3 解放と旅立ち
ハーリィの目が、言葉を求めるようにルカを見つめていた。
その視線は、語られることのなかった永き時を越え、ただ一つの願いを訴えていた。
――忘れられたわたしを、思い出してほしい。
僕は震える手でそっと胸の前に両手を組み、祖父から授かった綴言の力を呼び覚ました。
言葉が彼の内側から溢れ出し、光の糸となって空間を満たす。
僕はゆっくりと跪き、膝の上に本を開く。
そこには何も書かれていない白紙のはずの頁が、彼の心に触れるたびに淡く輝き、ひとつの“物語”を映し始めた。
「風が、かつて歌を持っていた世界があったんだ。」
語り始めると同時に、空間がふるえた。
紙の匂い、インクの香り、そして風のざわめきが戻ってくる。
「ハーリィは、風の精霊であり、“星辰の守護者”と呼ばれた神話のひとつだった。
彼女は、星の巡りを読み、風に言葉を乗せて、未来を予言する力を持っていた。
人々は彼女を敬い、風を聴くことで暦を知り、危機を避けてきた。
けれど、時代は変わった。言葉よりも剣が、星よりも火が求められた。
そして、彼女の語りは“迷信”と呼ばれ、やがて物語から追放された。」
頁に、風が吹く。紙片が舞い上がり、闇の中に一瞬の光が宿る。
ルカが語りを紡ぐごとに、骨の隙間から淡い風の光が漏れ始める。
「彼女は語りを封じられた。言葉を失った風は、ただの音に変わった。
誰も彼女の名を呼ばず、誰も彼女の最後を語らなかった。
だから彼女は、この物語牢獄に幽閉された。
未完の神話として、誰の記憶にも届かない場所に。」
ルカの声は震えていたが、確かだった。
「でも……僕は、君の物語をここに綴るよ。
風の名前を取り戻し、神話に還るべき言葉を。」
白紙の本の中に、金の文字が浮かび上がる。
それはルカの語りに応えるように、自ら物語を綴っていく。
透けていた鱗に、かすかな青銀の色が戻る。
風が撫でるたびに、羽衣のような光がその身体を包み、
かつて星の巡りを読む神の面影がよみがえっていく。
僕は光の糸を蛇神に絡ませるように紡ぎ、言葉の輪を広げていく。
そして、綴言は、語られなかった記憶の欠片を繋ぎ合わせる。
「忘れられた風の神話を、あなたと一緒に紡ぎ直す。失われた光を取り戻そう。」
次第に、蛇神の体のひび割れが光で満たされていき、
断片だった文字は完全な文章となって浮かび上がる。
それは彼女の生きた証だった。
「名を呼ぶよ。君の最後の語りを、僕が完結させる。」
ハーリィは目を閉じ、穏やかに微笑んだ。
「ハーリィ。風を纏い、星のめぐりを紡いだ者。
君は消えなかった。物語は、まだ終わっていない。」
瞬間、骨の蛇が風のうねりとともに崩れ、白銀の羽を持った姿へと変わっていく。
それは人のようでいて、風のようにかたちを持たず、ただ一つの神話として再構成されていく。
――「記憶よ、逆巻け。痛みの頁を破り、新たな節を刻め」
頭の冠には、消えかけた星々が一つ、また一つと灯り始めた。
「ありがとう……語り部よ……。あなたのおかげで……私はまた、自由になれる……。」
蛇神の姿は光に包まれ、骨と断片は消え去り、そこに美しい風の精霊が立っていた。
風に揺れる長い銀色の髪と、輝く青い瞳。
神話は語られ、記録され、そして解放された。
「ありがとう、ルカ。お前の言葉が、私を救った。
語られることなく終わった私の名前も、記憶も……。もう、ひとりではない……。」
風が静かに吹き抜けた。
美しく姿を変えたハーリィは、ふわりと宙に浮かびながら、ルカの方へと視線を向ける。
「この世界の奥底には……まだ、幾千もの声が眠っているわ。
語られず、忘れられ、記されぬまま……“頁牢”の奥に幽閉された、名もなき神話たち。」
彼女の声は、まるで風のささやきのように優しく、けれどその響きは確かに重かった。
「私だけではない。語り部よ、ルカ……あなたは“選ばれた者”ではなく、“繋いだ者”。
あなたの綴る言葉が、いずれ他の神話たちを解き放つ鍵となる。」
ルカは静かにうなずいた。まだ現実味は薄い。けれど心の奥で、何かが確かに動き始めていた。
「でも……どうすれば、他の神話たちを見つけられるの?」
ハーリィは小さく笑みを浮かべると、ルカの手元を指差した。
そこには、いつの間にか祖父の古びた日記があった。
「その中に、“道標”があるはずよ。かつて、あなたの祖父もまた、語り部だった。
彼はすべてを知っていた。だからこそ、その知識を“記録”として残した。」
ルカは革の表紙をそっと撫でた。冷たい手触りの中に、祖父のぬくもりが確かにあった。
「じいちゃんも……この世界のことを知ってたのか……。」
「彼もまた、神話を救おうとした。
けれど果たせなかった。今度は、あなたの番よ、ルカ。」
ハーリィの髪が風に舞い、銀色の糸が空にほどけていく。
まるで、世界そのものが彼の決意を見つめているようだった。
「——旅は、まだ始まったばかり。語られざる者たちが、あなたを待っている。」
その言葉に、ルカは強くうなずいた。
そして、静かに祖父の日記を開く。
そこには、一行の走り書きがあった。
『綴言を持つ者へ。
語られぬ神話たちのもとへと至る道は、記された“断片”の先にある。』
「じいちゃん……。」
「これからは私も共に旅をしよう。失われた物語を紡ぎながら。」
僕は力強く頷き、2人は静かに牢獄の闇を抜け出そうとした。
しかし、闇の静寂を破るように、冷たい声が響いた。
「そこで何をしている、語り手。」
薄暗い空間に、硬質な光を帯びた鎧を纏う書記官が姿を現した。
彼の目は冷たく光り、持つ筆はただの道具ではなく、戦の武器のように煌めいていた。
「ここは物語牢獄。無断で紡ぐことは許されぬ。」
書記官は冷たく告げると、一気に動いた。
床に刻まれた文字が光を帯び、紡がれた言葉の鎖がルカの足を縛ろうと伸びてくる。
「逃がさない!」
彼の声と共に、筆から放たれた光の刃がルカへ迫った。
僕は咄嗟に身をかわし、ハーリィの細い体を庇った。
「ハーリィ、動いて!」と叫びながら、綴言の力を呼び覚ます。
掌から放たれた言葉の光が、空間を切り裂き、縛られそうな鎖を断ち切った。
ハーリィは蛇神の形態から風の精霊の姿へと変わり、鋭い風の刃を巻き起こした。
風が渦を巻き、書記官の鎧を叩きつける。
だが、彼は冷静に筆を操り、風の刃を文字の盾で防いだ。
「お前たちのような者が自由に物語を紡げば、牢獄の秩序は崩壊する。」
書記官は言葉の結界を繰り返し作り、僕たちを追い詰める。
僕は息を整え、目を閉じて集中した。
「綴言はただの言葉じゃない。これは希望だ。」
彼は古びた日記から拾い上げた綴言の断片を紡ぎ直す。
その瞬間、空間が震え、言葉の光が幾重にも重なり合い巨大な光の盾となった。
盾は書記官の攻撃を防ぎながら、逆に押し返す力となる。
「今だ、ハーリィ!」
僕の合図で、ハーリィは風の翼を広げ、一気に加速。
光の盾の影に隠れながら、二人は闇の裂け目へ飛び込んだ。
裂け目はまるで次の物語の扉のように輝き、二人を優しく包み込む。
「追っては来るだろうが、今は逃げるしかない。」
ルカは息を切らしながらも、決意を新たにした。
外の世界はまだ遠い。
だが、旅はもう始まっているのだ。
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