1 氷の棺と眠れる女神
綴言の書の頁が、ほんのわずかに震えた。そこに現れた細い裂け目は、まるで薄氷を破るように静かに広がっていく。ルカとハーリィは互いに視線を交わし、ためらいながらもその裂け目の向こうへ足を踏み入れた。
一歩進むごとに、世界の温度が急激に下がっていくのが感じられた。息を吐けば白い霧となり、その霧は宙に漂いながら徐々に形を失っていく。視界の先には、銀灰色に凍てついた大地が広がっていた。地面は白銀の結晶に覆われ、空は鉛色の厚い雲に覆われている。風の気配は微塵もなく、静寂が空間を支配していた。
ハーリィが顔をしかめて、小さく呟く。
「風が、ない……。」
普段ならば彼女の指先からは軽やかな風が生まれ、空気を柔らかく撫でるのだが、今はまるで全ての空気が凍りつき、動きを止めてしまったかのようだった。彼女は何度も手を振り、風を呼び起こそうと試みるが、そのたびに冷たい空気の壁がそれを拒み、静かに凍りついていく。
音も同じだった。彼女が小声で呼びかけても、ルカが綴言の書を開いて声を紡ごうとしても、すべての言葉は凍結した世界に飲み込まれ、まるで存在しなかったかのように消えてしまう。光も弱々しく、氷の層を通して反射する影は薄く青白く揺れていた。
この場所には、生きた風も語りも届かない――無響の領域だとルカは察した。ここは、祈りも感情も、すべてが閉ざされ凍りついた世界だった。
だが、その凍てつく静寂の中に、かすかな気配があった。遠い過去の温もり、かすかに残る記憶の残滓。それは風も言葉も凍りついた世界に漂う、一筋の微かな光だった。
ルカはゆっくりと息を整えながら、心の中でつぶやいた。
「この場所は、祈りを忘れた神の眠る氷の神殿――ここから、新たな物語が始まるのだ。」
ハーリィも頷き、小さな声で応えた。
「そうね、ここから祈りを紡ぎ直しましょう。」
二人は凍てついた世界の闇へ、静かに歩みを進めた。
銀白の大地を踏みしめながら、ルカとハーリィは前へ進んでいた。氷の結晶が足元で細かく砕けるたび、まるで何かの声が遠くで軋むように響いた。しかし、それすらも幻のようにすぐ消えた。ここは本当に、音が届かない。
ほどなくして、視界の先に大きな影が浮かび上がる。それは氷霧の彼方にうっすらと姿を現す、大聖堂のような巨大建造物だった。かつては人々が祈りを捧げたであろう神殿──けれど今、その扉は閉ざされ、全体が透明な氷に包まれていた。
「……あれが、神殿?」
ハーリィが息を呑んで立ち止まり、瞳を見開いた。
近づくにつれて、壁に刻まれたかつての詩文が目に入ってきた。だがそれらは無残に砕け散っており、氷の層に封じられた断片は、もはや意味をなさぬ絵のように並んでいる。ところどころには、風化した絵文字の名残も見えた。かつて語られていた物語の欠片──だが、今はその全てが凍結していた。
ハーリィがそっと手をかざし、風を呼び起こそうとする。彼女の魔力がほのかに光をまとい、指先から温かな気配が生まれかけた。しかし、それは空気に触れた途端、無惨にも霜となって砕け散った。
「……風が、凍る……。」
彼女の声には、恐怖よりも戸惑いが混じっていた。
ルカも綴言の書を開き、ひとつの綴りを口にしようとした。だが、彼の声もまた音にはならず、唇の動きだけが虚空を舞った。語ろうとする言葉が、空気の中で完全に凍りついていた。
「語りすら……封じられている……。」
彼は目を細め、神殿の巨大な扉を見上げた。その扉は重く、音を立てることなく、凍てついた静寂にただ存在している。まるで永劫に閉ざされた心の扉のように。
ルカは無言のまま、扉に手を伸ばした。冷たい氷の感触が、彼の手を通してじわりと体内に広がる。だが、その冷たさは単なる温度ではなかった。それは、想いを拒み、祈りを否定し、すべてを封じた“無響”の感触だった。
「これは……ここで、祈ることすら許されていない……。」
そう呟いたルカの声だけが、凍てついた空間に小さく溶けていった。次第に、二人の前に広がる神殿がゆっくりと口を開けるように、氷の扉が軋みもなく開かれはじめた。その奥には、さらに深い沈黙が待っていた。
神殿の内部は、外よりさらに厳しい静寂に包まれていた。空気は薄く、冷たさが皮膚を刺すというより、骨の髄まで音もなく沈み込んでくる。光源らしきものは存在しないはずなのに、氷の天井から淡い青白い輝きが降り注ぎ、そこに佇む全てのものを幽玄の中に浮かび上がらせていた。
ルカとハーリィが進むたびに、足元の氷が控えめな音を立てる──かに思えたが、それも錯覚なのかもしれない。音はすぐに吸い込まれ、空間のどこにも届かなかった。ここはまさに、「語り」が凍り、「響き」が封じられた空間──無響領域。
中央の広間に辿り着いた時、二人は自然と立ち止まった。そこに鎮座していたのは、巨大な氷柱のような構造体。否、それは「棺」としか呼べない存在だった。高さは天井に届くほどで、透き通る氷の内側に、人型の影が封じられている。
「……あれは……。」
ハーリィが息を呑んだ。氷の中には、長い銀糸のような髪がたゆたう女の姿。白く輝く衣がまるで霜を纏っているようで、目を閉じ、静かに眠っているその姿は、神聖というより、無垢に近かった。
しかし、何より異様だったのは──彼女から感じられる「気配のなさ」だった。生きているのか、死んでいるのか、それすら分からない。魂の波も、呼吸の気配も、一切が凍てついたままだ。
「……生きてる感じが、しない……のに……消えてもいない。」
ハーリィが呟いた声が、冷気にかき消される。それでも、その言葉の意味はルカにも届いていた。確かに、彼女は“そこにいる”。だが、“ここにいない”。
ルカはゆっくりと氷の棺へ近づき、その表面に手を当てた。思ったより冷たくない。だが、感情を吸い取られるような感覚が、じわじわと指先から心へと伝わってきた。
「……言葉が、届かない。」
そう、彼女は神でありながら、あまりに遠かった。祈りを宿す器である祝詞碑が周囲にいくつか設置されていたが、それらもまた氷に包まれ、沈黙している。祝詞の文様は消えかけ、まるで「語られること」を拒んでいるようだった。
神が、神としての役割を捨てたのか。あるいは、捨てさせられたのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
「この人は……どうして、こんなところで……。」
ハーリィが、棺の前で立ち尽くす。
ルカは黙ったまま、綴言の書をそっと閉じた。今の彼らにできることは、まだない。
ただ、ここに眠る存在が「何を失ったのか」を、静かに見つめることだけだった。
神殿の奥、氷の棺の背後にある回廊は、薄闇に沈んでいた。光はなく、ただ氷が微かに放つ冷光が壁を照らしている。壁面には無数のひび割れが走り、まるで時間そのものが崩れかけているようだった。
ルカとハーリィは言葉少なに歩を進めていた。語るべきものがなくなったというより、語る言葉すら凍てつく空間の重圧に、無意識に言葉を抑えていたのだ。
そんな沈黙を破ったのは、淡く脈動する光だった。
「……あれ……?」
ハーリィが指をさす先に、小さな欠片があった。氷の床の隙間から覗くように、柔らかい光が明滅している。白とも金ともつかぬ、温度を秘めた輝き。それだけが、この世界に生を示していた。
ルカは綴言の書を開いた。そのページが、ゆっくりとめくれ、風のない空間にかすかな震えを起こす。そして欠片に呼応するように、一行の詩文が浮かび上がった。
「祈りの……断章……?」
ルカは跪き、欠片にそっと手を伸ばす。触れた瞬間、氷の世界が──揺らいだ。
風がないはずの空間に、あたたかい風が吹き抜ける。視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間、彼らはまったく異なる光景の中に立っていた。
──雪の降る神殿。かつての姿。
そこにいたのは、一人の少女だった。手を合わせ、震える声で神に祈っている。何を願っているのか、言葉は聞こえない。ただ、その肩は細かく震え、瞳には涙が浮かんでいた。
やがて、神が現れる。
白い衣に包まれた、先ほど棺にいた女神──だが、彼女は生きていた。光を宿し、静かな微笑を湛えていた。
女神は少女の頭に手を触れ、何かを囁いた。少女の涙が止まり、口元に安堵の笑みが広がる。
それが──最初だった。
少女の姿が消えると、次には老いた男、次には病の母を抱えた少年。無数の祈る者たちが神の前に現れ、神はそのすべてに微笑みと恩寵を与えていった。
しかし──時が流れるにつれ、女神の表情は次第に変わっていく。
最初は優しく、柔らかな微笑。
それが、静かな目元。
やがて、口角が動かなくなり、目の奥から光が消えていく。
笑顔を浮かべたまま、微笑を忘れていく女神。
願いを叶え続けるたびに、彼女は一歩ずつ、「心の温度」を失っていった。
そして最後には──まるで機械のように、祈りに応じ、感情を持たない存在となった。
その瞬間、空間が砕けた。
情景は氷の破片となって崩れ、現実の神殿へと引き戻される。
断章の光は淡く消え、何も語らぬまま氷に閉ざされた。
「……今の、は……。」
ハーリィが振り返る。ルカは小さく首を振った。断章には声がなかった。ただ、映された記憶と感情が、ひとつの問いを胸に刻むだけだった。
祈る者が多すぎた時、神は──どうなるのか。
薄く息を吐くたび、白い靄が視界を曇らせた。
氷の神殿は再び静寂に閉ざされ、先ほどまでの幻影がまるで夢のように遠のいていく。
ルカは断章があった場所を見つめ続けていた。指先にはまだ、あの光の余韻が微かに残っている気がする。
まるでそれは、目に見えぬ炎のように、じんわりと胸の奥を温めていた。
「ねえ、ルカ。」
ハーリィが声を潜める。
「……あの神様、ずっとああして、ひとりで……願いを叶えてたのかな。」
ルカは視線を上げた。
目の前には再び、動かぬ氷の棺。
女神は先ほどと変わらぬ姿で、眠るようにそこに在った。目を閉じ、白い衣に包まれ、全ての感情を凍らせたまま。
「……わからない。」
ルカの声は、空気に溶けるほど小さく、しかし芯のある響きを持っていた。
「けれど……今は、もう誰の声も届いていない。祈りも、願いも……全部、凍ってしまったんだ。」
ハーリィは棺に近づき、そっと手を翳す。
氷越しに女神の姿を見つめながら、小さく囁いた。
「それでも……生きてる気がする。だって、あたしたちがここに来たの、きっと無意味じゃないよね。」
その言葉に、ルカは応えるように綴言の書を開く。
ページは風もないのにふわりと捲れ、今までとは異なる余白を示した。
「語られていない物語が……ある。」
「ん?」
「この神は、祈りに応え続けた。でも……誰にも、自分のことは語らなかったんだ。」
綴言の書が小さく震える。氷の棺の奥、壁に埋め込まれていた“音の碑”が、淡く光を放つ。
その光は微かに波打ち、まるで眠る神の心音を表しているようだった。
「これは、語られる前の物語だ。」
ルカが呟く。するとすぐに、ハーリィが笑った。
「じゃあ、ここから語っていこうよ。わたしたちで。」
その瞬間、神殿全体にわずかな風が吹いた。
凍てついた空間に、かすかな空気の流れが生まれたのだ。
音にはならないほどの風。しかし、それは“変化”の兆しだった。
綴言の書が淡く光り、ページの底から新たな亀裂──“氷の裂け目”が描き出される。
それは次なる物語の入口、新たな断章の眠る地図の一部を示していた。
「想いが……言葉じゃなく、眠ってる。なら──」
ルカは静かに書を閉じた。
「聞きに行こう。この神が、何を見て、何を忘れたのかを。」
二人の足元に、氷の欠片が音もなく崩れ落ちる。
だが、その沈黙こそが、かつて失われた祈りの重みを物語っていた。
物語は、語られぬ場所から始まる。
誰かが語ろうとするその瞬間に、氷の眠りは、静かに解け始めるのだった。