七話
階段を数歩、また数歩と歩くたび、悪臭はより酷いものとなっていった。
クレイグとシャルロットは慣れているとでもいったように涼しい顔をしていたが、その背後にいたロベルトは顔に目一杯シワを寄せて鼻をつまんでいた。息をするのも苦しいほどの悪臭だ。
クレイグは階段から真っ直ぐ伸びた先にある一枚のドアが、数センチ開いているのを見てそっと手のひらで押し、中の様子を確認した。
薄暗い室内。湿気の高い室内はオレンジの淡い光の中、異様な雰囲気に包まれている。
クレイグはその部屋の中心で、少年が倒れているのに気がつき、駆けつける。抱き起こせばそれは間違いなくケイの甥である、ハンスだった。
「ハンスくん、しっかりしてください、ハンスくん!」
体には腐った動物の血液がかけられていて、苦しげに呻く唇は青ざめている。ここから一刻も早く助け出さなければ命の危険があるほどだった。クレイグは険しい表情でロベルトに振り返った。
「ロベルトくん、私の腰のポーチから聖水を」
「わかった」
ロベルトはクレイグの隣にしゃがみ込み、ポーチの蓋を開いて数本、聖水の瓶を取り出した。
それを受け取ったクレイグは、自分の服の裾でハンスの体を拭ってやりながら数滴づつ、体に聖水を振りまいてゆく。
一方、大人しくその治療を眺めていたシャルロットは、何者かの気配を感じ、急に背筋を伸ばしてガレージのドアを睨んだ。
何の音もしなかった為、治療に専念している二人には気づかれていないようだったが、静かにドアが開き、一人の男が姿を現した。
「その方に触れるな、卑しい人間が!」
男が開口一番、そう叫び、男の存在に気づいていなかった二人は驚き振り返る。
シャルロットは男の貧相な姿に眉を寄せて、腕を組む。
男は目深のフードのコートを羽織っていながらもその体型がよくわかるほどやせ細っており、歩くのが限界であるといった風体で手すりにしがみついている。
その姿からして、彼が違法な方法で魔族と関わろうとしていたのを理解し、シャルロットは口を開いた。
「お前、禁術使いだな。本来コイツのような教会の認可なしに魔族を喚ぶつもりだったか」
「ブルーメさんですね?私は教会の者です。行方不明の彼を探しにやってきました、一緒に審問官の所まで行きましょう」
クレイグは悲しそうに首を振り、ハンスをロベルトに預けて男、ブルーメに歩み寄った。
表情は伺えなかったが、ブルーメは怯えたようにおぼつかない足で後ずさりして、手近の棒を振り回す。シャルロットはその粗い攻撃がクレイグに当たらないよう、クレイグの前に立ちはだかった。
「一体、何を喚ぼうとした?言え」
「ははは…たわ言を…もう喚んで…ある」
ブルーメの濁った両目が、シャルロット、クレイグへとゆっくり向けられ、ブルーメは最後にハンスを見遣った。ハンスは依然としてロベルトの腕の中で苦しそうにもがいていたが、突然ブルーメが視線を寄越した瞬間、それはぴたりとおさまり、ハンスはロベルトの腕を乱暴に突き放し、立ち上がった。
ロベルトは急に呼吸が正常なものへと落ち着いたハンスに、不気味さを感じてハンスを見上げる。
先ほどまで苦しんでいたのがまるで演技だったとでも言うように、ハンスは薄く目を開いて長く、息を吐き出した。
「…いかん…!クレイグ、下がってろ!」
咄嗟に、ハンスの様子がおかしい事を悟ったシャルロットは、クレイグをドアの元まで押すとハンスに駆け寄った。
強い力で押されたクレイグは大きくドアに背中を打ちつけ、痛みに小さく悲鳴を上げてシャルロットを見つめる。
そしてそれはほんの数秒間の出来事。
次の瞬間にはシャルロットの全身を淡い赤い光が包み込み、シャルロットは断末魔だとも思える絶叫をしてその場に倒れこんだ。
「一体…何が?!」
シャルロットの体を薄い煙が包み込み、ハンスは舌打ちをすると掲げた右手を戻し、シャルロットを見下ろした。
『…魔族か』
声は、少年のものとは思えないほど低かった。それはまるで、地の底からじんわりと広がるような澱んだ声。ただ純粋な恐怖を植えつけるようなその声音に、ロベルトは知らず、体が震えているのを感じた。
ブルーメは一人、そんなハンスを見つめて恍惚とため息が漏れるように息を吐き、
そのままハンスに向かい、声を掛けた。
「漸くあなた様とお会いできた…吸血王…!」
「えっ!?」
ロベルトはブルーメに振り返り、もう一度ハンスを見上げる。それは確かにシャルロットではなく、ハンスに向けられている言葉だった。
シャルロットは体が焼きつくような痛みに耐えながらくつくつと笑ってみせる。
「吸血王…?お前がか?」
ハンスは何も答えず、ただ黙ってシャルロットを見下ろしていた。
クレイグはよろよろと立ち上がるとシャルロットの傍まで行き、ホルスターからメイデンを抜き取り、ハンスに向ける。
その体は確かにハンスのものであるのに、纏う雰囲気がもはや、ただの少年が持っているものではなかった。
銃口は一般人に向けているという意識がある為か、僅かに震えている。
「貴様は…何者だ?ヴァンパイアなのか…?」
ハンスは尚も答えない。
ブルーメは一瞬の静寂の後、気が狂ったかのように甲高い笑い声を響かせ、ぐっ、とクレイグの胸元を掴むとフードの奥から焦点の合わない目でクレイグを睨みつけた。
「吸血王も知らないのか、今我々の世界を席捲しているのはヴァンパイアだ。その全てを統括なさっている王、シャルロット様も知らないのか!」
「ハン、笑えんな。」
クレイグの喉を締め上げるブルーメの手を払い、シャルロットはボロボロの体で立ち上がる。
弾かれた拍子にフードがはぐれたブルーメはシャルロットを見つめ、薄ら笑みを浮かべた。
「シャルロット様…皆殺しにして下さい…こやつらは皆…敵です」
「教えてやれ、クレイグこいつに我輩が何者か」
胸元を掴まれた反動で、メイデンを取り落としていたクレイグは、シャルロットを一瞥し、腰からぶら下げていた本に触れた。
眼前の少年は友人であるケイの甥。たとえメイデンで祓えたとしても、その体には深い傷が残ってしまう。
少しの間、周りの音が掻き消える程目を閉じ、慎重に考えたクレイグは、決心したかのように勢いよく皮ひもを解き、本を開いた。
「この名において戒められし異界の者に、名を与えよう」
バラバラっ、と本が数ページ開くと眩いほどのピンク色の光が真紅色の本を包み込み、よく通るクレイグの声が、名を呼んだ。
「シャルロット」
ブルーメが反応するより早く、シャルロットはクレイグに静かに傅くと、その手にキスをして立ち上がる。
黄金を織り交ぜた蜜色の髪がゆらりとたなびき、本を開く前とは別人のように、シャルロットは少女から女性へと変貌してブルーメに対峙した。体の傷も癒え、美しくその唇に弧を描いたシャルロットはブルーメを乱暴に引っつかみ、告げる。
「我輩が本物の代469吸血王、シャルロットだ、よくその目に焼き付けておけよっ!」
ぐん、と拳に力を込め、シャルロットはブルーメを殴りつけて床に落とす。
すっかりその一撃で気絶してしまったブルーメに、クレイグは不安げな表情を乗せてシャルロットの背後から覗き込んだ。
「何をしてるんですか、死んだらどうするんです!」
「殴ったぐらいでは死なん、うるさいなお前も…さて…」
一番の目的であるハンスは、特に何と言葉を掛けることなくその様子を眺めていた。
シャルロットは首を軽く傾げて、ハンスに向き合う。
「お前は一体何者だ?もう術者の意図から離れているはずなのに何故動いている?それに我輩にあんな痛い思いをさせてくれるとはな…」
『深淵』
「ん?」
ハンスはゆっくりと唇を動かし、シャルロットを見据える。
シャルロットは小さく呟かれたその一言を聞き返すように眉根を寄せたが、ハンスはそのまま言葉を続ける。
『我は…深淵…世界の秩序の安寧を遵守する…名を…』
その言葉一つ一つは、気をつけていなければ聞き取れないものだった。だがその言葉一つ一つが、脳内を直接揺さ振るような恐怖感を与える重みがあった。
シャルロットはともかく、背後にいたロベルトやクレイグはすっかりハンスの言葉に飲まれてしまっていた。
『アヴィス…』
バッ、と背中から二対の翼が広がり、ハンスはゆっくりと浮上する。シャルロットは漸く、ハンスの体を取り戻そうと、彼の全身をピンク色の炎で包んだが、それはあっけなく消失。
掻き消えた炎が宙を飛び散り、部屋にはピンク色の炎がぐるりと広がってゆき、シャルロットは慌てて炎を霧散させた。
「待て!その少年の体を返せ…!」
シャルロットがそう叫ぶのも虚しく、つよい風が小さな部屋いっぱいに巻きおこり、思わずクレイグの体を守るために伏せたシャルロットはそのまま頭上をハンスが飛び去ってゆくのを見つけて声を上げる。
「待て…!ケイの…!」
無数の純白の羽根が部屋に舞い散り、シャルロットは力の効力をなくして元の少女の体へと変えてしまった。うずくまったままのクレイグは力を使い憔悴しており、シャルロットは悔しさから唇に血が滲む。
何も出来なかったロベルトもまた、悔しげな表情をしたまま、床に落ちた羽根を拾い上げる。
その純白な羽根はまるで、
「天使みたいだ…」
そう、呟いて。