14 嵐の名と再封の影
雨が静かに降っていた。
忘却の谷に立ち込めていた沈黙の霧は、ゆっくりと薄れ始め、代わりに柔らかな雨音が辺りを包み込む。
それは、神の怒りを告げるものでも、封印の呪いでもなかった。
まるで、ひとつの語りが終わったことを告げる“調和の雨”。
静かで、あたたかく、どこか涙に似た雨だった。
ルカは濡れた掌で書物を抱え、胸元にある綴言の光にそっと触れた。
封印の碑から漂っていた雷の気配は、今や穏やかな音の波に変わりつつあった。
神は怒りでも祈りでもなく、ただ“語られること”を望んでいたのだと、ルカは理解していた。
ページがゆっくりと開かれる。
筆が動いたわけでも、誰かが書き込んだわけでもない。
だが、確かにそこには新たな文字列が浮かび上がる。
雷と雨の天神:イグラ=ラトゥ
その名が、書の頁に静かに刻まれた。
ルカは目を細める。神像の額に刻まれていた雷の痕は、光の筋となって空へと放たれ、天に一閃の輝きを描いた。神像の瞳が一度だけゆっくりと開き、まっすぐにルカたちを見つめる。
「ありがとう」と言葉にはならない何かが、風に乗って届いた気がした。
ハーリィがそっと頷く。彼女の掌には、風の綴言が微かに揺れていた。
その瞬間、谷全体が深く呼吸するように、一度だけ静寂を返す。
だが──次の瞬間、空気が軋んだ。
いや、音ではなかった。
むしろ、語られなかったはずの声が無理に書き込まれようとして、世界そのものが拒絶したような振動。
ルカが空を見上げた。
そこに現れたのは、黒い球体。無数の綴言の断片が錯乱しながら絡み合い、回転し、脈動する。
まるで語りかけることそのものを否定するかのような存在だった。
「……あれは……!」
ハーリィが筆談でルカに告げる。
【再封装置。書記官の仕業よ。語られた神話を、再び閉じるための装置。】
「……また来るのか。」
ルカの胸が冷たくなる。
それは以前、物語牢獄で見た記憶と酷似していた。
書記官たちが、語られすぎた物語や記録を正しい頁へ回収するために使う機構。
球体はゆっくりと谷全体に降下しながら、薄い結界のようなものを展開していく。
再封装置の環が回転し始めると、周囲の霧が逆流を起こし、神の像から抜け出た光の粒がひとつ、またひとつと吸い込まれていく。
「イグラ=ラトゥ」は、一歩も動かない。
だが神の身体に再び沈黙が染み込んでいくのを、ルカは感じた。
「駄目だ……。やっと語られた神話が、また……。」
綴言が刻まれた頁が震え始める。何者かが語りの終わりを押しつけようとしている。
それがルカには、はっきりと分かった。
神は祈っているのではなかった。
抗っていたのだ、語られるために。
そして今、その語りすら管理され、記録の棚に戻されようとしている。
「やめて……!」
ルカは駆け出した。
だが足元の石畳が音もなく崩れ始め、神と彼らとの間に見えない壁が出現する。
神はまた、記録の外へと押し戻されようとしていた。
せっかく綴られた物語が、再び管理という名の忘却に呑まれようとしていた。
ハーリィが紙片に急ぎ筆を走らせる。
【再封装……書記官たちが来てる。語り直すつもりだ。】
語り直し──それは、語られた神話を整えることで、物語の核心を封印する行為。
思い出すことはできても、伝えることができない。
記憶があるのに、物語にならない。
それこそが、この世界で最も静かで、残酷な抹消のかたちだった。
ルカは拳を握った。
「……なら、僕は……書き続ける!」
綴言が、再び光り始める。
ページの隅に、音もなく裂け目が生じる。
その向こうに、見たことのない風景がちらりと見えた。
だがその前に、彼はこの再封の力に、抵抗しなければならなかった。
「語りって、完成したときに初めて力を持つんじゃない。
未完のままでも、語ろうとする意思が、物語を動かすんだ。」
声にならぬ想いが、ルカの中で叫ぶように渦巻いた。
彼は胸元の綴言の書を開いた。
筆も音もない。ただ、ページに触れ、意志を送り込む。
次の瞬間、書の頁がざらりと震え、黒いインクのような裂け目が生まれた。
その裂け目は、徐々に拡がり、書の中に別の空間。
次なる牢獄へと通じる裂け目となっていく。
再封装置がそれを察知したのか、急速に回転を強めた。
「まだ終わってない……。君の物語は、まだ続けられる!」
ルカは書に手を当て、風と雨の調律を思い出しながら、詩のような綴言を思念で紡ぐ。
ページの裂け目が深くなり、その奥に氷のような光景が現れはじめる。
天空に浮かぶ再封装置が、無数の綴言の鎖を編みながら、ゆっくりと雷神を包み込もうとしていた。
神の体を覆っていた雨の衣が、まるで剥ぎ取られるように消えていく。
名を取り戻し、かすかに輝いていた神の眼差しが、再び沈黙の霧に閉ざされようとしていた。
「やめろ……っ!」
ルカは声なき叫びを胸に秘めたまま、書を強く抱いた。
綴言の頁が震える。
イグラ=ラトゥという名は、確かに書に記された。
それなのに、なぜ、神は再び無へ還されようとしているのか。
――それは、語られた物語が完結してしまったからだ。
書記官は、物語を閉じる。
封じられた神話は、ただの記録として保管される。
だがルカは、まだ語りきってなどいなかった。
その瞬間、空に閃光が走る。
神の額からこぼれたのは、一筋の光。
それは雷でも稲妻でもなく、詩のかけらのような音だった。
風が、囁いた。
その声を……凍てついた記憶へ……届けよ……また会おう
詩のようで、祈りのようでもあった。
音ではなく、風の流れに乗って届いた神の綴り。
それは、名を取り戻した神が、最後に遺した言葉なきメッセージだった。
「凍てついた……記憶……?」
ルカは顔を上げる。再封の力が神を包み込み、光の繭が完成しようとしていた。
だが、その中で、イグラ=ラトゥの表情だけが、どこかやさしく、そして安らかだった。
記録されることを拒まず、破壊されることも選ばず。
ただ、次の語り手に綴りを託して、神は再び、眠りへと還っていった。
空から降り注いでいた雨が、その瞬間だけ柔らかく変わった。
まるで神が遺した涙のような、温かさを含んだ雨だった。
ルカの書が淡く光り、頁がそっと一枚、風にめくられる。
再封装置が静かに収束していく。
書記官は、神が完全に眠りについた瞬間、まるで用を終えたかのように筆を止めた。
そしてその姿は、霧の向こうへと滲んでいく。別の頁へと消えていくようだった。
谷に満ちていた雷の気配は消え、ただ雨だけが、しとしとと地を濡らしていた。
だがそれは、あの神が眠る前に残していった“穏やかな雨”だった。
もはや呪いではなく、語られた神話が遺した温度。
風も、霧も、優しく流れている。
ルカは手にした書を見下ろす。綴言の頁には、新たな一節が静かに刻まれていた。
雷と雨の天神――イグラ=ラトゥ
忘却の谷に封ぜられし沈黙の神
名を呼ばれ、記憶を揺らし、語られぬ想いを綴りし者の手により
再び頁の奥に、眠りへと還る
「……終わったの?」
ハーリィの問いに、ルカは首を横に振った。
「……いや、まだ続いてる。」
書の頁の一部が、ひび割れていた。
まるで、物語そのものが傷を受けているかのように。
その裂け目はやがて広がり、文字の並ぶ紙面の奥に、深い影が揺れた。
その向こうにあるのは──氷。
冷たい空気。雪に閉ざされた神殿の幻影。
凍った壁の中、眠るもうひとつの神の気配があった。
「……これが次の牢獄……?」
ハーリィが呟くように問いかける。ルカは静かにうなずいた。
「語られぬ神話は、まだ終わっていない。
僕たちの語りも、まだ途中だ。」
雨音が遠ざかる。
風が、書の頁を捲った。
そこにあったのは──白銀の世界。
二人の足元に裂け目が開き、まばゆい光がふたたび彼らを包んだ。
イグラ=ラトゥが最後に託した綴言は、確かに彼らを導いていた。
そして──
氷に閉ざされた世界が、静かに目を開ける。
その中心、凍てついた棺の中で、ひとりの神が眠っていた。
その神の胸元には、かつて祈りの唄を奏でた祝詞の破片が埋もれていた。
感情を失い、世界から祝福を奪われた女神。
次に語られるのは、心を凍らせた神の物語。
ハーリィはルカを見つめる。
「……語れると思う?」
「……たぶん、まだ言葉は通じない。
でも、それでも僕たちは語りかけるんだ。」
氷の記憶を解かすために。
物語の旅は、まだ、始まったばかりだった。