12 綴言なき綴言
雷鳴が空を裂いた瞬間、足元の地が微かに震えた。
ルカとハーリィの目の前、神像の台座近くに。
まるで光が染み出すように、小さな裂け目が現れていた。
そこから漏れる光は淡く、青白い霧のようにも見えた。
風も声もない谷にあって、その光だけが何かを語っているかのようだった。
ハーリィが紙片を差し出す。
「待って。そこ、記憶が滲んでる。」
ルカは頷き、ゆっくりと裂け目に指を伸ばした。
触れた瞬間、視界が反転する。
音が消える。
風が消える。
雨音すら届かない。
ただ、静寂のなかに漂う“思念”の粒だけが浮かぶ場所。
──ここは、神の記憶の内側。
意識は深い水底へ沈むように引き込まれ、気づけばルカは神像の前に座っていた。
石でできた広間。天井はなく、代わりに雨が垂直に降っている。
だが、その雨には音がない。濡れた感覚すら希薄だ。
神像はここにもあった。
だが、それは風の神ではなく、雷を宿す者の面影を持っていた。
台座の縁に刻まれた“雷の痕”。
かすかな焼け焦げ、そして神像の額に残る稲妻の紋様。
それらが示していた。
──この存在は、かつて雷と雨を司っていた。
ルカは、胸元の写本をそっと開いた。
文字は霞み、音は奪われたまま。
だが、思い出す。祖父が、何度も口にせず語ってくれた、物語の始まり。
火を灯すように、焚き火の前で。
声を使わず、ただ目を閉じ、手を重ね、目線を遠くに送る所作。
語ることは、言葉の前に始まっていた。
ルカはその記憶を、心の奥から掬い上げる。
語らずとも、語ることができる。
彼の目が、静かに神像を見つめ返した。
今、この“記憶の神殿”で──語り部としての新たな祈りが、始まろうとしていた。
──そこは、まるで水底のような場所だった。
空もなく地もなく、ただ淡い光の揺らぐ蒼の空間。
音が消え、時間が止まったような記憶の神殿の奥底。
ルカの意識は、裂け目を越えたその先で、ある光景を目にしていた。
揺らめく霧の中に、小さな姿が浮かんでいる。
それは少年のような姿をした存在。
かつて神と呼ばれた者の記憶だった。
神は静かに空を仰いでいた。
白い髪が風もない空間で揺れ、淡い雷光がその周囲に瞬いている。
空から落ちる雨の筋が、彼の周囲を包んでいた。
その神は、風と雷を操る調律者だった。
雷鳴が鳴るたびに天を仰ぎ、雨が降るたびに手を差し出す。
自然と人々を繋ぐ、媒介者のような存在。
だが、その記憶は徐々に歪んでいく。
神の周囲に、幾柱もの影が現れた。
神々の姿。彼らは言葉を交わさず、神に何かを命じるように周囲を囲んでいた。
少年神は、それにうなずこうとする。
しかし、その瞬間、彼の口元が開いたにもかかわらず、何も発されなかった。
声が出ない。
何かを言おうとしても、それは音にならず、ただ口の動きだけが虚しく宙を舞う。
影の神々は去っていく。誰も振り返らない。
神は取り残され、その手にあった“風と雷”の力が、少しずつ色を失っていくのを見つめていた。
──語ることができない。
──語られないまま、忘れられていく。
それがこの神の記憶だった。
ルカは、それをただ見ることしかできなかった。
声をかけたくても、届かない。
名を呼びたくても、彼には名がない。
だが、ルカの胸の奥で、確かな感情が芽生えていた。
「この神は、語られなかっただけだ。」
「語られなかったものが、忘れられていくのは……あまりにも寂しい。」
だから、語りたい。
たとえ声が出なくとも、記録にもならなくとも。
その想いは、静かにルカの中で形を取り始める。
ふと、記憶の空間に浮かぶ神が、こちらに振り向いた。
その目に、微かに気配が宿っていた。
まだ名も言葉もないまま、それでも。
ルカは心で誓った。
「この想いを、語り綴る方法を見つけよう」と。
やがて、空間にゆっくりと変化が訪れた。
音も声もないまま、記憶の水底がざわめく。
少年の姿をした神が、ルカの方へと一歩、足を踏み出したように見えた。
だが、足音はない。
代わりに、雷の痕が浮かび上がった神像の目元に、わずかな光が灯る。
それは、沈黙のまま交わされた応答だった。
名も言葉も持たぬ神が、ルカの祈りにわずかに反応したのだ。
ハーリィがそっと近づいてくる。
言葉は依然として交わせないが、彼女の目は「届いた」と語っていた。
そのとき、ルカの胸元の綴言書が淡く光を帯びる。
まるで“語られなかった神話”が、新たに一頁として綴られようとしているかのように。
書物の中に、風に揺れるページがひとつ現れる。
忘却されし神の残響
タイトルだけが、静かに浮かび上がった。
その瞬間、神像の背後、空に雷が一閃する。
だがそれは音を伴わない閃光。
稲妻は、空を裂くようにして走り、雷雲の中に光の文字を刻んだ。
──ライ……。
断片的な名が、空に刻まれる。
ルカはそれを見つめながら、確かに感じていた。
この神は、ただ語られるのを待っていたのだと。
語られぬまま、名も姿も失ってもなお、誰かが呼びかけるのを待っていた。
それは、神にとっての救いであり、語り手にとっての始まりだった。
ルカは胸に手を当てる。
かすかに、風がそこから空へと吹き抜けた。
神像が、ほんのわずかに、目を細め、頷くような仕草をした。
何も語られなかった。
だが、確かに伝わったのだ。
「……語るとは、音にすることではない。想いを綴ること、それ自体が語りの起源だ。」
言葉にならないその想いが、静かに、谷を満たしていった。
そして綴言の碑のひとつが、風に揺れる葉のように微かに震え始めた。
まだ封印は解かれない。
名も、全ては明らかにはなっていない。
だが、物語は、ここから確かに始まっていた。
神の語られなかった過去が、今、静かに綴られはじめている。