十.
その日の放課後、俺たちは約束した通り集合した。
場所はなぜか俺の部屋。
リビングの机を挟んで、二人掛けのソファに明華と綾奈が、その対面に座布団を敷いて俺が座っている。
机の上には、そろそろ恒例になりつつある俺の煎れたコーヒーと明華が持ってきていた数種類のお菓子が広がっていた。
その中の一つ、ポテトチップスの袋に手を伸ばしつつ、明華がやる気満々で宣言した。
「では! これより第一回作戦会議を始めます!」
そう言うと同時に、ポテトチップスを口に入れ、モグモグと動かしながら手を叩く。
場を盛り上げようとするのはいいのだが、確かその手にはいっぱい塩がついていたはずだ。
……後で掃除させておくことにしよう。
一方の綾奈は、チョコチップ入りのクッキーに目がなかったようで、さっきからそればかり食べていた。しかし、いきなり明華の開会宣言があったため、クッキーを口にくわえたまま手をパチパチと叩いている。 クッキーを半分だけくわえる姿は小動物のようで、すごく可愛かった。叩く手からクッキーのカスが落ちていることは気にしないでおく。
そんな綾奈の姿を見ていると、
「総君、進行してよ」
明華が声をかけてくる。なぜかその顔は少し不満気だ。
一緒になって手を叩かなかったからかもしれない。
「俺がか?」
「当たり前でしょ。リーダーなんだから」
「……やっぱり明日にでも変更しに行かないか?」
「駄目! もう登録済ませたし、決定! ね、綾奈」
「はい、そうですね」
「綾奈まで……」
一日経ってさらに仲良くなったように感じる二人の意見に攻められる。
ぐっ……あの時、押し切られなければ……
『あの時』というのは、下校する前に《八卦統一演武》のメンバー登録に行った時のことだ。締め切りまでにはまだ時間があったのだが、俺たちは早々とメンバー集めを打ち切って登録しに行った。その理由は二つある。一つは、すでに一人だけで余っている生徒は少ないのではないかということだった。俺たちはすでに三人組になってしまったので、定員はあと一人だ。しかし三組の教室を見回してみても、一人だけ余っているという人はいないみたいだ。それは明華のいる二組も同じな様だった。
もう一つの理由は、明華がいらないと言ったからだ。それに綾奈も同調し、俺も前記の理由から望み薄と思っていたので同意した。そんなわけで、時間を残しての早めの登録をしに行った俺たちだったのだが、そこで一つの問題にぶち当たる。
それがチームリーダーを誰にするかという問題だった。
「もちろん総君でしょ!」
と、なんの迷いもなく言う明華にさすがに俺も反論した。
「いや、綾奈だろ。実力的に見て」
という当然の主張だったが、その後の明華の反論――ただのごり押し――と、綾奈の泣きそうな視線――たぶん注目を浴びるのが嫌だったのだろう――に押し切られた形でリーダーを承諾したのだった。
「まさかいきなりこんなところに影響してくるとは……」
口の中で小さく呟いて俺は顔をしかめる。
「早く早く!」
そんな俺の気持ちも知らず、明華が急かしてくる。
「ハァ……分かったよ」
俺はため息をついてから渋々進行役を引き受ける。
「さて、なにから始めようか」
やるからには頭を切り替えて、しっかりやっておきたい。
「よし、じゃあまず現状把握から始めよう」
「現状把握?」
「そうだ。お互いになにができるのかを知っておく必要がある」
「分かった」
「分かりました」
俺の言葉に二人が頷く。
「まずは綾奈に聞きたい」
「なんでしょうか?」
「綾奈は陰陽師の術は全部使えるのか?」
「いえ、さすがに全部は……攻撃系の術は苦手ですし、封印術などは扱ったこともないです」
「苦手って……あれでか?」
因みにこの時の『あれ』とは、符術の授業でのことである。
「あの時は呪符がありましたから……」
「ん? 呪符があるとなにか違うのか?」
「えっ…………」
何気ないはずの俺の一言で、また綾奈が固まってしまう。
「総君……」
明華も呆れているようだ。
……また俺は地雷を踏んだみたいだな。
昨日、綾奈に『常識はずれ』と言ったのがだんだん恥ずかしくなってきた。
陰陽師のとしての会話では、間違いなく俺が一番の常識はずれだろう。
「えっとですね……」
硬直から回復した綾奈が口を開く。
その口ぶりから、おそらく今の俺の疑問を説明してくれるみたいだ。
――ありがとう、綾奈。
俺は心の中でそっと感謝する。
「符術というのは、一部のものを除き、そのほとんどが呪符によって術の発動をスムーズに行うことができるようにしたものです」
「スムーズに発動する?」
「はい。例えば、昨日の授業で使用した破魔符『炎弾』ですが、それと同じ名前のものが破魔術にも存在します」
「破魔『符』と破魔『術』か」
「そうです。二つとも効果はまったく同じものですが、破魔術の場合は、発動時に呪文の詠唱が必要になります。これは言霊によって呪力を高めるためです」
「それが破魔符の場合は必要ないということか?」
「その通りです。総真さんは相変わらず理解が早いですね」
綾奈がそう言ってニッコリと微笑む。
そんな風に褒められると少し照れくさい。
俺は顔がニヤけてしまうのを誤魔化そうと頭をかく。
「破魔符の場合、呪力はすでに呪符に込められているため、呪文の詠唱は必要としません。ですから誰にでも割と簡単に扱えます」
「………………」
誰にでも簡単に扱えるものをまったく扱えなかった俺は、綾奈の発言に言葉が出てこない。
「総君、顔が引きつってるよ?」
そんな俺に、明華がニヤリと笑いながら言う。その理由は分かっているくせに白々しいやつだ。
「……うるさい」
俺が苦々しく答えると、綾奈もどうやら状況が分かったようで慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! そ、その、なんというか。才能さえあれば割と簡単というか。……いや、でも、決して総真さんに才能がないということじゃなくてですね!」
しかし焦ったためか、よけいに俺の胸をえぐるような言葉を言う綾奈。
これでは謝られているのか、馬鹿にされているのか分からない。
「綾奈……謝らなくていいから。すでに俺に才能がないのは分かったから……」
「あぅ……ごめんなさい」
これ以上綾奈に謝られると、たぶんもっと傷ついてしまう自分の心を守るために、俺は手を上げて綾奈を制する。
「あはは! やっぱり総君のそのネタ最高だよぉ!」
「明華、笑いすぎだ! しかもネタじゃない!」
一方で、俺の失敗談をすでに鉄板ネタかのように笑う明華には、強めの口調と鋭い視線で制止を図る。
「く、くくっ……笑って…ないよ?」
「……笑い死にしそうな顔でよくそのセリフが言えたな」
――しかしどうやらまったく効いていないようだった。
「ハァ……もういい。綾奈、続けてくれ」
まだ悶えている明華を放置することに決めて、俺は綾奈に話の先を促す。
「はい。……その符術ですが、デメリットもあります。呪文の詠唱を行わないために威力は落ちてしまいます。人によって個人差はありますが、最大でもだいたい破魔術の七割
程度の威力しか出せないとされています」
「スピードを取るか、威力を取るか、か」
「基本的にはそう考えてもらって構いません。けど、破魔術を使いこなせる方は呪文の詠唱破棄も可能ですし、符術が得意な方は呪符だけでも強力なものを出せる人もいますから一概には言えないです」
「よく分かったよ。ありがとう、綾奈」
「い、いえ……そんな」
俺がお礼を言うと、綾奈は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「俺のせいで話が逸れてしまったけど、本題に戻すぞ。――綾奈は呪符があれば攻撃系とかもいけるのか?」
「あ、はい。呪符さえあれば『炎弾』の他にもいくつかは使えます。あと守護術は少し自信があります」
俺の問いかけに反応し、すぐに真剣な表情に戻した綾奈はハッキリとした口調で言う。
「術の内容はまた聞くとして……綾奈、武術の経験は?」
「兄に護身程度には習いましたけど……あまり自信がないです」
「分かった。護身程度でも十分心強いよ」
「ホントですか? 私、戦力になれそうですか?」
綾奈が少し身を乗り出して聞いてくる。
「当たり前。ていうかこのチームの一番の戦力だから」
「そ、そんなこと……」
「そんなことあるよ。ね、総君」
「そうだな」
自分が一番の戦力だということを否定しそうな綾奈をさらに否定する明華の言葉を、俺は肯定する。
なかなかに頭が痛くなりそうな図式ではあるが、本当のことなんだからしかたない。
どんなに本人が否定しようが、間違いなく綾奈はこのチームの要だ。
「……が、頑張ります」
俺と明華の言葉に後押しされたのか、消え入りそうな声で綾奈が言う。
今まではあまり見られなかった前向きな発言を聞いて、俺は少しだけ嬉しさを感じた。
「その調子だよ! 綾奈」
そんな綾奈を、明華がさらに励ましているのを見ながら、俺はコーヒーを一口啜る。
――さて、とりあえず綾奈はこれでいいとして、次は……
まだまだ綾奈にも聞きたいことはあったが、時間の関係上、話を先に進めるべきだと判断した俺は、進行役らしく場を進めるために口を開く。
「次は明華についてだな」
そう言うと、明華が俺の方を見て不思議そうに言う。
「私のことはなら、総君はよく知ってるでしょ? 今さら言わなくても」
知らない人が聞けば、一発で誤解されそうな発言を当然のごとく言う明華に、俺はまたドキッとしてしまう。
「ま、まぁ、大抵のことは知っているけども……」
そしてさらに、明華の発言を事もあろうに肯定してしまった。
「なら、いいじゃない」
「い、いや、よくない!」
「なんで?」
あっさり話を終わらせようとする明華を俺は慌てて止める。
ここで話が終わってしまってはなんにもならない。
「俺が知りたいのは、お前の陰陽師としての実力だよ。クラス別だし、完全に把握してないからな」
「それも知ってるでしょ。火花が出る程度だって」
「お、おぉ……」
「私が武術系は全然なのも知ってるし」
「うーん……」
「ね? 全部知ってる」
「た、確かに……」
――結局言い負かされてしまった。改めて思うと、俺は明華のことを本当によく知っているようだ。
それは明華が俺に包み隠さず話してくれているという証拠だ。
そう思うとやっぱり嬉しい。
幼馴染として、明華が俺を信頼してくれるのがよく分かるから。
「総君……全然分かってない!」
「えっ?」
まさに今、考えていいたことを否定されてしまう。
「どうせ、私が幼馴染として信頼してるとか思ってたんでしょ?」
……なぜ分かる。
「分かるよ。それくらい」
「俺の思考と会話しようとするな!」
俺の心の声と簡単に会話を成立させる明華に思わずツッコむ。
恐るべし、明華の読心術。ある意味生半可な破魔術なんかよりたちが悪い。
「ま、まぁいいや。綾奈」
「……はい」
少し変な雰囲気になってしまったので、気分を変えようと綾奈に声をかけた。
しかし返ってきた返事はどこか重い。
「綾奈?」
「……どうかしましたか?」
本人は平静を装っているようだが、嘘が下手な性格からか怒っているのが丸分かりだ。
しかし俺にはなぜ綾奈が怒ってしまったのかは分からない。
「えっと、明華のことを聞きたかったんだけど……」
綾奈の静かな怒気に押されて、俺の言葉は尻すぼみに小さくなっていく。我ながら情けない限りだ。
「なんでですか? 明華のことなら総真さんが一番知ってるんじゃないですか?」
投げやりがちな綾奈の言葉に気圧されながらも、俺はなんとか言葉を続ける。
「いや、聞きたいのは術についてだ。明華の符術は今言った通り火花が出る程度なんだけど、これはあと一ヶ月である程度形になるものなのか?」
「……なると思いますよ。火花が出せたなら、ある程度のレベルまでは案外簡単に行けます。一ヶ月あれば十分戦闘レベルになると思います」
「本当か?」
ムッとした顔をしながらも、俺の質問に答えてくれて、ちゃんと頷いてくれる。
怒っていても根は変わらない。
そんな綾奈には素直に好感が持てる。――まぁ、だからといって機嫌がよくなるわけではないのだが。
「……私、今日は帰ります」
そんなことを考えていると、綾奈が突然立ち上がって言う。
「もう帰るのか?」
昨日、一昨日と比べるとまだ早い時間だ。作戦会議の途中でもあるし、できれば思う少し話したい。
「はい。すいません」
しかし綾奈の意志は固いようで、そう言うと玄関の方に歩いて行く。
……そんなに怒ってるのか。
案外事態は深刻なのかもしれない。というかチーム発足から五、六時間ほどでこの展開は普通にまずい。
「明華、ちょっと待っててくれ」
そう明華に言ってから俺も立ち上がって綾奈を追う。
リビングを出て廊下に行くと、綾奈はすでに靴を履いて玄関のドアを開けて出て行くところだった。
「綾奈」
俺が呼びかけると、ドアの外で綾奈は振り返る。
「……なんですか?」
「その……すまなかった。気分を悪くさせたみたいで」
「……総真さんが謝ることないですよ。悪いのは私です」
「でも、その原因を作ったのは俺だろう?」
「それは……」
口ごもる綾奈。やっぱり原因は俺のようだ。
「あ、明日には戻ってますから……だから、今日は帰ります」
そう言う綾奈の顔は、怒っているというよりも悲しげだった。
「それじゃ……さようなら」
綾奈は軽く頭を下げると、ドアから手を離す。
自由になったドアはゆっくりと閉まっていき、外廊下に立つ綾奈の姿を隠していく。
「綾奈、待ってくれ!」
ドアが完全に閉まる寸前、俺はドアに手をかけて押し開く。そして外廊下に飛び出した。春の夜、コンクリート張りの廊下は冷たかった。足の裏に伝わるその冷気を受けて初めて、自分が靴下のまま廊下に出ていることを知覚した。
しかしそれは些細なことで、今は目の前で驚いた顔で振り返った綾奈に意識を集中する。
「綾奈、今日はありがとう。チームに入ってくれて、無知な俺の質問に全部答えてくれて。本当に嬉しかった」
綾奈がなんで怒ってしまったのかバカな俺には分からない。
だからその代わり、せめて今の正直な気持ちを伝えようと思った。
このままなにも伝えないで綾奈を帰したくなかったから。
「わ、私も……」
少し間があって、綾奈が呟くように言う。
「私も嬉しかったです。チームに誘ってくれて、私の話を全部聞いてくれて」
そして言い終わると同時に、その顔には笑顔が浮かぶ。
いつもの笑顔ではなくて、ちょっとまだ違う感情が混じっているような複雑な笑顔だったけど、それでも笑ってくれていた。
「今日もありがとうございました」
「うん」
綾奈の言葉に相づちを打つ。俺の顔からも笑顔がこぼれる。
「それじゃ、また明日です」
「あぁ、また明日」
そう言って、また軽く頭を下げて綾奈は歩いて行く。
その姿が階段のある角を曲がって消えるまで俺は動かずにいた。
さっきまで感じていたモヤモヤとしたものはなくなり、気分は晴れやかになっていた。
――また、明日な。
心の中でもう一度そう呟いてから、俺は玄関のドアを開けて中に入った。
靴下を軽く払ってから部屋に上がって、リビングに行く。
リビングに入ると、一人テレビを見ていた明華がこちらを振り返る。
「綾奈、どうだった?」
「大丈夫そうだよ。最後は笑ってくれた」
「ふーん……」
「なんだよ」
「なんでもない」
どこか不満そうに明華が呟く。
……今度はなんでこっちが不機嫌になってるんだ?
明華の反応も俺にはさっぱり分からなかった。
「とにかく、今日の作戦会議は終了だ。今日はもう帰れ」
「分かった。今日は泊まるね」
「そうそう、今日は泊まれ……」
軽く明華に相づちを打っている途中で、なにかおかしいことに気づく。
「そうと決まれば、お風呂沸かそー!」
「……ちょっと待て」
「なに?」
「なに? じゃないわ! 誰も泊まっていいなんて一言も言ってないぞ」
「今言ったでしょ!」
「あれはお前に釣られただけだ」
「言ったことには代わりないもん!」
「大ありだぁー!」
その後、この言い合いが小一時間続いたのは言うまでもない。
◇
コツコツと自分が歩くたびに鳴る音が辺りに響く。その音を聞きながら、少女――月神綾奈は自宅へ向かって歩くいていた
春先であることから、すでに太陽はその姿を完全に隠してしまっている。しかし時間はまだ宵の口、立ち並ぶ住宅には明かりが灯っている。この辺は住宅地なので、夜であっても明かりには苦労しない。
建っている住宅は、そのほとんどが真新しい。近年の宅地造成で造られた新興住宅なのだろう。
この辺は《澪月院》からほど近い。たぶん住んでいる層は、ある程度の収入を得ている人たちだ。
この地域の貸し物件や土地価格は、《澪月院》にどれだけ近いかで決まる。もちろん近い方が高い。
なぜそんなことになっているかと言うと、《澪月院》と市の間で取り決めがなされているからだ。
その取決めとは、
『《澪月院》から半径三キロの範囲で起こった心霊現象については、《澪月院》常駐の上級陰陽師が、迅速かつ無償で解決に当たる』
と言うものだ。
これは一般人にとっては非常に大きなメリットだ。
今の世の中、霊絡みの事件は多い。
しかしそれに対する陰陽師の人数は、決して足りていると言えるものではない。
よって、市に相談しても事件が重なってしまうと順番待ちをしなければならない。
しかも通常そういった事件の担当は下級陰陽師が行うことになっている。下級陰陽師と上級陰陽師では、力量の差は歴然としてある。
ならばと、速さを求めて民間陰陽師に依頼すると料金が発生する。
有名なところに行けば、確実ではあるがその分余計なコストがかかる。かといって安すぎるところは信頼性に欠ける。
一般人から見れば、これほど『胡散臭い(うさんくさい)』商売も他にない。
なにせ相手にしているのが、自分には見えない『霊』なのだから。――まぁ、そういう点では、『病』を相手取る医者も同じだと言えなくはない。
だからこそ《澪月院》の近くに住むということは大きな意味を持つ。これは全国にある他の七校がある地域でも変わらないだろう。
そして、その代わりに《澪月院》は広大な土地を所有しているし、それを運営している資金を得ることもできているのだ。
そんなことを考えて歩いていると、自分の脇を正面から来た風が掠めていく。その風はまだ冷たい。
風にあおられたからというわけではなかったが、綾奈はそこで一旦歩みを止めた。
同時に今まで鳴っていた音が止む。アスファルトと自分の靴が奏でていた打音なのだから当然ではある。
綾奈が振り返る。
その視線は、さっきまで自分がいたマンションに向けられる。
(嬉しかった、か)
綾奈の思考が切り替わり、頭の中に浮かんできたのは、別れ際に見せてくれた総真の優しい笑顔だった。
「――っ」
その顔が浮かぶと同時に、自分の体温が上がっていくのが分かった。そして心臓の鼓動が速くなる。
二日前の登校初日、思いがけない形で声をかけてきてくれた男の子。
昨日、兄のことで泣いてしまった自分を優しく諭してくれた男の子。
そして今日、《八卦統一演武》へ参加しようと誘ってくれた男の子。
――この三日間、綾奈の生活は間違いなく総真中心で回っていた。
そして自分の心の中を総真が占める割合は、日に日に大きくなっていく。
(私は……総真さんのことが好き、なのかな?)
自分の心に問うてみる。けど、問うまでもなくその答えは決まっていた。
「好き、なんだろうな」
今度は言葉にして呟いた。
「恋愛には時間は関係ないって言うけど……ホント一瞬でした」
そう言って綾奈はクスリと笑った。
(……だからこそ、です)
心で呟くと、綾奈は少し拗ねたような表情をする。
(二人のやり取りに私が入る隙がなくて……悔しいです)
そう、それが綾奈の怒った理由。名前を付けるとするならば、間違いなく『嫉妬』という名が付くだろう。
綾奈が総真の「原因を作ったのは俺だろう?」という言葉に反論できなかったのも、あながちそれが間違いではなかったからだ。
――勝手に嫉妬して機嫌を悪くした自分が悪い、けどその嫉妬の原因を作ったのは総真だ。ということである。
(私だって、総真さんとあんな風に話してみたいのに……)
それができないのは、自分の対話力がないというのが原因なのも綾奈は十分分かっているし、あの二人が自分よりも何百倍も同じ時間を過ごしてきていることも分かっている。
そして数日だが一緒に過ごした中で、総真がそういうことには鈍感――だからこそチャンスがあるわけだが――なのだということも理解した。
だけど、それでも少しばかりの不満は残る。
「総真さんのバカ……」
綾奈はそう呟いた後、自分の中に芽生えたその感情の存在をもう一度知覚して、少し赤くなった顔でクスリと笑い、再び自宅への道を歩き始めた。