VIBRANT
来年もまた会おう。って集まってるあの陽気な人たちが友達にはなりたくないけど(まぶしすぎて、石の裏のジメジメした所に生きているような性格の自分には無理です)、楽しそうだな、って見ているのは好きです。
よろしくお願いします。
午後の陽光が、埃っぽいカーテンを透かして部屋に差し込む。
僕はいつものように、窓辺の古い木製のテーブルに腰を下ろし、黒い陶器のマグカップから立ち上るコーヒーの蒸気を眺めていた。
豆はコロンビア産のものだ。
深煎りで、鼻腔に甘く土っぽい香りが広がる。
レコードプレーヤーの針が、静かに盤面に落ちる音がした。針先が溝をなぞり始めると、部屋は少しずつ別の場所に変わっていく。
今日の選曲は、古いジャズ・フュージョンのインストゥルメンタルでタイトルは、ヴァイオリン・ラプソディ。
ジャケットの表面が少し光沢を失った古いアナログ盤。当時、インディーズとして発表されたそれは、プレス枚数が五千枚あったかどうかも怪しいと、教えてくれたのは誰だったか。
ジャズの柔らかなベースラインが、ラテンの熱気を帯びて広がり、ヴァイオリンの独奏が際立ち心臓の鼓動のように跳ねる。まるで命の輝きを閉じ込めたような曲。
聞けば、多くの人を魅了したに違いないそれは、時代に味方されず埋もれてしまった。
僕は目を閉じ、音に身を委ねる。
この曲を初めて聴いたのは、二十五年前の夏だった。
あの頃の僕は、二十代半ばのただのサラリーマンで、東京の雑踏に埋もれていた。六本木の小さなバーで、偶然隣に座った男がマスターにリクエストしたのだ。男はヨーロッパ訛りの強い日本語を話していて、手首に古い銀のブレスレットが揺れていた。
曲が流れ始めた瞬間、僕はグラスを置いて耳を澄ませた。メロディーはエキゾチックで、情熱的だった。ジプシースウィングの軽やかなタッチが、フュージョンの重厚なコードに絡みつき、すべてが多国籍な夢のように混ざり合う。思い浮かぶのは、南米の路地裏で影絵のように踊る女たちのシルエット。
あの夜、僕は男に声をかけ、曲のことを尋ねた。
彼は、笑って言った。
「これはね、情熱の地図だよ。心が旅をするためのね」
それ以来、この曲は僕の人生の断片に染みついている。
失恋の夜に、引っ越しの朝に、雨が降った日の電車の中で。
感覚で言うなら、1980年代のショートフィルムみたいだ。昭和という時代が成熟し、腐り落ちる直前のかぐわしき芳香。バブル景気に沸き立ち、汎ゆる物がカラフルでファッション性を重視したものへと置き換わっていく。
あの時代ならではの色使いは、レトロでノスタルジックな気分を呼び起こす。
どこか煤けて、けれど新しい挑戦が垣間見える情熱の焔。
僕はグラフィックデザイナーとして、広告のレイアウトを描く日々を送っている。クライアントの要望はいつも同じだ。「もっと鮮やかに」「もっと売れるように」。
でも、僕の頭の中はいつも、色褪せ変に色の抜け落ちた8ミリのフレームで満ちている。
なんとなくの思いつきで、僕は古いフィルムカメラを引っ張り出して、窓から街を撮ってみた。
東京の街は、変わらず灰色のビルが林立し、人々が足早に通り過ぎる。
シャッターを切るたび、軽やかな機械のクリック音がどこか切なく耳に響く。
ファインダーの中の秋に、冬が紛れ込み始めていた。
ある朝、いつものようにコーヒーを淹れていると、電話が鳴った。取った受話器から聞こえてきたのは、嗄れながらもどこか甘く低い声。
「渡辺さん? 古い知り合いだよ。覚えてるかい、六本木のバーで会った男さ」
心臓が少し速くなった。あのヨーロッパ訛りの男。二十五年ぶりだ。
「明日の夜、あの店で待ってる」
電話はそこで切れた。
僕はカップを握りしめ、窓の外を見つめる。街の喧騒が、遠くリズムのように聞こえた。
翌日、仕事を終えるた僕はコートを羽織ってネオンがちらつき始めた街に出た。
六本木の街は、年齢、性別、国籍さえも様々で多くの人間がひしめく。海外からの観光客、建ち並ぶオフィスビルからのビジネス層、ナイトライフを楽しむ若者たち。
眠らない街と揶揄された街は、上品で洗練された街なんて呼ばれるようになった。けれど、線を一本飛び越えれば違う顔を覗かせる。
指定されたバーは、路地裏の古いビルの地下にあった。階段を降りるにつけ、煙草の匂いとジャズの残響が混じり合う。カウンターに座る男は、予想通りだった。髪は白く薄くなり、手首のブレスレットは変わらず銀色に輝いている。彼はグラスを傾け、微笑んだ。
「久しぶり、渡辺さん」
僕らはビールを注文し、昔話に花を咲かせた。男の名はルイだった。フランス生まれの放浪者で、若い頃はパリやニューヨークを渡り歩き、南米までも足を伸ばしたそうだ。
そんな放蕩の行く末、生まれた曲のひとつにヴァイオリン・ラプソディがあるのだと、彼は言った。
南米のストリートで即興的に紡がれた情熱の形。僕は驚いてグラスを置いた。
「きみが、あの曲の?」
ルイは頷き、ポケットから小さなカセットテープを取り出した。
「これは、オリジナル。といっても、テープ自体はコピーだけどね」
その夜、ルイはテープを再生した。
バーの古いプレーヤーから、ノイズが混じった音が流れ出す。
「1986年にリオで録音した。忘れもしないラウンド・ミッドナイトが公開された年さ」
メロディーは、僕の知るヴァイオリン・ラプソディと同じだったが、より生々しく、埃っぽい。ラテンのギターが熱く鳴り、ジプシーのフィドルが哀しげに絡む。サンバのリズムは、足を自然と動かしたくなるほど情熱的だ。ルイの目が細くなる。
「この曲はね、君のような人のためのもの」
酒が進むにつれ、話は過去へと遡った。ルイは1986年のリオを語った。1985年に軍事独裁政権が倒れ、文民政権が復活したがスタグフレーションで経済は良くならず、悪化する一方の悪循環に陥っていったこと。犯罪率が上がり、ルイのような外国人は気を張って生きなければならなかったこと。
悪化する治安と行き詰まる経済、先の見えない不安。
それでもビーチでは、女たちがサンバを踊り、男たちは酒を呷った。空は青く、情熱の匂いが街全体を包んでいた遠い日――――。
僕の頭に、傷付き色褪せたフィルムが浮かぶ。ショートフィルムのワンシーンだ。カメラが、波打ち際をパンし、若い男が女の腰に手を回す。影が長く伸び、ジャズのホーンが低く響く。ルイの声が、重なった。
「あの頃、ボクは一人の女に出会った。名前はアルドル。ジプシーの血を引くダンサーで、黒曜石色の瞳は、まるで黒い炎が燃えているようだった」
僕はグラスを回しながら、想像した。
アルドルの肌は、オリーブ色で、首筋に小さなタトゥーが入っている。彼女のダンスは、当然のように観る者の心を奪った。
ルイは彼女と恋に落ち、南米中を旅する。
祭りの夜は仮面を被り、群衆の中でキスを交わした。だが、情熱はいつも儚い。アルドルは突然姿を消し、ルイはヴァイオリンケース一つでヨーロッパへと戻る。
「あの曲はね、彼女が僕の弦に息を吹き込んだんだ。情熱が交錯するエキゾチックで、多国籍な、生きるという命そのもの」
バーを出た頃、夜は深くなっていた。ルイは僕にテープを渡し、別れの握手を求めた。
「これをあげるよ。君の人生に、彩りを」
僕は頷き、路地を歩き始めた。ポケットのテープが、重く温かい。家に帰り、ベッドに横になると、僕はすぐに再生した。
部屋に音階に隠された情熱の欠片が満ちていき、僕はその密度に押し潰されるように目を閉じる。
すると、夢が始まった。
いや、夢ではなく、ショートフィルムだ。
フィルムの最初のフレームは、ぼやけたタイトルカード。
「ヴァイオリン・ラプソディ」。
白黒の文字がフェードインし、波の音がする。カメラはリオの港を捉えた。
低く鳴る船の汽笛の音を背景に、男が桟橋に立っている。Tシャツにサンダルのラフな格好をした男。手には楽器ケース。
男は僕だ。二十代の、髪の長い僕。
風が頰を撫で、遠くから太鼓のような音が聞こえた。
僕は歩き出す。街の路地へ。
石畳の道が続き、壁には落書きが並ぶ。子供たちが、ギターを弾きながら追いかけてきた。
「セニョール、情熱を分けて!」
笑いながら通り過ぎていく。彼らを目で追えば、立ち去る背中と引き換えに、路地の奥で立っている女性が目に入った。
アルドル。
赤いドレスを纏い、黒髪を風に遊ばせている。彼女の目は、ルイの話通り、黒い炎のようだ。僕らは視線を交わし、無言で手を繋ぐ。カメラがゆっくりと回り、影絵のように二人のシルエットを映した。
舞台は、音が満ちたストリートへ。
群衆が渦巻き、仮面の男たちがワインを撒き散らす。アルドルが踊り始めた。腰をくねらせ、足を高く上げ、ビートに身を委ねる。僕はヴァイオリンを構え、弓を動かした。ジプシースウィングのメロディーが、フュージョンのベースと溶け合う。
嗚呼、この音は、あの曲の原型だ。
ダンスは激しくなる。汗が飛び、息は荒く、アルドルから漏れ出した情熱の炎が二人を包む。カメラはクローズアップし、彼女の唇が僕の耳元で囁く。
「これは夢じゃない。ノスタルジックな現実よ」
熱く、湿った唇。
フィルムの粒子がざわめき、セピアの色が少しずつ滲む。だが、突然カット。フレームが揺れ、雨が降り出す。リオの空が暗くなり、アルドルが霧の中に消える。僕は一人、ヴァイオリンを抱えて立つ。
サンバのリズムが遠ざかり、ジャズの哀愁だけが残った――――。
目が覚めると、朝だった。テープは止まり、部屋にコーヒーの残り香が漂う。僕はベッドから起き上がり、窓を開けた。
東京の街が、灰色の霧に包まれている。
夢の残像が、頭にこびりついていた。あのフィルムのような旅。情熱的で、エキゾチックで、しかし儚い。
僕はキッチンに立ち、トーストを焼いた。
パンの表面がカリッと黄金色に変わるのを眺めながら、チーズをそっと乗せる。
一口かじれば、日常の味が静かに広がり、どこか遠い夢の記憶がそこに甘さを加えた。
その日、僕は仕事場へ向かう電車の中で、再びテープの曲を思い出した。頭の中で鳴り続ける情熱の残響。
ポケットに忍ばせたカセットが、体の熱を伝えた。
オフィスに着き、デスクに座ると、クライアントの資料が山積みだ。僕はスケッチブックを開き、ペンを走らせる。
だが、手が勝手に動く。
リオの路地を描き、アルドルのシルエットを加える。サンバのリズムをイメージした曲線。
デザイナーの同僚が覗き込み、「おい、渡辺、何だこれ? レトロなポスターか?」と笑った。僕は頷き、「そうだよ。1980年代のショートフィルム風だ」と答えた。
夜、家に帰ると、ルイから手紙が届いていた。
――――アルドルは、君の心の中に生きている。
僕は、手紙を引き出しにしまった。
もしかしたら、もう彼とは会うことはないのかもしれない。
プレーヤーをセットする。
テープがサラサラと回り始め、やがてメロディーが響き出す。ジャズのベースが低く唸り、ラテンのギターが熱く響く。
目を閉じた僕の頭の中で、フィルムが回り始めた。
リオの港、路地、ダンス。
アルドルの影が、ノスタルジックに揺れていた。
だが、今度は少し違う。
フィルムの終わりに、僕の顔が映った。
四十代の、疲れた目をした僕。アルドルが手を差し伸べ、「来て」と囁く。僕は手を握り、フレームの外へ歩き出す。リズムが加速し、弦が歓喜に震える。
生きるという時間そのもの――――。
カメラはフェードアウトし、タイトルカードが戻る。
「VIBRANT」。
曲が終わり、機器が停止する無機質な機械音がした。
僕は立ち上がり、窓辺へ。
外の街灯が、セピア色の光を投げかける。東京の夜は、いつも通り静かだ。
だが、心の中では、情熱が鳴り続けている。
僕はキッチンに立ち、コーヒーをもう一杯淹れた。豆の香りが部屋に広がり、朝の静寂を優しく満たす。カウンターに置かれたカップから立ち上る湯気を見ながら、僕は明日へのスケッチを頭の中で描き始めた。
線はまだ曖昧で、色も定まらない。でも、それが人生というものだ。フィルムのように、途切れそうで途切れず、ゆっくりと回り続ける。
それから数日後のことだった。
僕はルイを探して、六本木の裏通りにあるあのバーに足を運んだ。扉を開けると、薄暗い店内にジャズの低音が流れ、カウンターの向こうでマスターがグラスを磨いていた。
僕がルイのことを尋ねると、彼は静かに首を振った。その仕草で、僕は悟る。
カウンターに腰を下ろすと、冷えたビールを注文した。バーの薄暗い空気の中で、古いジャズのレコードが静かに回っている。煙草の煙が、薄いヴェールのように漂い、スピーカーから流れるサックスの音が心の奥に染み込んでいく。
ポケットの中で、テープの硬い感触を指でなぞりながら、僕は小さく微笑んだ。
ルイはきっと、またどこかへ旅に出たのだろう。
心の地図を、知らない誰かに手渡すために。
家に帰り、僕は古いフィルムカメラを手に取った。レンズを覗き、部屋の隅を切り取る。古い木の棚に積もった埃、飲みかけのコーヒーカップ、乱雑に重ねられたレコードの山。シャッターを切るたび、すべてがセピア色の世界に変わる。現像を待つ間、僕はヴァイオリン・ラプソディをターンテーブルに乗せた。
ジャズの柔らかさとラテンの熱気、ジプシーの哀愁が混ざり合い、心の底をそっと掻き乱す。サンバのリズムが体を動かし、僕は一人、ぎこちなく、けれどどこか情熱的に、部屋の中で踊ってみた。
壁に伸びる影が、フィルムのフレームのように揺れる。
現像された写真を手に取った瞬間、僕は息を飲んだ。
一枚に、アルドルのような女のシルエットが写っていた。僕の後ろ姿の隣に、ぼんやりと。
トリックか、幻か。
あるいは、フィルムが捉えた心の残像か。
写真を机に置き、僕はワインのボトルを開けた。グラスを傾けながら、村上春樹の小説を思い出す。あの作者の物語は、いつもこんな風だ。日常の隙間に、シュールな夢が忍び込み、猫が路地を横切り、ジャズが静かに流れ、失われた恋がノスタルジーの香りとともに蘇る。すべてが夢と現実の間で揺れ、答えはいつも少しだけ遠い。
夜更け、僕はベランダに出た。
東京の空には星一つなく、ビルの灯りが遠くで瞬く。風が、どこからかサンバのリズムを運んでくるようだった。目を閉じ、ポケットのテープのメロディーを口ずさむ。情熱的で、エキゾチックな旋律が、胸の奥で小さく響く。
1980年代のショートフィルムは、僕の人生の断片だ。
レトロな演出で、ノスタルジックに彩られ、多国籍な情熱を宿す。
翌朝、僕は荷物をまとめ、電車に乗った。
行き先は決まっていない。ただ、南へ。
リオではないが、どこかエキゾチックな街へ。
ポケットにテープを入れ、カメラを肩に。サンバのリズムが、足取りを軽くする。
ヴァイオリン・ラプソディが、永遠に続く旅のBGMのように心に響く。
動き出した電車の窓の外、東京の景色が流れていく。
灰色のビル、雑踏の人々。
だが、心の中では、8ミリフィルムが回り続ける。
アルドルの笑顔、ルイのブレスレット、ジプシーの弦の響き。それらが混ざり合い、ノスタルジックな夢の断片となる。
僕は、ヘッドホンを耳に当て、テープを再生した。
ジャズ・フュージョンの滑らかな基調に、ラテンの熱気とジプシースウィングの軽やかさが溶け合い、情熱的で、エキゾチックな世界。
――――旅は、始まったばかりだ。
いや、仕事は?
お時間頂き、有難うございました。
心の中の村上風春樹をかき集めてみました。
パンケーキは、バターとはちみつ派です。