七.
ドンッという鈍い音とともに、北条先生の拳が俺の腹にめり込む。
あの後、結局殴られることになった俺だったが、いくらなんでも顔は嫌なので、せめて腹にしてくれというどっちにしても殴られるのが前提の悲しい交渉が成立した。――そして、今殴られているというわけだ。
「……あれ?」
そんな虚しい説明はとりあえず置いておくとして。
「痛くない?」
そう、痛くないのだ。殴られた衝撃は確かにあった。
その位置からして、北条先生の拳はきっちりみぞおちを捉えていたはずだ。――なぜあえてみぞおちを狙ったのかという点については後で説明してほしいところだが。
普通なら悶絶ものだろう。しかし、そういった感覚はまったくない。衝撃を除けばまったくの無傷だ。
「それが呪符の効力だ」
北条先生は俺に向かってそう言うと、他のみんなの方に目を向ける。いつの間にやら俺に付けたのと同じ呪符を手に持っていた。
「全員見たか? 今のがこの呪符……いや、正式には守護符『吸傷』の効力だ」
――守護符、スイキズ? なんだそれ? なんかの呪文か?
周りを見てみると、知らないのは俺だけじゃないようで、クラスのほとんどの生徒が首をかしげている。――なんとなく、安心した。
「今、山代で試したように、使用すると肉体にダメージを負わなくなる。まぁ、衝撃はあるがな」
「だから守護符なのですね?」
クラスメイトの荒川がみんなを代表して質問する。
「あぁ、そうだ。だが、この守護符は実戦ではほとんど使用されていない」
「えっ? ダメージを負わないのに、なぜですか?」
「呪符は万能ではない。メリットがあれば、デメリットがある。こいつのメリットは、今言ったように、ダメージを負わなくなること。そしてデメリットは、一定以上のダメージを受けた時、使用しているものは強制的に体の自由を奪われる」
「でも……」
「荒川、お前の考えていることは分かる。例え、自由を奪われるのだとしても、ダメージを負わないのなら十分に使えるんじゃないか、ということだろ?」
「はい」
「お前の考えも一理ある。しかし、問題はこの守護符のダメージ許容量が少ないということだ。いくらこの守護符を使っていても、ある程度の力を持った相手の場合、一撃で許容量を超えてしまう。敵の前で棒立ちになる。そうなったらあの世行き確定だ。結局、相手の攻撃を避けなくてはならないのならば、そんなリスクを背負ってまで使おうってやつはいない」
なるほど……確かにそれでは、使用者が少なくなるのも頷ける。
「ま、その代わり訓練で使う分には、これほどうってつけのものもない。本気でやっても怪我をすることはないんだからな。そして本題だが、《八卦統一演武》もこれを使って行う。勝敗は実にシンプルだ。相手チームを叩きのめした方が勝ち。それだけだ」
シンプルなのは確かだが、本題の説明がものすごく少ない。
「さて、これで説明は終了する。あとの時間は引き続き実習の見学をしておけ。飽きたら戻っていいぞ」
北条先生は、それだけ言うと一階への階段に向かって歩いて行く。どうやら自分は研究室にでも戻るつもりらしい。
説明は最後までテキトーだった。これだけ一貫されると、いっそ清々しくも感じるから不思議なものだ。
俺は北条先生が消えていった階段から目を離し、視線をアリーナの一階に移す。
一階では、まだ四年生が実習を行っている。
すでに何人かの同級生は、帰り支度を始めていた。北条先生曰く、『飽きた』というやつだろう。
だが俺は、教室に戻る気はまったくない。もっと陰陽師同士の戦闘を見ていたかった。その現実離れした光景を、今しばらく鑑賞していたかったのだ。
それは、アクション映画を見ているときの感覚に近い。
――数多の敵を物ともせずに戦う主人公。誰もが憧れる、けど届くことのない画面の向こう側の世界。
しかし今、目の前に画面はない。少し距離は離れているけれど、同じ空間に俺もいる。その光景は、現実としてここにある。
俺もあんな風に戦えるだろうか?
ドクン、と胸が大きく鼓動をするのが分かった。平穏な普通の暮らしの中で、忘れてしまっていた感覚が少し蘇ってくる。
普通に生活していれば味わうことは決してないあの空気。やらなければやられるというあの緊張感。
たぶん、さっき先生の不意打ちを避けたせいだろう。あの時、とっさに出た動きは、昔の感覚が蘇るには十分なものだった。
――中学時代は、不意打ちなんかとは無縁な生活を送っていたしなぁ……。
俺は苦笑する。
……勝負事か。
そういったものから逃げに逃げ続けたのが中学校時代。そして、そういうものにこだわり続けたのが、小学校時代だった。
勝つことの楽しさも、負けることの悔しさも、それを乗り越えて勝つことのできた時の達成感も学んだ。だからこそ、そこにこだわることができた。
しかし、それにしかこだわらなくなった時、俺は大事なものが見えなくなっていた。自分のことしか考えず、身近の人の変化に気づかなかったのだ。
――明華。
幼馴染の顔が浮かび、また胸がズキッと痛む。
その痛みは、俺に同じことを繰り返す気か? と問いかけている気がした。
――いや、違う。
(ならなぜ、また勝負にこだわろうとする? 同じではないか)
同じじゃない。今度は仲間がいる
(仲間?)
――仲間を守る。そして、勝つ! 自分自身じゃなく仲間のために!
心の中で、強く決意を表す。すると、問いかけてきていた声は聞こえなくなった。
……過去の自分が認めてくれたってのは、都合のいい解釈かな。
俺はまた苦笑する。そして、覚悟を決めた。
本気で行くか。
そう心に誓って、意識を戦闘実習へと戻す。今度は、映画観賞のような気分ではない。実際、自分があの場に立った時のために。
『仲間と共に勝つ』、ただそれだけのために――。