年甲斐も無い行動は控えて頂戴。
テレビをつけていても面白い番組は無かったし、何もせずリビングにいるだけというのも嫌だった。宿題はもう片付けたので、正直何もやる事が無い。
リビングの壁にある時計に目をやると、十時を少し回ったところだった。
無意識のうちに漏れていた溜息に気付き、私は咄嗟に周囲を見回す。何箇所か視線を配った後に、溜息の原因を作った相手が今は居ないという現実に引き戻された。
たまに帰りが遅くなる同居人は、日付が変わった後に帰ってくる事もある。本当なら少し位は帰りが遅くても、私は余り気にしなかった。
だけどもそれは……、その旨を知らせるメールや電話が必ずあったからであり、今日は少し勝手が違う。
ずっとポケットに入れている携帯も鳴らないし、メールの着信も知らせてくれない。
テレビもつけていない静かなリビングの中で、私はただ一人何をするわけでも無く、黙ってソファーに座っているだけだ。
既に嫌な気分で一杯になっている私には、外から聞こえる雨音ですら鬱陶しく感じてしまう。気分転換に出掛けるには時間も遅いし、出て行っても向かう場所が思いつかない。それに……、もし私が黙って出掛けている間に、彼が帰ってきたら間違い無く心配させてしまう。
ただですら私は彼に迷惑を掛けている。だから──“何の連絡も無く、帰りがいつもより遅いから”といった幼稚じみた理由で、感情に任せて動く気にもなれなかった。
「全く……、いい歳した大人が子供に心配かけさせないでよ……」
黙っているだけでは気が収まらなかったので、つい声に出して悪態を漏らしてしまう。でも、その悪態の相手はまだ帰ってきていないのだから、別に何を言っても構わないと開き直る事にした。
──少し間の抜けたチャイム音がリビングに鳴り響いたのは……、帰りの遅い同居人への愚痴を私が一通り呟いた後だった。
「はい」
『ただいま。すまない、手が塞がっているから開けてくれないか?』
インターホンから聞こえてきた声は、低い男性の声だった。良く聞きなれた声はこの部屋の主のもので、私が帰りをずっと待っていた人のものだった。
ただ……、ここは彼の住む部屋だから鍵は勿論持っているし、“両手が塞がっているから開けてくれ”なんて初めて言われたから、反応に困ってしまう。
『……駄目か?』
私が首を傾げている様子でも分かったのか、もう一度彼の声が受話器越しに耳へ届く。
私に断られるとでも思っているのだろうか? 断る理由なんて勿論無いし、それに……、今日は冬の長雨で気温も随分と下がっている。
一言だけ『今開けるわ』と言って、私は玄関へと向かった。
閉めていた鍵を開け、ドアノブに力を込めてドアを開ける。
──と、ここまではよかった。
だけども、見慣れた彼の笑顔と共に私の視界に入ってきた数匹の“あるもの達”を見て、私は素早く玄関のドアを閉めた。
「おい! ちょっと待てって……!」
流石に開けた直後に、速攻閉められるとは思っていなかったのだろう。
珍しく慌てた声とドアが閉まる音は、残念ながら重ならなかった。ドアが閉まる音の代わりに、「痛ぇ……」という呟きが私の耳に入る。足元を見ると、ドアの隙間に見慣れた大きな革靴が挟まっている。咄嗟に足を出して、ドアが閉まらない様にされていたのだ。
「……足、どけてくれない? 閉まらないんだけど?」
「お前なぁ……」
「……何?」
ドアの隙間から私を見下ろしている相手に向かって、わざと私は笑顔で返す。
閉める時に力を入れ過ぎたかもしれない、と思ったのは彼の顔が僅かに歪められていたからだ。少しだけ悪いという気持ちが湧き出たものの、彼の腕に抱かれて呑気に鳴いている生き物達の存在を見ると、そんな感情は数秒経たず、何処かへ飛んでいってしまった。
「それは、何ですか?」
英語の先生が質問する時の様な口調で言ってやると、彼は少し不機嫌そうに眉を寄せた。
「見て分からないか?」
「私には猫に見えるわね」
「正解」
「それで? 何故おじさんはそんな猫達を抱いているのかしら?」
「それは……」
私から目を逸らして、彼の視線は宙を漂っている。ようやく、私が何を言いたいのか解ってくれたらしい。
「……入れちゃ、駄目か?」
「駄目」
私が即答すると、彼は大きい身体に似合わず肩を落として俯いた。
「だって雨の中、捨てられていたんだぞ……可哀想じゃないか」
「このマンション、ペット禁止なんだけど?」
駄目な理由を私が強く告げても、小さく『でも……可哀想じゃないか』ともう一度呟かれる。ちゃんと社会人らしくスーツにコートを羽織っている姿にも関わらず、何を小学生みたいな理由で子猫を連れてきたのだろう? さらには私を養ってくれている相手なのだが……、まるで大型犬でも叱っている様な錯覚に陥ってしまう。
「勿論、飼わないけど……里親見つけるまでの保護でも駄目か?」
「……あのね、誰が面倒見るの?」
「俺がちゃんと、面倒見るから……」
「会社行ってる間はどうするの? 結局私が面倒見る事になるんでしょ?」
「それは……」
本当にこの人は四十前なのか? と反論していて頭痛がしてくる。
玄関とはいえ、外とは全然違う暖かい温度なのに、いい加減開いた隙間から流れてくる空気に冷やされる。少し寒いかな……、と思って力を緩めた時だった。
挟んでいた足を大きく動かし、開いた間から彼が身体を滑り込ませて玄関へと入ってきた。
「ちょっと!」
私の声は閉まったドアの音と、隣に立っている彼の腕から聞こえてくる子猫の合唱によって掻き消された。
「……お前が入れてくれないから、俺もこいつらも寒かったんだぞ」
そう言って少し困った様に微笑む彼の顔を見て、私は何も言えなかった。
彼は朝持っていた筈の傘は持っておらず、その代わり少し乱れた髪からポタポタと雫が肩に落ちている。彼の顔からさらに視線を下へ降ろすと、雨を吸ったコートからも雫が落ちてタイル張りの床を濡らしている。
鞄を脇に挟み、コートを着た腕に抱かれている三匹の子猫のうち一匹は、コートのボタンとボタンの間から顔を出して私の方を不思議そうに見つめていた。
多分、傘もささず自分だけ雨に濡れて、子猫達はコートの中に入れていたのだろう。
そんな事位、私じゃなくても解る事だ。
だけども、ただ“可哀想だから”という理由だけで、この時期の……、しかも雨の日に、この人は本当何をやっているのだろう?
「取り合えず、説教なら後で聞くから……タオル、頼んでもいいか?」
全く悪びれた様子も無く当たり前の様に言われて、私は何も返事を返せない。
「ハル……怒ってるのか?」
私が無言だった事に対して、怒っていると判断されたのだろう。少し遠慮気味に名前を呼ばれる。だけども、私は何も答えなかった。
さっきまでは連絡も寄越さず遅くなった上、子猫まで無神経に連れ帰ってきた事に腹立たしかったのは事実だ。でも、今は何だかそんな事で怒るのが馬鹿らしく感じていた。
ただ素直に許してしまうのも釈然としなかったので、私は履いていたサンダルを乱暴に脱いで無言で脱衣所までタオルを取りに行く事にした。
少し慌てた様子でもう一度名前を呼ばれるが、関係無い。少し位は私が怒っていた理由を悟って反省してくれればいいと思う。
脱衣所にあったバスタオルを掴み、玄関へと戻ってきたところで、私と彼の眼が合った。
少し肩を落として濡れた身体を丸めている様子は、やっぱり何度見ても大型犬のそれにそっくりな印象がある。私みたいな高校進学前の子供に怒られて、気落ちして……、全くもって年齢と社会的地位と、図体がまるで噛み合っていない。
「ハル……」
「……なによ?」
「お前は俺にとって一番の存在だから、そんなに妬くな。俺はお前を世界一愛しているぞ」
「…………」
呆れ果てて、絶句してしまった。
多分、愛情表現に関する語彙が極めて乏しい彼なりの言葉なのだろう。これが、養女として迎え入れられている私に向けての、父親代わりを勤める者として精一杯の表現なのだろう。
だが……、どう考えてもその使い方は間違っている。
そして、その間違った使い方をした言葉を、間違った方向に捉えてしまう私も私だ。
身体が熱を帯び、頬が赤くなるのが自分でも分かる。
ただ、そんな私の様子を見てさらに変な言葉でも投げ掛けられると、とてもでは無いが精神が持ちそうに無い。
だから──、
私は渾身の力を込めて、全くもって不器用な養父の顔面へとバスタオルを投げつける他無かった。