く服は着てくれ。女の子があんまり肌をさらすのはよくない。それに湯冷めすると風邪ひくぞ」
「……はーい」
明華が口をとがらせながら立ち上がり、風呂場に向かって歩いて行く。
その姿がリビングのドアの向こうに消えると、俺は盛大にため息をついた。
「ハァ……びっくりした」
緊張していた体が一気に脱力し、俺は床に座り込む。
――し、心臓に悪すぎる……
年頃の男には少々刺激がありすぎだ。
俺の体を心配してくれていたようだったが、あんな姿を見せられると逆にいろいろな意味で体に悪い。
――けど……
さっきの明華の姿が脳内でばっちり再生される。
なんだかんだ言いながらあの光景をきちんと脳内保存しているあたりは、俺もちゃっかりしている。
あいつ……成長したな。
どこがとは言わないが、しっかり成長していた明華の姿に、俺は思わず一人で赤面してしまう。
――いかん、いかん……あいつをそんな目で見ちゃダメだ。あいつはただの幼馴染だ。
頭を左右に振りながら、自分にそう言い聞かせて、脳内の明華の姿を振り払う。
「あ……」
そこで俺はふと考える。
「俺……どんな夢見てたんだっけ?」
明華が言うにうなされていたという夢。
その夢の内容を思い返してみようとするが、その直後に起きた強烈な記憶が再生されるばかりで、俺は夢の内容を思い出すことはできなかった。