1 落ちた舞踏家
『世界は舞台、人はみな役者』
幼い頃、父から教わったその言葉は、今でも心の奥底で眠っている。
世界は『舞台』のように美しく、人はみな与えられた『役』を演じるために生まれたのだと。
誕生から死まで、分厚い仮面を被り、授けられた役柄に合わせて自身を変化させ、時と場合によって様々な感情を引き出し、それによって多くのものを魅了するのだと。
人間こそが、最高に素晴らしい物語を生み出せる生き物なのだと。
バレエダンサーとして活躍した父の教えに、水瀬蒼太はいたく感銘し、その影響で五歳の頃からバレエ教室に通った。
五歳の時点で、蒼太の才能は見抜かれていた。厳しいと評判の教室だったが、同学年の生徒の中で、いち早くトウシューズを履く許可が下りたのは蒼太だ。
その影響で蒼太は陰で嫌味を言われたり、長く在籍している先輩におろしたてのトウシューズを泥で汚されたりした。
出る杭は打たれるものだが、圧倒的な才能の持ち主はその程度の愚行など鼻で笑えるものだ。
蒼太は全国的なバレエコンクールの小学五、六年の部で、第一位の賞を獲得するまでに成長した。
ゆくゆくはスカラシップを獲得し、バレエ留学をするのが蒼太の夢だった。
天才舞踏家。それが周囲から蒼太への評価だ。
元々から備わっている身体の柔軟性。他人の良いところだけを見よう見まねで再現できる観察力の高さ。そして何より、同じ踊りを繰り返すことで体に叩き込む努力の才能。
蒼太は信じて疑わなかった。自分こそがこの舞台の主人公なのだと。誰よりもスポットライトを浴び、拍手喝采を鼓膜に焼き付け、羨望の眼差しを受けるに値する人物なのだと。
自らのためだけに用意された、完璧に整備された道を歩めるのだと。
――しかし、主人公が必ずしも栄光を浴び続けられるとは限らない。
時として、舞台は変化するものだ。ずっと同じ者だけが、同じ演技をするのはつまらない。
だから、舞台から降ろされたのだろう。天から与えられた役は、そういうものだったのだ。蒼太はそう悟った。
だから、蒼太はもう踊らないと決めた。哀れなマリオネットに成り果てるくらいならば、スポットライトを浴びることのない場所にいた方が、気が楽だった。
今日も蒼太は、惰性でこの世界を生きている。
ー*-*-*-*-*-*-*-
三ヶ月前に両親が離婚し、蒼太は母の地元へ引っ越した。
長野県の県境に位置する、人口約三千人の小さな集落、深瀬村。転校先は村にたった一つしかない分校だった。小、中学校併設の、いわゆる義務教育学校である。教員は二名のみ。制服もなく、都会の公立中学校とは明らかに環境が違った。
だが、蒼太は元々人付き合いも上手く、誰に対しても友好的に接することができる性格だ。友達を作り、それなりに学校生活を謳歌していた。
たとえ、心の欺瞞を隠し、分厚い仮面を被っていたとしても。
ー*-*-*-*-*-*-*-
右脚に巻かれた包帯を視界に入れるのが不快だったので、目線を上にし、正面の光景を眺めるしかない。
そこには、低学年や高学年など関係なく、無邪気に走り回る子供たちの姿があった。
義務教育学校の体育の時間とはいえ、全校生徒が10人にも満たない規模で可能な運動などたかが知れている。準備体操をしたあとは、各々が好きな遊びに没頭していた。体操服を着ていること以外、昼休みの時間となんら変わらない景色だ。都会の公立中学校では考えられない授業形式である。
いや、授業と呼べるのかも怪しい。最初の準備体操を終えると、教師の松葉遊歩はテストの採点があるからと、足早に教室へと去ってしまったのだから。
蒼太はしばらく楽しそうに走り回る子供たちを眺めていたが、もう何度も見た慣れた光景に辟易し、 目を閉じた。そのまま、うとうとと夢うつつになる。真っ先に脳裏に浮かぶのは、深紅のカーテンと金の装飾に彩られた舞台。客席を照らす豪華なシャンデリアに、光沢のある衣装や白い肌を最大限引き立てる照明。昔、父と共に見た夢のような光景が、今もありありと鮮明に記憶されている。
もう、そんな憧れの舞台で踊ることは叶わないというのに。
そんな幾度となく繰り返した夢想から、蒼太は現実へと引き戻される。
「水瀬君。今、少しいいかな」
振り返ると、いつ間にか松葉がこちらの様子を伺うように目を細めていた。優しげなその眼差しには、奇妙な安堵感がある。
蒼太は腑抜けた返事をした。
「はい。いつものように見学してただけなので」
「そうだね。いつも見学ばかりさせてしまったけど、たまには教室で自習したり、本を読んでもいいんだよ」
「いえ、勉強も本もさほど好きではないので」
「はは、そうか。……少し、話ができないかな。五分ほどで構わないよ」
「分かりました」
蒼太は立ち上がり、松葉と共に校舎へ戻る。
簡単に話がしたいと言うから、てっきり誰もいない教室に行くと思ったのだが、存在すら忘れていた相談室へと案内された。元々、使われなくなった古い公民館を改装した学校なので、部屋の数も多くない上に、端々に粗末さが目立つ。そんな中でも、相談室は校舎の端にあり、生徒もほとんど立ち寄らないので、名ばかりの寂しい部屋と化していた。それでも、室内は掃除が行き届いており、質の高そうなソファや机も埃一つなく、洗練された雰囲気が漂っている。松葉が掃除をしているのだろうか。
「座っていいよ」
促されるままソファに腰を下ろす。松葉は向かいに座り、一泊置いて口を開いた。
「水瀬君も深瀬村に来て三ヶ月か。もうこちらの生活には慣れたかい?」
「はい。最初は驚きましたけど、今はさほど気にしなくなりました。むしろ自由な校風のおかげで、転校前の学校よりも肩の荷がおりた気分ですよ」
「そうか、それは良かった。正直に言うと、この学校は異質だからね。全学年が集まる複式学級な上に生徒も少ないし、実際に授業を行う教師も僕しかいないから」
松葉は満足気に頷いた。その視線は蒼太の目に向いていたが、少し俯いて下を見る。蒼太は直感で、包帯の巻かれた痛々しい脚に注視しているのだと理解した。
「……その脚で、何か不便なことはないかい?」
松葉の問いに、蒼太は視線を逸らして答えた。
「いえ、特に。痛みもほとんどないですし、もうすぐ包帯は取れてサポーターに変更になるそうです。軽めの運動なら、もうすぐできるようになると医師にも言われています」
「それは何よりだ」
松葉は優しげに目を細めた。アンニュイな瞳からは、どんな相手も引き込むような力を感じる。言葉選びが慎重で、誰しもが持っている心の壁の奥には絶対に踏み込まない。許された範囲内で、まるで解きほぐすように語りかける言葉には、不思議な心地良さがあった。
松葉は立ち上がり、相談室の扉を開けた。
「話をしてくれてありがとう。そろそろ体育の時間も終わりだね。教室に戻っても構わないよ」
蒼太は頷き、松葉に軽く会釈をしてから相談室を出て廊下を歩く。
松葉は教師としてかなりの好印象を抱ける人物だ。優しく、振る舞いも穏やかで、陽だまりのような安心感がある。
転校前に通っていた中学校の担任は、あまり好きではなかった。人間性に問題があるわけではなく、むしろ規律に則った模範的な先生だった。
だが、蒼太は知っている。正しくあろうとしている人間の、底知れない軽薄さを。
『夢だけが人生じゃない。あまり悲観的になることはないぞ』
右脚の靭帯損傷で入院したのち、退院後の登校で、真っ先に担任に言われたその言葉。
それは、夢が人生そのものだった蒼太にとっては、人生を否定され、そんなものだと決めつけられ、夢という希望を失った喪失感を肥大させる言葉だった。
言っていることは何も間違っていない。
だが、それは自分が世界からズレてしまったということを意味していた。
それならば、松葉のように余計なことは何も言わなくていい。何もしてくれなくていい。ただ黙って、夢を失った自分を哀れんでいればいい。
廊下を歩いていると、脳裏には呪いのようにあの言葉が浮かんでくる。
『世界は舞台、人はみな役者』
蒼太は呟いた。
「この世界が舞台なら、僕はとうに役を失った」
その言葉には、形容しがたい複雑な気持ちが込められていた。
――だが、その時の蒼太は知る由もなかった。
時として、舞台は変化するものである。
だが必ずしも、失ったスポットライトが完全に消えてしまうわけではない。
与えられた役が、思った通りのものとは限らない。
舞台を降りた者が、その役を失うことはない。
かつての天才舞踏家を待つのは、人か、神か、それとも怪異か――。




