10 沈黙の風景
忘却の谷の、さらに奥。
風の門と呼ばれる天然の岩窟を抜けた瞬間、世界が変わった。
ルカはそれを“音の死”とでも呼ぶしかなかった。
風の音が消えていた。木々のざわめきも、足元の小石を踏みしめる音も。
ハーリィが隣で草を払いながら進んでいるはずなのに、その気配さえ耳に届かない。
まるで世界そのものが、深い海の底に沈んでしまったようだった。
ルカは思わず、「ここは……」と声を出そうとする。
だがその瞬間、喉を震わせたはずの音は唇の先で霧散した。
口が開かれ、声帯が振動しても、音として空気に届かない。
まるで、自分自身が存在していないかのような感覚。
ハーリィが立ち止まり、小さなノートを取り出す。
そこに素早く文字を書いて、ルカに差し出した。
【これは“沈黙の呪い”。この谷で語られたものは、すべて忘れられる。】
ルカは頷く。筆談の文字ですら、どこか薄く感じる。
言葉が意味を持たなくなる。そんな気配がこの場所には満ちていた。
それでも彼らは歩を進める。谷底はなだらかな斜面が続き、霧が腰のあたりまで立ちこめていた。
ふと、ルカは足を止めた。
何かが、視界の端にある気がした。見えるわけではない。
けれど、意識の奥に、かすかな視線のような圧を感じる。
誰かが、どこかで見ている。そんな予感。
ルカは首をめぐらせる。
だが、そこにはただ沈黙の風景が広がっているだけだった。
音も言葉も奪われたこの地に、何かが潜んでいる。
そう確信するには、十分すぎる沈黙だった。
やがて、霧の向こうに、巨大な影が現れた。
それは、神像だった。
動かない。喋らない。風を司る神でありながら、風すら起こさない、あまりに静かな神像。
封印されているはずなのに、まるで最初から“存在を拒まれていた”かのような沈黙。
ルカはその姿に、言いようのない不安を覚える。
その足元には、崩れた碑が点在していた。
ひとつひとつが、語られかけて、語られぬまま朽ちた綴言の抜け殻。
そしてその空間には、いまだ、ひと欠けらの風すらなかった。
神像へと向かう途中、霧の切れ間に古びた碑が姿を現した。
それは他の石碑よりも大きく、複数の綴言が刻まれていた形跡がある。
だがその表面は深くえぐれ、文字のほとんどは判読不能になっていた。
ルカは近づき、碑の表面を指先でなぞる。
ぴたり、と綴言が反応する……はずだった。
けれど、何も起きない。風は吹かず、音も響かない。
ルカは胸元の綴言を確かめた。淡く揺らいではいるが、共鳴には至らない。
「この碑は……語られることを、拒んでいる……?」
ふいに、横で動いた影。
ハーリィが手を挙げて、碑の前に立った。瞳に決意を宿し、唇を動かす。
それは、詠唱だった。
綴言の発音は風の調律でもあった。
言葉に込めた響きが、力の本質を導く。そのはずだった。
だが。
ハーリィの口が動いても、その詩は空に消えた。
声にならない。旋律も、響きも、何も生まれない。
ルカの胸がざわめいた。
目の前で紡がれたはずの綴言は、ただの「動き」として断ち切られ、碑は微動だにしなかった。
それでも、ハーリィは動じなかった。
代わりに彼女は、懐から小さな布と墨を取り出すと、石碑の傍らの石に短く記した。
「語れぬなら、綴ろう。」
ルカはその言葉に、はっとする。
語ることで力を得るのが綴言。
けれど、語れぬこの地で、どうすれば伝えることができるのか。
そのとき、ルカの中に風が吹いた。
ほんのわずか。胸の奥で、何かが囁いたような錯覚。
「……綴る、ということ……。」
音ではなく、形で。声ではなく、感覚で。
かつて碑守の村で見た、“語られざる碑文群”が脳裏に浮かんだ。
言葉を持たぬ民たちが、記憶を刻むために残した、石の言語。
あれもまた、語られずに伝えられた神話だった。
ルカは視線を落とし、自らの綴言を指でなぞる。
語らぬまま、文字を、線を、風の律動を、思い描く。
その瞬間、風のない空間に、かすかな震えが走った。
石碑の表面に、うっすらと、目に見えない波紋のような痕が浮かんだ。
それは応えではなく、記憶。
語られずとも、ここに残された何かが、確かにそこに在ると、静かに告げていた。
ハーリィが気づいたように頷く。
彼女の筆が走る。
「言葉は失われても、想いは残る。」
そしてルカたちは、さらに奥の神像へと向かって歩き出した。
谷の霧は深く、風はまだ、一度も吹かない。
けれどルカの中には、確かに「風の輪郭」が芽生えつつあった。
神像が見えてきたのは、石碑群を抜けたあとのことだった。
巨大な像は、霧の中で輪郭すら曖昧だった。
けれど、確かにそこに立っていた。風を司る神、名もなき雷神の姿。
だが、その神像はあまりに静かすぎた。
その身を包む衣も、風に揺れることはない。
掲げたはずの手は中空を切り裂かず、全体がまるで時を止められたかのように、固まっていた。
「……風の神なのに、風がない。」
ルカは喉奥でそう呟いたつもりだったが、当然、音にはならなかった。
ただ、そう感じた。
神像の周囲には、いくつもの“封印の円環”が刻まれていた。
かつて雷神を封じたと言われる、綴言の術式。
だが、その環のいくつかは崩れていた。
石に刻まれた文様の一部が、ひび割れ、砕かれている。誰かが壊そうとした形跡。
あるいは、内側から破ろうとした……?
ルカは一歩、封印の環に近づく。
そのときだった。
ふいに、背後から視線を感じた。
音もなく、気配もないはずのこの谷で、確かに「誰かが見ている」という感覚だけが、肌に触れた。
ゾクリ、と背中に冷たいものが走る。
振り返っても、そこには誰もいない。ただ霧と、石碑と、沈黙があるだけ。
だが──。
神像の目元が、ほんのわずかに揺れた。
瞼が開いたわけではない。まぶたがぴくりと震えただけ。
それでも、そこに意志が宿ったことは、否応なく伝わってきた。
ハーリィが顔を強ばらせ、急いでノートに書く。
「……神は、まだ完全に封じられていない。」
風は吹かない。音もない。けれど、空気がわずかに動いた。
ルカの胸元が微かに光った。
綴言の核が、誰かの記憶を呼び起こすように、淡い光を放っている。
「何か……語ろうとしている?」
そのときだった。
静寂の空を裂くように、一筋の“雷の影”が横切った。
音は、ない。けれど確かに、光と熱だけが走った。
次の瞬間、神像の唇が微かに、動いた。
かすれた風のように、ルカの耳に届いたものがあった。
「……ライ……。」
たった一音。けれど、確かに名前の断片だった。
誰かの記憶の底から、消えかけた声がこぼれた。
ハーリィが書く。
「欠けた名前。それが、この谷の鍵かもしれない。」
ルカは神像を見つめる。名もなく、語られず、風すら忘れた神。
その沈黙の奥で、何かが目覚めようとしていた。
雷は去り、空には再び沈黙が広がる。
けれど、ルカの胸には確かに音が宿った。
それは、次なる対話への始まりの音。
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