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語り部旅譚─頁牢に眠る神話たち─  作者: 御歳 逢生
第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
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8 碑に刻まれし記憶


峠を越えた先に、風の音さえ吸い込むような静寂が広がっていた。

道は細く、崩れかけた石段が谷底へと続いている。

その先に、ひっそりと村があった。


碑守の村 ヒ=エルカ。

地図にも記録にもほとんど残されていない、小さな集落。


「……ここが、“語らぬ民”の里ってわけか。」


ハーリィの声が、かすかに湿った空気を揺らした。

その語り口には、どこか慎重さがにじんでいる。


村は、言葉を使わずに生きる人々によって保たれていた。

歩く者は誰も声を上げず、ただ視線と身振りでやり取りをする。

それでも、確かに“伝わっている”気配があった。


「……静かだね。まるで、何かに祈ってるみたいだ。」


そう呟いたルカの声が、どこか場違いに響いて聞こえた。

けれど、村の人々はそれをとがめることもなく、ただ穏やかな眼差しを返した。


道の両側には、大小さまざまな石碑が並んでいる。

苔に覆われたもの、ひび割れたもの、ほとんど風化しかけているものもあったが、

そのどれにも、かすかに文字が刻まれていた。


「語らないのに……記している?」


ルカは立ち止まり、ある石碑に手を添える。

その感触は、冷たく、けれどどこか“生きている”ようだった。


「ここの連中は、“語る”かわりに、“刻む”って文化なんだよ。

 綴言とは似てるようで、ちょっと違う。……あれは、封じるための言葉だ。」


「……じゃあ、これは?」


「記憶のための言葉。語らないことで、忘れないようにしてるんだ。」


ハーリィの答えに、ルカは目を伏せて黙った。

第7話で触れた“語ることの代償”が、まだ胸に残っていた。


やがて、村の奥――石碑の林を抜けた先に、

一際古びた碑が、崩れかけた祠の影に立っていた。


ルカはふと、その碑に引き寄せられる。


他の碑と違い、それはほとんど文字が消えかけていた。

けれど、わずかに残った綴言の痕跡が、ルカの心の奥をざわつかせた。


「……これ、何か……話しかけてきてる。」


「気づいたか。そこに、封じられた記憶がある。」


ハーリィが、いつになく真剣な声で言った。

その瞳には、遠い過去を見つめるような、微かな痛みが宿っていた。


ルカは碑にそっと手を置いた。

瞬間──綴言が共鳴するように、空気が震えた。


見開いた目に、色彩が流れ込む。


──それは“幻視”だった。


碑に触れた瞬間、ルカの視界は白く染まり──

次の瞬間、天地が裂けるような雷鳴が、脳内に響き渡った。


(ここは……?)


視界がゆっくりと開ける。

そこには、嵐の空の下、祈りを捧げる民たちの姿があった。

土地は荒れ、作物は枯れ、空には絶えず稲妻が走る。


「……おお、空の声を聞け……!」


「この雨を、雷を……神よ、鎮めたまえ……!」


彼らは、まだ“誰にも語られていなかった”存在に向かって、必死に祈っていた。


──そして、それに応じるように。


空の裂け目から、姿なき気配が降りてくる。

声はなく、形もない。だが、それは確かに“応えようとしていた”。


(……これは、神がまだ“形を持っていなかった頃”の記憶……?)


祈りとともに、誰かが言葉を紡ぎ始める。


「それは、空に棲まうもの。名も持たぬ、音なき応え。」


「けれど、我らはそれを、“雷神”と呼ぶことにした。」


瞬間、空の気配に、仮初めの形が与えられた。

雷の柱が地を貫き、その中心に、淡い輪郭が揺らぐ。


「……語られた……!」


ルカの胸がざわめいた。

“語られること”によって、それは神として認識され始める。


人々はそれを讃え、祭壇を築き、祝詞を刻む。

そして、物語が生まれていく──


「雷神は怒りを鎮め、雨を与え、火を宿した」


「雷神は風を裂き、天の秩序を保った」


「雷神はかつて、竜を屠り、空を護った」


──それは、語るたびに“強く、美しく、偉大に”なっていった。


(でも……これは、)


だがその栄光の物語の裏側で──

“神”は、次第に沈黙していく。


物語が増えるごとに、語られた姿と本来の姿のあいだに、亀裂が生まれていく。


「我らの神は、怒らぬ。荒ぶる神など、信仰にふさわしくない」


「かつての雷神伝承は偽り。正しい姿を記すべきだ」


「神は、語られるように在るべきなのだ」


やがて、雷の神は“神話の枠”の中に押し込められていく。

祈りではなく、定義と装飾の言葉で、形を固定されていく。


──そして、ある日。


天空が裂け、雷が再び地を穿った。


神は、語られた通りの神ではなかった。

人々は恐れ、叫ぶ。


「これは災いだ! これは、誤った神だ!」


「この存在は、もう神ではない! 封じねばならぬ!」


叫びの中、神は再び“語られる”ことを拒絶され──

その名は封印され、語録は焚かれ、碑は倒された。


幻視の最奥。

そこには、誰にも呼ばれず、誰にも理解されなかった、ただの気配が残されていた。

名前を与えられ、形を強いられ、

やがて“壊された”神の──最後の残響。


(……この記憶が……この碑に……)


ルカの意識が、現在へと引き戻される。

碑に添えていた手が、汗で湿っていた。

胸の奥が、焼けるように痛んでいた。


「……これは……語りによって……神を……。」


ルカはつぶやく。

そして、ただ遠く、雷鳴が響いた。

それはまるで、今もこの土地のどこかで、語られなかった神が息をしているかのようだった──。


「……お前、見たんだな。」


かすれた声に、ルカは振り返った。

そこには、村の長老が立っていた。

干からびた手に、つやのある木杖。額には、小さな碑石のような飾り。


「語ってはならぬ碑の記憶を、読んだのだろう?」


「……はい。あの神は……かつて、語られていた。でも……語られすぎて、壊れていった。」


ルカの答えに、長老は静かに頷いた。


「神とは、名を持たぬうちが最も自由だ。

 だが人は、名を与えずにはいられない。名こそが、祈りだからな。」


長老はそう言って、村の中央にある、風に晒された大碑を見やった。

それは何の文字も刻まれておらず、ただ静かに佇んでいる。


「わしらの祖は、“語らず、刻まず、忘れぬ”という術を守ってきた。

 語れば歪む。だが、忘れてしまえば、神は二度と還らぬ。

 ならば、記憶を刻むしかない。形なきままに、魂をとどめる術だ。」


ルカはその言葉に、仮面市場で見た“語られすぎた神々”と、

旧神殿市場で出会った“語られなかった神”の姿を重ねた。


(語れば、形が与えられる。けれど、形がすべてを縛ってしまうこともある)


「……でも、語らなければ、誰にも届かないんですよね。

 ……あの“囚神”も。語られないままじゃ、ずっと、誰にも知られない。」


その言葉に、長老は一瞬だけ、遠くを見つめた。


「そうだな。お前の言う通りだ。

 だからこそ、語る者には、覚悟が要る。」


「覚悟……?」


「語ることは、神を救うことにも、神を縛ることにもなる。

 お前はその“両方の重み”を、もう知ってしまったのだろう?」


ルカは、静かに頷いた。

風が吹き、村の遠くで、低く雷の音が響いた。


その音に、ルカの心がざわめく。

忘却の谷が、すぐそこにある。

そしてあの“無貌の囚神”が、彼を待っている。


「……行くよ、谷へ。僕の言葉が、本当に誰かの救いになるのか。

 その答えを、確かめるために。」


「……ならば行け。谷はすべてを忘れさせる。だが、お前が語るなら──

 “そこにあった”という記憶だけは、きっと残るだろう。」


ハーリィがルカの肩を軽く叩いた。

振り返ると、彼女はいつものように無言の笑みを浮かべていた。


「……お前の言葉、ちゃんと見届けてやるよ。」


彼女の瞳に、淡く雷のきらめきが映っていた。


そして、その言葉に導かれるように──

ルカは再び歩き出す。


村の外れ、断崖の向こうに。

霧に包まれた谷の輪郭が、かすかに揺れている。


風が吹いた。灰色の空から、ひとしずく、雨が落ちてきた。

それは、あの雷神の涙だったのかもしれない。


谷の方角で、低く雷鳴が轟いた。

忘却の谷が、彼らを待っていた。


お読みいただきありがとうございます。


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