素直になれれば、楽なのにね。
自分があと少し若ければ、もっと我儘に振る舞えたのかもしれない。
あるいは彼女があと少し歳を重ねていれば、もっと的確に言葉を告げれたのかもしれない。
だが結局の所、幾ら嘆いても現実は何一つ変わらない。ましてや事態が好転する事も無い。
自分は感情のまま動くには歳を取り過ぎ、想いを打ち明けるには彼女は若過ぎた。
それは……、紛れもなく変える事が出来無い現実でもあり、真実でもある。
だからこそ──彼女が幸せに暮らせる様、自分が最大限の努力を行う選択のみしか、愛を表現する手段が無かった。
勿論、今でもその決意は変わらない。こうするしか、方法は無いのだから……
口論のきっかけは、本当に些細な出来事だった。
“春香の帰りが遅く、それを信之が彼女に問い詰めた”末に起きた口論だった。
これまで春香の帰りが遅くなる事に対して、親子とはいえ直接血の繋がりが無い信之が口うるさく咎める事が無い様、心掛けてはいた。
この春に進学し、高校生として節度のある行動をしてくれるのならば……、別に養父として彼女には何も言う必要も義理も無い。と信之は無理矢理自分に割り切るよう納得させていたからである。
そこに信之が抱く感情を織り混ぜるのは不適切であり、何より──彼一人だけの我儘で春香を束縛するような行為だけは控えなければいけない、という想いが強く作用していた。
自分は彼女の亡くなった両親に代わり、良き父として振る舞う事が第一である。まかり間違ってもそれ以外の行動は取るべきものでは無い。自身にそう言い聞かせてきたものの……、覆った偽りは悠久に隠し通すなど不可能である。今回は、信之がそれに薄々気付き始めた矢先に起こった出来事だった。
たった一人きりとなった食卓で、信之はもう何杯目かも分からなくなった酒を煽る。
言い合いをした最後に、『貴方は私の何なの?』と大きな眼に涙を浮かべた春香に質問を投げ掛けられ、思わず口篭ってしまった己を今となってはただ罵る事しか出来無い。
信之から何も答えが返ってこなかった事が余程腹立たしかったのか、手に持っていた鞄を彼へと投げつけた後、春香は自室へ閉じ込もってしまっている。
もしも直後に彼女の部屋へと行って名前でも呼べば、事態は好転していたのかもしれない。ただ信之にはそれすら行う勇気も無く、無意味に時間だけが過ぎ去る結果となっていた。
開けば自身への悪態しか飛び出さない口に、度数が強い酒を勢い良く流し込む。
最初は喉を焼くアルコールの感触に酔って多少なれども気は紛れていたのだが、何度も繰り返した今ではそれすらも既に感じない。
単純かつ機械的な行動しか出来無い自分が、今の彼にとっては非常に腹立たしかった。
今日は金曜日という事もあり、いくら飲んで二日酔いになろうとも明日は休みだ。仕事には差し支えは無いものの、酒に溺れたからといって春香と交わしてしまった口論の解決にはならない事位は分かっていた。
「俺はあいつの……、俺はあいつの…………」
気付けばグラスを手にもったままの姿勢で、義理の娘に投げ掛けられた質問を何度も反復している事に信之は驚く。ただ、幾度反復しようが肝心な答えが飛び出すことは無い。
頭の中では既に結論は何年も前から出ている。にも関わらず、それを口にする事は憚られた。例え独り言としても口にしてしまったが最後、どうにかなりそうで怖かったのだ。
視線を床へと落とし、不意に足元で止まる。先程春香が投げた時のまま、鞄の中身が無残にも散らかり、床へ広がっていた。
各教科のテキストやルーズリーフ、筆記用具を見る限り彼女が家に一度も帰らなかった何よりの証拠がそこには広がっている。
春香は学校が終わったと同時に何処かへ出掛け、そして帰宅が遅れた。
これまで通り『帰りが遅くなるから夕食が作れなくなる』と春香からの電話はあったものの、信之の神経を最も逆撫でたのは……帰りが遅くなった事でも、彼女が一度家に戻らなかった事でも無い。
彼にとって最も許せなかったのは、春香が連絡として掛けてきた電話が原因だった。
あの時、何気無い彼女との会話に割って入ってきた賑やかな男性の声を思い出すだけで、数時間経った今でも信之の胸は痛む。
彼女の名を親しげに呼んだ声の主に苛立ち、呼ばれて即座にこちらとの会話を打ち切った春香にも怒りを覚えて収まらない。そして何より──遅かれ早かれ訪れる未来を想定しながらも、それを素直に受け止める事の出来なかった自分自身が、信之には信じられなかった。
表面上はいくら繕ったところで、春香にも信之の僅かながらの変化は感じ取られたのだろう。
家へと戻って来て、彼女が開口一番に告げた謝罪の言葉は弱々しく、普段の信之ならば逆に彼が謝っても不思議ではない程だった。
何故、あそこで彼女を許さなかったのだろう?
何故……、言い渋る春香に対し、さらに言葉の追撃を行ってしまったのだろう?
何故……、
素直に義理の娘を『娘』として扱えなかったのだろう?
答えなどは解り切っているにも関わらず、結果などはとうに変わらないにも関わらず、信之の内心では、相変わらず自問自答が止まらない。
喉の奥から決して酒のものでは無い感触がせり上がり──。
信之は手に持ったグラスをテーブルの上へと戻し、声を出す事無く静かに涙を流した。
※※※
自分が一体、どういう経緯でベッドに倒れ込んだのか、殆ど記憶に無い。
声を殺して泣き続けるにも疲れ果ててしまったし、無茶に酒を煽った反動で半ば夢の世界へと誘われている今の感触が心地良い。
自分の呼吸以外は何も聞こえてこない静寂の中、そのまま睡魔に意識が引き摺られてゆくのが分かる。今は何も考えたくは無い、取り敢えずは夢へと落ちたい……。
一度は覚醒した意識だったが、再びまどろみ始めた時だった。
何かが髪に触れる感覚とほんの僅かに漂う気配を捉えた伸行は、閉じていた瞼をゆっくりと上げる。
ずっと瞳を閉じていた為、明かりを灯していない暗闇の中でもある程度の視界は確保出来ていた。ただ──、視界に入った細く白い腕と、自分を静かに見下ろしている義理の娘を見て何度か瞬きを繰り返してしまう。
何故春香が此処に立って自分の髪を撫でているのか、一体彼女はいつから此処へやってきて立っていたのか、伸行には全く解らなかった。
身体を起こし、何故彼女が此処にいるのか訊ねようかとして一瞬迷う。
だが衝動的に身体を起こしたとしても、数時間前に言い争った事を考えると到底言葉を交わしたところで平然を保てる自信は皆無だった。
春香の方も恐らくは、信之が寝ているものとしてこの場に立っているに違い無い。そう判断して、姿勢を崩す事無く信之は再び瞼を閉じた。
何故彼女が此処に訪れたのかは分からなかったが、暫くして眼を覚ます気配が無いと分かれば、きっと部屋から出て行ってくれるだろう。これからの接し方は、明日目が覚めた後にでも考えればいい。
ろくに思考が回らない脳が導き出した最善の結果に従おうと、酒の酔いに身を任せる。
再び眠る為、意識を春香から逸らそうとした伸行だったが……耳が捉えた微かな声と共に、その決意はいとも簡単に崩れ去ってしまった。
「……さい」
最初はそれが彼女の声だとは認識出来なかった。それ程にまで聞こえてきた声はか細く、同じ響きの繰り返しであった。
「……さい。ごめん……な……さい……」
アルコールに侵された伸行の思考でそれが謝罪を述べる言葉であると認識出来たのは、髪を撫でる春香の指に力が込められて暫くしてからの事である。
伸行の髪を撫で何度も謝罪の言葉を繰り返している春香だったが、何故謝られるのか彼女の意図が伸行には全く理解出来無い。ただ彼女の声が耳に入る度に戸惑いだけが訪れ、彼の内心を激しく掻き立てる。
時折謝罪の言葉が鼻を啜る音で途切れているのに気付いた時には──、信之は無意識のうちに髪を撫でる春香の手首を掴み、彼女の小さな身体を自分の元へと引き寄せていた。
「……え?」
戸惑う春香の声と共に、信之に手を引っ張られバランスを崩した上半身がベッドに倒れ込む感触が訪れる。続けざまに信之はもう片方の腕を伸ばし、彼女の細い腰を抱き寄せ春香の全身をベッドの上へと寝かせた。
「ちょ、ちょっと……」
突然無言で腕を引っ張られた挙句、抱き寄せられた事に戸惑う春香の声が聞こえる。だが、彼女はほんの少し身体を動かしただけで抵抗する気は無いらしい。
腕の中に春香の小さな身体がすっぽりと収まったのを確認した後。信之は少しずれた布団を手繰り寄せ、春香の肩の位置にまでそれを被せた。
彼女が泣いているのを知り咄嗟に抱き寄せたものの、掛ける言葉など到底見つからない。
暫くの間何も言わずに春香の長い髪を撫でるだけだったが、最初にその沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「……起きてたのに何も言わなかったなんて、性格悪いと思う」
「ハルの声が聞こえたから、目が覚めた」
「……嘘つき」
「何故嘘と言い切れるんだ?」
「だって、いつもは……」
「いつもは?」
さらに言葉を続けようとしたところで、胸に軽く小さな拳が当たる。“それ以上は促すな”という春香の無言で行った意思表示に、信之は言葉を飲み込んで押し黙った。
一つ深い溜息をついた後、本来信之が彼女に言わなければならない一言を告げる為に口を開ける。ゆっくりと小さく、彼女の耳元へ口を寄せて呟いた。
「春香、すまなかった」
日頃呼ばれている愛称とは異なり、名前を呼ばれた事で腕の中で春香が反応する。
彼女の返事を待ってもよかったのだが……、もしも想定外の言葉を投げ掛けられたとすれば、それに対して適切な単語を繋いで返す自信など今の信之には無かった。
「謝るのは、俺の方なのにな……」
もう一度、今度は自嘲の意味合いも含めて言い放つ。
普段ならば大して気に留めてはいけないと心掛けていたにも関わらず、自らの感情に任せて彼女と口論をしてしまった非は信之にある。それに……、春香にとって自分は義理とはいえ親権者にあたる事実は決して変わらない。
彼女に“貴方は私の何なの?”と訊ねられ、即座にそれを口にすることが憚られたのは、彼女を裏切る行為を行ってしまったと言っても過言では無かった。
もう一度、小さく「すまない」と呟いた後伸行は──、彼女の柔らかな髪が伸びる首筋に顔を埋める以外の行動が行えなかった。
「本当……、どっちが子供だか分からないわね」
呆れた様に吐いた春香の溜息が、伸行の耳に掛かる。先程まで彼女が漂わせていた弱々しい雰囲気はいつの間にか消え去り、普段通りの振る舞いだった。
「貴方は私のお養父さんなんだから、もっと強く振る舞えばいいの。娘は親の言うことを聞くものでしょ?」
彼女が耳元で優しく溢す言葉に対して、伸行は何も答えない。
肯定すればそれが嘘だと露見しかねない恐怖と、反面否定すれば彼女に対して伸行が抱いている感情を知られてしまう。
結局はどちらの選択も取り損ね、ただ俯いて口を閉ざす他無かった。
「ねぇ、一つだけ聞いても……いい?」
何も言葉を返さず、頷くことすらせず、ただ黙っているだけの伸行に春香は一呼吸開けた後に言葉を続ける。
「えっと、あのね……あの……」
無言を肯定と捉えたのだろう。少し躊躇しながらも、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「……おじさんは、私に“お義父さん”って呼ばれるのは……嫌なの?」
ためらっていたものの、春香の告げた言葉は余りにも的確であった。
彼女に投げ掛けられた疑問に対し、偽りの返答を返そうとする伸行の心が憚られる。
軽く首を振って「事実は事実であり、俺はお前の養父だから……そう呼ばれて嫌なわけが無い」と答えるだけの単純な行動が行えない。決して嘘では無い事実ですら肯定できない自分自身に苛立ちを覚え、伸行は奥歯を噛み締めた。
「そういう態度を取られると……私、勘違いしてしまうんだけど……?」
伸行の予想に反して戸惑い、口篭る春香が告げた言葉の意味を理解し損ねる。
意味を聞こうとして上げた伸行の顔は、慌てて伸ばされた春香の手によって再び彼女の首筋へと埋もれた。
「顔……見ないで」
若干震えた声は小さく、普段聞きなれた春香のものでは無い。恐らく、先程気丈に振る舞っていたのも精一杯の虚勢だったのだろう。今の様子を見る限り、それは容易に想像がついた。
「私に勘違いさせるおじさんが悪いのだけど……でも本当だったら嬉しい。でも……もし違ってたら……だよね……だって、私まだ子供だし……」
頭を押さえつける手を小刻みに動かし、口篭りながらも独り言の様に言葉を繰り返す春香の態度は落ち着かない。
最初のうちは戸惑いながらも彼女の言葉に耳を傾けていた信之だったが、徐々に言葉尻を濁らせてゆく春香が何を言いたいのかようやく理解出来た頃には、自然と口端が上がっていた。
微笑みが漏れるのと同時に、心の内に数年もの間押し留めていた様々な想いが途端に軽くなった気がする。
無論それらを完全に払拭する事は叶わなかったが、自然と口から声が飛び出した。
「──春香」
「……何よ?」
「俺は今までお前を子供扱いや“保護者”としては接してきたが……“娘”として接した事は一度も無い。……つまり、そういう事だ」
軽く数度春香の小さな背中を叩いてやり、信之は微笑みを浮かべたまま顔を上げる。
今度は頭を押さえつけられる事は無かったものの、驚いた様に大きな眼をしきりにぱちくりさせる春香の顔が目の前にあった。
目が合って数秒後には口を尖らせ、彼女は恥ずかしそうに俯く。暗闇で顔色こそは解らないものの、恐らく顔は赤くなっているに違いない。色が白い彼女の頬へ掌を当ててやると、拒否される事無く受け入れられたのが信行には嬉しかった。
「勘違いをしたいのならば、すればいい」
「……ちゃんと、具体的に言って欲しいんだけど……」
「俺の立場も、少しは考えてくれ……」
憮然と言い放たれたものの、信之には苦笑しか返す術は無い。
彼女の言う通り具体的な言葉を述べるのは簡単だが、自分の立場と春香の年齢を考えると到底言えるものでは無い。ましてや二人が共通の想いを抱いていたとしてもだ。
なかなか自分の眼を見てくれない春香の前髪を掻き上げ、信之はそっと彼女の額に唇を押し当てた。続いて顔と同様、赤くなっているであろう耳へ口を近付け、普段口癖の様に告げていた言葉を二言三言告げてやる。
それは──、普段からことある事に告げていた言葉だったのだが、彼女も信之が意図していた内容にようやく気付いてくれたらしい。
「……馬鹿。格好つけて言ったって、お酒臭いから説得力なんて無い…………」
涙混じりで返してきた文句はそれで精一杯だったらしく、後は嗚咽に阻まれて春香は言葉を失った。
信之に抱き締められながらも彼女は泣きじゃくり、背中をさする彼に対し何度も「馬鹿」「私の悩んだ時間を返して」「あんな事寝ているからって言うんじゃなかった」などと、信之には全く意味の解らない言葉と罵りを繰り返すだけだった。
腕の中で子供の様に肩を震わせて泣く彼女を抱き締めたまま、ふと信之は初めて春香を引き取った六年前を思い出す。
両親を失ったばかりのショックから立ち直れず、毎晩泣いて夜を過ごす彼女を抱き締め眠った日と状況こそ違えど今の状態と酷似した感覚を覚える。あの時と抱く感情こそ異なるものの、結局は自分にとってこの少女の存在は決して欠けてはならない存在なのだろう。
六年前に出会った時と比べ、長くサラリと伸びた春香の髪を何度も優しく撫で……。
信之はゆっくりと瞳を閉じながらも、義娘でもあり想いを抱いた少女が泣き疲れて眠るまで、腕の力を緩める事無く彼女の身体を抱き締め続けた。
自分があと少し若ければ、もっと我儘に振る舞えたのかもしれない。
──そう思っていたのは、結局は無駄に生きてきた年月が錯覚させたものだったのだろう。
あるいは彼女があと少し歳を重ねていれば、もっと的確に言葉を告げれたのかもしれない。
──それもただの思い過ごしであった。彼女は充分自分の気持ちを汲んでくれていたのだ。
だが結局の所、幾ら嘆いても現実は何一つ変わらない。ましてや事態が好転する事も無い。
──咄嗟に行ってしまったとはいえ、現実は変わり好転もするという事を知った。
自分は感情のまま動くには歳を取り過ぎ、想いを打ち明けるには彼女は若過ぎた。
──歳を取ったのは自分だけでは無い、彼女も成長をしている事を何故忘れていたのだろう?
それは……、紛れもなく変える事が出来無い現実でもあり、真実でもある。
──事実は変わらずとも、関係が変わる事を自分は知った。
だからこそ──彼女が幸せに暮らせる様、自分が最大限の努力を行う選択を取り、愛を表現する手段を取ればいい。
想いは決して変わらない……
彼女が笑ってくれるのならば、自分が背負う犠牲など容易いものだ。
「義父」と「義娘」
一人の少女と一人の男の関係に、ほんの少しだけ変化が訪れたのは……
彼女が目覚めた次の日から──、
昨晩起きた口論の原因を、彼女が彼を無理矢理起こして説明させてからの事である。