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語り部旅譚─頁牢に眠る神話たち─  作者: 御歳 逢生
第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
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9 忘却の谷と封じられし声


霧の帳が、ゆっくりと降りていた。湿った風が頬を撫で、冷たい水の匂いが立ち上る。

ルカとハーリィは、峠を越えた先に広がる谷へと、慎重に足を踏み入れた。

忘却の谷──言葉が失われる地。碑守の村の長老がそう呼んでいた場所だ。


「……っ。」


ルカが声を発しようとした瞬間、その音は空気に吸い込まれるようにして消えた。

口が動いても、耳に届くはずの声は霧に溶けていた。

喉に確かに震えがあったのに、それは“音”にならない。

不思議なことに、意志はあるのに言葉にならない。

まるでこの谷の空気が、“語る”という行為そのものを拒絶しているかのようだった。


ハーリィも同様だった。

彼女は何か言おうとして、口を開いたが、すぐに諦めたように手を振る。その仕草だけで、「ここでは話せないらしい」と伝わってくる。


風は弱く、雨はまだ降っていない。

それでも、どこか遠くで雷が震えている気配があった。

雲の奥で、音にもならない稲妻が尾を曳くような、そんな予感があった。

足元の地面は湿っていた。古びた石畳が途切れ途切れに続き、ときおり小さな碑が埋め込まれている。

苔むし、ひび割れたその碑のひとつに近づくと、ルカの胸元にある綴言が微かに震えた。


――カチリ。


音にはならないはずなのに、確かに共鳴する気配があった。

ルカは思わず碑に触れる。ひんやりとした感触が、指先から心臓まで伝わってきた。

その瞬間、視界が滲む。意識の奥に、言葉ではない“祈り”が浮かび上がった。

風に揺れる布。雨のしずくを受ける手。誰かが、空に願いを向けていた。


イメージだけが胸に流れ込む。

言語にも絵にもならない。ただ、感覚として、そこに“何かが在った”ことだけが分かる。


「ここが……忘却の谷……。」


言葉にならない言葉が、心の内で呟かれた。

ルカはただ、前へと足を運ぶ。


霧の奥に、何かが立っていた。


谷の中央部へと進むにつれ、風の音すら遠ざかっていく。

代わりに──まるで大地そのものが呼吸しているような、低いうなりが足元から伝わってきた。


ルカがふと立ち止まる。前方、崩れかけた石のアーチの先に、それはあった。


巨大な神像。


雷の象徴とも思えるような、うねる装飾の残る台座。

けれど、その神像は腕を組み、うつむいたまま、まるで眠っているかのように沈黙していた。


──声なき神。


名を持たず、語られすぎ、そして沈黙した存在。


ハーリィもまた、その像を見つめていた。

肩が震えているのがわかる。恐れか、敬意か、それともその両方か。


ルカは無意識に、神像の足元にあった石碑へと歩を進めた。

今にも崩れそうなその碑に、彼はそっと手を触れた。


その瞬間。

雷が落ちたような感覚が、頭の奥で爆ぜた。

視界が光に染まり、次の瞬間──言葉ではない、記憶の奔流がルカを飲み込んだ。


 ***


祈りの風景。


ひび割れた大地を前に、人々が空に向かって両手を掲げている。

声は聞こえない。それでも、その懸命な祈りが胸を締めつけた。


雲が渦を巻く。その中心から、何かが現れる。


輪郭のない存在。姿を持たない、けれど確かに応えようとする「力」。

それは、誰かの祈りによって形を与えられた。


だが──。


その形が、やがて人々を恐れさせる。


「語りすぎた」のだ。

誰かが、語り、名付け、祈りの対象にした。

けれど、語りの数だけ像は歪み、やがて本来の存在を上書きしていった。


──その結果。


神は、封じられた。


 ***


ルカが目を開くと、全身から汗が吹き出していた。


碑に刻まれていたもの。それは“声なき神”の、語られなかった記憶。

断片であり、残響であり、かつて存在していた“本来の祈り”。


神像は変わらず、ただ黙していた。

けれど、ほんの一瞬──目が開いた気がした。

視線が、ルカを見ていた。

声もなく、言葉もなく、それでも確かに何かを問うている。


「……僕に、語れと?」


声にならない声が、心に響いた。


その時、雷のような鼓動が谷を震わせた。

風が鳴き、雲が哭く。


ハーリィがそっと、ルカの肩を叩いた。目を合わせると、彼女はただ一つ、指を立てて指し示す。


──谷の奥へ。


そこには、まだ刻まれていない“綴言の碑”があった。

ルカは頷き、神像に視線を戻した。


「あなたを……思い出させるために、僕は来た。」


声にはならなかったが、その意志は確かに届いた気がした。

彼らの試練は、今始まったばかりだった。


雷鳴が、遠くで一つだけ響いた。

谷の空気がわずかに揺れた。

濃密な霧の中、ルカとハーリィの前に立つ神像が、まるでその音に応えるように、うなだれるように静かに傾いた。それはまるで、思い出そうとしているかのようだった。


「……まだ、忘れきっていない。」


ハーリィが小さく呟いた。

声にならないその言葉は、唇の動きと表情から、ルカには確かに伝わった。


その時、谷のさらに奥から、風に乗って何かが舞ってきた。

朽ちかけた紙片のような、あるいは神話の抜け殻のような文字の欠片。

ルカはそっとそれを受け取る。


それは一片の綴言の破片、雨の旋律の断片のようでもあり、かつて誰かが残した祈りにも思えた。

ルカの胸元で、綴言の書が淡く光る。


彼は視線を神像に戻す。あの目はもう閉じていた。

だが、確かに一瞬だけ、彼を「語り部」として認めるような眼差しがそこにあった。


──あれは問いだった。


「あなたは、私を語るのか?」


それに応えるには、まだ材料が足りない。

神の記憶は、欠けている。


綴言の碑。谷の各所に散らばるという、神と人との“言葉なき契約”を刻んだ石碑。

それらを辿り、封じられた記憶を呼び戻さなければ、神は再び語ることを許さない。

ハーリィが歩み寄り、ルカの手を取り、谷の北側を指差す。

霧の彼方に、わずかに別の碑の影が見えた。


彼女の目が「行こう」と言っていた。


ルカは頷く。言葉はいらない。

いや、言葉が失われたこの地だからこそ、沈黙の中の意志だけが、真に交わされるのかもしれない。

二人は足を踏み出した。


踏みしめる石は冷たく、空気は重く、ひとつひとつの息が深く沈むようだった。

けれどそのすべてが、これから彼らが辿る神の記憶への道となる。


綴言の碑は五つ。

それらを巡り、かつて語られた雷の神、その名なき存在の想いを取り戻す。

それこそが、神との対話の鍵となる。


谷の上空、雲の裂け目に、わずかに光が差した。

その光は一瞬で霧に呑まれるが、確かにそこに道があることを告げていた。


雷の遠鳴りが、またひとつ。

それは警告か、あるいは呼びかけか。

ルカは歩を止め、静かに口を開いた。


「思い出すよ、きっと。君が、語られる前に持っていた祈りの形を。」


その声は空に溶けた。けれど、どこかで、誰かがそれに応えた気がした。


   来たれ。失われし記憶を携えし者よ。


ほんの一瞬、耳の奥に届いた声のような気配。

風が吹いた。静かに、冷たく、けれど確かに語りかけるように。

彼らの旅は、今まさに本当の対話へと入ろうとしていた。

お読みいただきありがとうございます。


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