さよならと、おわかれと
玄関に並べて置いてあった革靴を見た時、春香の思考は停止した。
まだ幼さが残る可愛らしい顔にいぶかしげな表情を浮かべ、春香は今朝学校に行く時には無かった筈の靴へと視線を落とす。勿論靴の持ち主は誰だか解っているが、本来ならばこの時間帯には無いものなので、思考が固まってしまった。
靴を脱いで上がる前に、コートのポケットに入れた携帯電話を取り出して着信を確認する。新着メールも無ければ着信も知らされていない画面は、普段と同じもので何ら変化は無い。
玄関先で部屋に居るであろう人物の名を叫ぶのは簡単だが、こちらの声に気付いてやって来る保証など全く無かった。
仮に──、この時間帯に居る筈も無い人間が帰ってきているという事は、体調でも壊したのかもしれないという可能性がある。それか何らかの急用があったのか?
疑問が残る頭の隅でそれらの事を考えながら、黙って春香は靴を脱ぐ選択を取った。
もしも同居人が寝ている場合を考慮して、春香がなるべく物音を立てない様に注意を配ろうとした矢先の事だ。
リビングの方から聞こえてきた、誰かと話している様子の声が耳に入る。その声を聞いた瞬間、不安気な表情を浮かべていた春香の緊張が解けた。どうやら体調が悪くて戻って来た様子では無いと分かった春香は、ほっと安堵する。
だが……、足を進めるにつれ耳に入る会話の内容を把握するうちに──、
彼女の顔は怒りで真っ赤になり、リビングのドアを乱暴に開く事となった。
「お前達、なかなかいい肉球筋だ。だが、今度は俺も本気で挑ませて貰うぞ!」
低く、くぐもった声で何やら言っている様子は、独り言に聞こえなくも無い。だが、床に胡坐を掻いたままの姿勢で身体を丸めている信之の肩には、黒い小さな生き物が一匹乗って器用に座っていた。信之の腕が激しく動く度に小さな身体も跳ねる位に上下するものの、全く動じる気配も無く、肩に乗ったままの姿勢を維持している。
「──くっ、この攻撃ですらガッチリとキャッチか……。どうやら、俺はお前達の実力を侮っていたようだ。ならば今度こそ…………」
肩に乗っている子猫以外の兄弟達はというと──、信之の大きな手に握られている猫じゃらしを必死になって二匹で追いかけ回していた。余程興奮しているのか、丸い目はさらに爛々と輝いていて、尻尾の毛も逆立っている。
「あーっ! くそっ! この高さでもジャンプキャッチか……将来有望だぞ、お前た──」
「ち」と続けようとした信之の言葉は……乱暴に開いたドアの音と、彼の背後へ無言で近寄ってくる春香の足音によって遮られた。
「おかえり」
背後に立ったまま何も言わない春香へと向かって短く言うと、信之は肩に乗っている子猫の邪魔にならない程度で振り返った。
別段驚いた様子も無く平然としている信之とは対照的に、春香は外から帰ってきた格好のまま、腕を組んで信之を睨み付ける。信之の言葉にも、返す気は無かった。
彼女から漂ってくる気配は鬼気迫るものがあったが、三匹の子猫達は気にならないらしい。動きを止めた猫じゃらしに必死に手を伸ばしたり、遊びに飽きて信之の足の間に入ったり、寝たまま動かなかったりで、それぞれの行動を行っている。
そんな子猫達には目を向けず、春香はようやく言葉を放った。
「……何してるの?」
「こいつらを特訓してた」
「仕事は? まさか……サボったの?」
「サボりとは人聞きが悪い。ちゃんと有給で帰ってきたから心配するな」
怒りを滲ませた春香の質問に対して、平然と返ってきた信之の言葉は聞いているうちに眩暈を覚える。知らず知らずのうちに、春香の口からは深い溜息が漏れていた。
──春香の養父である信之が子猫を拾ってきたあの日から、丁度三週間近くになる。
幸い子猫とは言っても、既に各々が好きな様に動き回る程度にまで成長していた状態だったので、世話自体はそれほど苦労しなかった。
結局のところ、信之と比べて家に居る時間が多い春香が彼等の面倒を見る結果となっていた。
それでも退屈で暇を持て余して暴れる子猫達と遊んでいたのは、信之の方である。
『自分が面倒を見る』と言っていた手前、責任を感じ早めに帰宅しているのかと思ったらそうでも無いらしい。単純に“子猫と遊びたいから早く帰る”という信之の本音を垣間見た時には、子供じみた単純さに春香は呆れていた。
にも関わらず、今日みたいに彼が意味も無く仕事を休む事態を春香が想定していなかったのは、信之の年齢と仕事上の立場を考えての事だったのだが……。
「……もういいわ。何も聞かない、何も言わない……」
思っていたよりも単純で子供じみた行動ばかりする養父に対し、怒鳴り散らさなかっただけでも成長したのかもしれない。
そんな事を考えながら──、春香はこめかみを押さえ、無邪気な笑顔を浮かべる養父に対して言葉を告げるのを止めた。
※※※
「ハル、出掛けるのか?」
春香が自室から出て、ドアを閉めた時だった。丁度それを見計らった様に声が掛けられる。
声が聞こえた方に目を向けると、ソファーに腰掛けたままこちらを見る信之の姿があった。
春香が部屋に戻って勉強をしている間も、暫く子猫達と何やら遊んでいる声は聞こえていたのだが、今は飽きて疲れたのか静かに座っている。
彼の膝元へチラリと目を向けると、膝の上で三匹の子猫が仲良く固まって寝息を立てる姿があった。
「……買い物に行くの。今日は早めに晩御飯の準備しなきゃ、どこかの不良中年が“腹が減った”って騒ぎ立てるでしょ?」
嫌味を混ぜた春香の一言を聞いて、信之の顔に苦笑が浮かぶ。どうやら嫌味だと気付いているものの、言い返す気は無いらしい。
子供の様に幼稚な行動を取ったり、養女である春香から様々な説教を受ける反面──、時にはこうして歳相応の態度を取られる度に、春香は戸惑いを覚える。
だが、あえてそれは口に出さなかった。
信之がこういう態度を取る時は、春香が何を言っても結局は受け流されるだけだ。それは数年の付き合いで嫌という程分かっていたので、春香は何も言わずリビングを抜けようと止めていた足を進める事にする。
「ハル」
二度目の名前を呼ばれ、動き始めた春香の足はすぐに止められた。
「……何? 買ってきて欲しいものがあるのなら、後でメールしてくれた方が楽なんだけど?」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃあ何?」
再び春香が信之の方を見ると、先程まで浮かべていた余裕のある表情は消えていた。
代わりに、珍しく戸惑った様子で口篭っている。
「……今日は出掛けず、こいつらと一緒にいてやってくれないか?」
「はい?」
「今は寝ているが、もう少ししたら起きると思うし……遊んでやってくれ」
「この子達と一緒に……? 何で?」
信之が何を言いたいのか理解出来ず、春香は彼が落とした視線の先へと目を向けた。
膝の上で三匹一緒になって眠っている子猫達に目を落としたまま、信之はポツリと言葉を漏らす。最初は戸惑いがあったらしく「あー……」と「その……」の二言を暫くは繰り返し、ようやく切り出したものだった。
「あのな……、多分こいつらのうち二匹と……、今日でお別れしないといけないかもしれない」
「里親が見つかったの?」
信之の口から出た意外な言葉を聞いて、春香は彼側へと寄り、膝上で寝ている子猫達を横から覗き込む。
「一応、会社で聞いてたんだが……“引き取りたい”って部下が言ってきてくれてな、だから今日仕事が終わったら来るように言っておいた」
「二匹だけなの?」
「二匹が限界らしい。子供が欲しがっていたから、丁度良かったと言われたよ」
「よかったじゃない」
「……そうなんだがな」
明るく言い放つ春香とは対照的に、浮かない口調のまま返事が返ってくる。
「里親見つかって、嬉しくないの?」
思わず聞き返すと、ようやく視線を上げた信之が一言だけ呟いた。
「……嬉しいけど、寂しいな」
「まさかとは思うけど……今日仕事休んで帰って来たのって、二匹が引き取られるかもしれないから?」
「他にそれ以外の理由でもあるのか?」
「……呆れた」
あっさりと肯定され、溜息混じりに春香は首を横に振った。
大人らしい対応を見せたかと思ったら、やはり根本的なところは子供と同じ理屈で動いているのだろう。ただ呆れた反面、素直に“彼らしい”と思えてしまうのは不思議な事だ。
「ねえ、おじさん」
「……何だ?」
「別に“お別れ”って言っても、この子達が幸せになれるお別れなんだから……そんなに悲しがらなくてもいいんじゃないの?」
信之が座るソファーの膝置きの上に腰掛け、彼を見下ろした姿勢で春香は静かに言った。
「私のパパやママみたいに……死んじゃったら永遠にお別れで、もう幸せにもなれないし、二度と会えない……。それは寂しくて悲しいけれども、この子達はそうじゃないでしょ?」
「…………」
「だからほら、いい歳した大人がそんな顔しないの」
「…………」
何も言わずバツが悪そうに目を逸らした信之の頭へ手を伸ばし、自分の胸元へと僅かに引き寄せる。そのまま、彼の黒い髪を撫でながら春香は微笑んだ。
てっきり二十以上歳が離れている相手に子供扱いされた事に対し、怒られるかと思ったものの、信之は何も言わずに黙ったままだった。
「……ハル」
「何?」
暫くの間は黙って髪を撫でられていた信之だったが、突然視線を合わせる事無くぽつりと春香の名前を呼ぶ。
「お前……俺の事、絶対大人だと思っていないだろ?」
「ええ。働いている以外は、何か大人らしい事でもやってくれたかしら?」
「俺、一応……お前の保護者なんだが……」
「だから何?」
「……いや、いい」
彼が噤んだ言葉の先は、大体察しがついていた。だからこそ、春香はその言葉の先を自ら告げる形で答える事にする。
「全く……。素直に言いなさいよ。私に『お養父さん』って呼んで欲しかったら、もっとしっかりしなさいよね……」
春香の口から飛び出した言葉を聞いて、驚いた様子で信之は春香の顔を見上げる。だがその表情は春香の想像していたものとは違い、目を細め今にも泣き出しそうな表情だった。
「……おじさん?」
予想していたものとは明らかに違う信之の反応に、春香は違和感を覚えるものの──、不思議とそれを追求しようとは思わなかった。
彼と共に暮らし始めて数年経つ春香に対し、信之が初めて見せた表情だったからこそ余計詮索する気になれなかった。というのが正しいのかもしれない。
それに──、何故そこまで悲しそうな表情をするのか? と聞いてしまえば、それまで築き上げてきた彼との関係がいとも簡単に崩れ去ってもおかしくは無い、と春香の本能が激しく警鐘を鳴らしていた。
無論、日常の些細なやり取り程度で崩れてしまうような関係では無いと思いつつも……、春香の心は微かばかり動揺していた。
変化した信之の気配を察知してか、単に腹が減っただけなのか? 彼の膝に乗っていた子猫達が浅い睡眠から目覚めて小さく動きはじめる。
一瞬そちらに春香が目を奪われ、再び信之の顔へと目を戻した時には既に……、
彼は普段と変わりない、のんびりとした様子で子猫達を見て微笑んでいた。
──もしかしたら、単に見間違いだったのかもしれない。
春香がそう錯覚してしまう程にまで、“普通”に戻った信之は……、
寝ぼけ眼で欠伸をしていた子猫達を撫で、落ち着き払った優しい笑顔を浮かべていた。