5 消去された言葉の都~語りの欠落と廃墟の声~
鉄錆の匂いが、風の向こうから漂ってきた。
“言祝ぎの村”から北東へ。乾いた石畳の道はところどころ崩れ、地面には無数の裂け目が走っていた。
かつてここが街道だった証を示すかのように、道の両脇にはねじれた鉄標や朽ちた街灯が、まるで時間に押し潰されたかのように斜めに立っている。
「……ここは?」
ルカが呟いた言葉は、まるで灰の中に吸い込まれるように響きを失った。
「そう。……昔は“文の都”と呼ばれていた場所だよ。」
ハーリィは小さく頷きながら、靴先で瓦礫をそっとどける。
「けれど今は、語られることもなくなった。声も、音も、意味さえも。」
街の入口には、朽ちたアーチ型の門がぽつりと残っていた。
その表面に刻まれた文字は風化で半ば崩れていたが、不思議なことに、瞬きの間だけ古の詩句が浮かんでは消える。
《────語られぬものは、沈む────》
「今、何か見えた……?」
ルカが首を傾げると、ハーリィは小さく目を細める。
「“語りの残滓”だね。ああやって、かつての物語がこの街の壁に、空気に、ほんの少しだけ染みついているんだ。」
そして、門をくぐると、
そこには、まるで世界の音が、まるごと奪われたような、沈黙の都市が広がっていた。
建物のほとんどは崩れ落ち、瓦礫の山が連なる。
けれど、それでもなお、壁の断面や床の敷石に、かつての“文の欠片”が時折、淡く光っては消えていた。
その様子はまるで、“言葉そのものが建築素材だった”かのような異様な印象を与える。
「……こんなにも、静かなんだね。」
ルカの声は、返事もなく消えた。
風もなく、鳥もいない。
ふたりの足音すら、いつの間にか沈黙の中に飲まれていた。
ハーリィは、そっと右手を掲げる。
指先に風の綾が集まり、微細な気の流れが周囲に触れて、そして、震えたように消える。
「ここには“記憶圧縮の呪層”がある。書記官たちが、この街の語りを封印するために残した痕跡だ。」
「じゃあ、ここも牢獄の一部、なんだね。」
ルカは言いながら、ポーチから一冊の薄いノートを取り出した。
かすかに綴られた言葉の残響を、“綴言”によって拾い集める準備をする。
「語り手がいなくても、物語はここにある。……たとえ、かすかにでも。」
消去された言葉の都──
音のない都市に、ふたりの足音が見えぬかたちで刻まれながら、沈黙の探索が始まっていった。
街の中央、かつて“詩の塔”と呼ばれた建造物に辿り着いた。
残るのは土台と、斜めに傾いた螺旋階段の残骸だけだったが、ルカにはそこにまだ何かが眠っている気がした。
「この塔……風の流れが、他の場所と違う。」
ルカが目を細める。
塔の上空からは、見えない気流のようなものがゆっくりと街に降り注いでいる。
「記録の風、だね。」
ハーリィは塔の側面に手を触れ、うっすらと浮かぶ刻印を見つめた。
「この街の語り手が、最後に記した“語りの残滓”。その風がまだ、ここに残ってる。」
ルカはそっと、語り布を取り出した。
それは物語牢獄から持ち出した布であり、時折、神話の記憶を拾う媒体となる。
布に触れ、目を閉じる。
そして、言葉を紡ぐ。
「綴言──“こえ、もどれ”。」
その瞬間、塔の残骸に、淡い光が走った。
見えない風が塔の中心を貫き、渦のように街中へ広がる。
どこか、遠くの時間から声が戻ってきた。
──あの日、風雷神は落ちた。
──語り手たちは、それを記録しようとした。
──だが、黒き帳がすべてを覆い、神話は掻き消された。
──記録は塗り潰され、言葉は消され、そして我らも……
声はかすかで、風にちぎれながら、それでも確かに存在していた。
「“風雷神の墜落”……?」
ルカが呟くと、ハーリィが小さく頷く。
「この街に残る最後の神話。けれど、それを“語った者”たちは……。」
続きはなかった。
声はそこでぷつりと切れたかのように、再び沈黙が戻る。
「消されたんだね。書記官に。」
「そう。語りの殺し屋……。記されたものを“存在ごと”切り裂く存在。」
不意に空気がざわついた。
遠く、塔の向こうの路地。
歪む光の向こうに、黒衣の影が一体、現れていた。
「やっぱり来た。」
ルカの綴言がこの地の記憶に触れたことで、彼らの存在が記録されてしまった。
それは、この世界において彼らの存在が認識されたことと同義だ。
それを追ってくるのが、書記官。
ハーリィは素早く、腕を振り上げた。風が巻き上がる。
「逃げるよルカ、こっちは任せて!」
「でも!」
「大丈夫。風は、忘却の向こうにも届く。」
塔を背に、ルカは走る。
懐に語り布を抱き、振り返らずに。
その手には、さきほどの“失われた語り手の声”が、わずかな記憶の残響として残っていた。
歪む風とともに、黒衣の影が歩み寄る。
その手に握られた“記録裂きの筆剣”が、空気ごと文章を裂くように振るわれた。
「──〈消去式・第七筆〉」
乾いた音と共に、通ってきた石畳が、まるで“存在しなかった”かのように消え去る。
ルカは思わず息を飲み込んだ。
この街が、こうして“語りを殺されてきた”のだと、初めて実感した。
「やっぱり……。本物の語りに触れると、来るんだね……。」
ハーリィは風を操り、空気をねじる。
次の瞬間、幾筋もの“幻風”が路地という路地を走り、ルカと書記官の間に複雑な迷宮を築いた。
「ルカ、こっち!」
ハーリィが手を伸ばす。
指先に触れる瞬間、世界がぐにゃりと揺れ、彼女とルカの姿が幻影にすり替わる。
“語られた逃走”が記録される前に、逃げなければならない。
それがこの世界のルール。
廃墟の屋根を越え、灰の道を抜け、彼らは街の縁へと辿り着く。
夜明けはすぐそこだった。
東の空が白んでいく。
高台に立つルカとハーリィの足元には、誰にも気づかれぬよう埋もれていた“封じられた碑”があった。
「これは……。」
ルカが触れると、碑の表面に、うっすらと文字が浮かび上がる。
〈記録されざる神話──“谷に沈む雷”〉
それは、綴言の力によって“目覚めかけている”記憶だった。
この街の語り手たちは、神話が殺されたあの日、この碑に最後の語りを封じたのだ。
「……“忘却の谷”に向かおう。」
ルカは静かに言う。
「語られなかった神話が、そこにあるなら、きっと……まだ続きがある。」
風が夜明けの匂いを運ぶ。
ハーリィは、ふっと笑った。
「語ることは、忘れられることと隣り合わせ。
でも、忘れられたものを呼び戻す言葉も、きっとある。」
ルカの語り布が、そっと揺れた。
その布には、新たな綴言の回路が刻まれていた。
──“ことば、癒やし、そしてよびかえす”。
語りが、失われた記憶に届き始めている。
ルカはかすかに、綴言が“記憶を呼び戻す力”を持ち始めているのを感じ始めていた。
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