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語り部旅譚─頁牢に眠る神話たち─  作者: 御歳 逢生
第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
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7 スクレイプ街~偽神の市場~


「……いた、か。」


そう呟いたのは、ハーリィの方だった。

けれど、ルカの胸の中でも、同じ言葉が浮かんでいた。


「ごめん。遅くなった。」


「別にいいよ。私も今来たとこ……って顔してない?」


「顔に出てた?」


「うん。あと、その胸のとこ、巻物がはみ出しかけてる。」


ルカは慌てて胸元を押さえる。

ヴァイスから託された、小さな巻物。


“語るな、記せ、伝えるな”。


まるで、己の声そのものが咎であるかのような、重い言葉。


「そいつ、持ってるってことは……案内されたんだな。」


「うん。旧神殿市場(アンフォールド)に向かえ、だって。」


ハーリィはひとつ頷いてから、肩に引っかけていた仮面をルカに渡した。

ざらついた陶の手触り。顔の形だけが無意味に残された、目も口も空いた仮面。


仮面の内側に触れた瞬間、少女が炎の中で言葉を失う情景が閃いた。

ルカは無意識に仮面を外しかけた。けれど、それはもう、許されないことだった。


「これが入場券らしい。“語られぬ神”に会うには、顔を隠すか、声を失うかだってさ。」


「どっちも……少し怖いね。」


「でも、必要なんだろ。お前が語るためにはさ。」


ハーリィの言葉に、ルカは小さく息をのむ。

まだ、自分が何を知りたくて、何を語りたいのか、その輪郭さえ曖昧なまま。


それでも、目を伏せずに歩くしかない。


二人は無言で歩き出す。

スクレイプ街の奥へ。錆びついた祭具が並ぶ裏路地を抜け、

やがて朽ちた石階段を降りていく。


地下の空気は、冷たい水底のように、言葉を呑み込んでいた。


そして、扉が現れる。

その表には、音のない鐘の浮彫。


ハーリィがそっと手をかざし、ルカはその隣で仮面を握り締める。


「行こう。旧神殿市場(アンフォールド)へ。」


扉が、音もなく開いた。


階下に広がっていたのは、市場というにはあまりに奇異で、まるで神話の残骸が堆積した墓所のような空間だった。

古の神殿の骨組みを土台に、継ぎ接ぎされた市場の風景。


崩れかけた石柱の隙間から、仄暗い灯火がちらちらと揺れる。

静寂の中に、軋んだ鉄と、紙のこすれる音がした。

石床に並ぶ露店は、祈りと売買のあいだに沈黙を挟み、息を潜めていた。


ここでは声が反響しない。

仮面越しのルカの呼吸も、靴音も、空気に飲み込まれるように消えていく。

ただ、誰かの視線だけが、ずっとどこかから降り注いでいた。


無数の仮面が天井から吊るされ、崩れた柱には、焦げ跡の残る祈祷文。

異様な静寂が広がるその中心に、露店のように並ぶ骨董棚。

並べられているのは、神像の欠片、ちぎれた聖布、かつて祈られた名前の断片。


声をかけてきたのは、一人の老商人だった。


「ようこそ、旧神殿市場(アンフォールド)へ。」


湿った声を投げたのは、紫銀の長衣、目元に刻まれた文様、乾いた笑みを浮かべる老商人だった。

その背後の棚には、神の涙を封じた香油瓶、廃神の祠から抜き取った祈祷鈴、名前を忘れられた神の札を撒き落とす古い名籤器、失われた神話の章句らしき巻物が無造作に並べられている。


男は背を向けたまま、神像の欠片に綴言を刻んでいた。

紫銀の長衣が擦れる音が、空気を裂く。


「あなたは……?」


「この市場主(マーケター)と呼ばれてるよ。

 君のような“語り部が来るのを、ずっと待っていた。」


「……どうして、僕のことを?」


「語り部の歩みは、語られる前に既に記録されてるもんさ。

 君が綴言を継ぎ、語るたび、どこかの“死にかけた神”が再び鼓動する。」


ルカは小さな棚に並ぶ品々を見た。

いずれも、どこかで見たようで、けれど記憶に引っかからない。


「これらは……?」


「かつて神であったもの。語られ、信じられ、やがて忘れられた存在の抜け殻さ。

 だが忘れられても、物語に名を刻まれた者たちは、まだこうして形を残す。」


市場主(マーケター)は、小瓶のひとつを手に取った。中には銀色に揺れる液体。


「これは“雨神の涙”──信じられていた記憶が、この市場に価値を生むのだよ。」


「信じられていた記憶……。」


ルカが呟くと、ハーリィがそっと歩み寄った。

無言ながら、その視線が警戒を含んでいることは伝わってきた。


「だが、語られた神は、幸せとは限らない。」


市場主(マーケター)は笑いながら、壁の一角を指差した。

そこにはこう刻まれていた。


《語られたものだけが、神となる》


「語り部が語り、信仰が根づけば、神は力を持つ。

 だがその物語の外に出ることは叶わない。自由は、語られぬことの中にしかないのだ。」


「……じゃあ、語るってことは……。」


「縛ること。定義すること。そして定義は、いつだって“終わり”を孕む。」


ルカは言葉を失った。


神話を書くということは、その神を閉じ込めることなのか。

語ることの正しさに、ひびが入った気がした。


そのとき──空気が変わった。

ハーリィが立ち止まり、ふと前方に目をやる。


空間の奥に、冷たい檻があった。

封刻の鎖に巻かれたその中には──“誰もいない”はずなのに、確かに“存在”がいた。


「……あれは?」


ルカが問うと、市場主(マーケター)が口をつぐみ、そしてゆっくりと答えた。


「“語られなかった神”だ。」


「語られ……なかった?」


「名も、姿も、祈りも持たず、誰にも語られなかった。

 ゆえに、力も得られず、ただ記録の隙間に囚われている。

 人はこれを“無貌(むぼう)囚神(しゅうしん)”と呼んだが、それも仮初の名にすぎない。」


ルカは無意識に歩を進める。

その“何か”が、自分を呼んでいると感じた。

綴言が淡く浮かび、封刻の一部が揺らいだ。


そこに、仮初の“輪郭”が生まれた。

姿はない。だが、確かにそこに「言葉にならなかった思念」があった。

そしてそれが、ルカの綴言に触れ、意味へと変わる。


「来るがいい。雨の谷へ。」


ルカの心臓が跳ねた。


呼ばれている。


物語の外に置かれたこの存在が、彼を“語り部”として選んだのだ。

その視線の先、ハーリィが一言だけ口を開いた。


「行くんだな、語るために。」


それは、問いではなく肯定だった。



檻の奥にいた“無貌(むぼう)囚神(しゅうしん)”を前に、ルカは足を止めた。

その存在には形がなかった。目も、口も、名もない。

だが、それにもかかわらず、奇妙な確信が胸を叩く。


──この神は、まだ語られていない。


「……名前も、ないんだね。」


問いかけたルカに、返答はない。

だが、沈黙こそがこの神の言葉だった。


「そいつは語られなかった。ただそれだけさ。」


隣で市場主(マーケター)が鼻で笑った。


「どんなに強かろうと、美しかろうと、語られなきゃ存在しない。

 逆に、どれだけくだらなくても語られれば神になる。

 神話ってのは、語られた奴が勝つんだよ。」


壁に刻まれた碑文が、不意にルカの視界に飛び込む。


《語られたものだけが、神となる》


(……でも、それって……)

(僕は神を語りたいと思っていた。けれど、それが“閉じ込める”ことだとしたら……)


ルカは目を伏せ、唇を噛んだ。

自分はこれまで、何度となく“語ってきた”。

それが誰かの傷を癒したこともあれば、誰かを縛ったこともある。


“語る”とは祝福か、それとも呪いか。

語ることで、形が与えられる。

だが、形が与えられた途端、そこからはみ出す可能性は閉じられるのではないか。


「僕の語りって……誰かを、狭い檻に閉じ込めてしまってたのかもしれない。」


その呟きに、ハーリィはふと顔を向けた。

だが彼女はやはり、何も言わなかった。

その代わり、檻の前で静かに立ち尽くす“無貌(むぼう)囚神(しゅうしん)”を見つめる。


「……こいつだけは、語られなかった。だから今も“定義”されずにいる。」


市場主(マーケター)が肩をすくめる。


「だがそんな存在に価値なんかない。お前がその気なら……語ってやれよ。

 そうすりゃ一丁前の神様になれるかもな?」


ルカの視線が、綴言の書に落ちた。

指がふるえる。言葉が、喉の奥から浮かび上がる。


──それは本当に、語る価値のあるものか?


それを語ることで、僕はまた、誰かの自由を奪ってしまうんじゃないか?


「……でも、語らなきゃ、誰も気づかないまま……。」


ルカは震える手で筆を取った。

そしてゆっくりと、一文字ずつ、綴り始める。



   あるはずだった名前を持たず、

   語られることなく、忘れられた神がいた。

   その神は、形を持たず、意味も持たず、

   ただ――待ち続けていた。



瞬間、囚神の周囲の空気が変わった。

無のようだった輪郭に、仄かな影が差す。

まるで“仮初めの形”が浮かび上がるように──口のない顔に、無音の言葉が浮かんだ。



《来るがいい。雨の谷へ》



それは、音ではなかった。

ルカの綴言が、神の“意思”を翻訳したのだ。


「……やはり、ルカの言葉は……強いな。」


ハーリィが小さく呟いた。

長く続いた沈黙のあと、ようやく彼女の声が市場の空気を破った。


「語る覚悟が決まったんだな。」


まるで、長い旅路の先でようやく見つけた仲間に向けた、ほんの少しの祝福のようだった。

ルカは微笑み、無貌(むぼう)囚神(しゅうしん)に頭を下げる。


「必ず、あなたの物語を見つけてみせる。

 誰にも語られなかったあなたの“意味”を、言葉にするよ。」


二人は旧神殿市場(アンフォールド)を後にし、地下の階段を上る。

地上では、灰色の風が街を吹き抜けていた。

だがルカの心は、不思議と澄み渡っていた。

その胸には、確かな決意が灯っていた。


──“忘却の谷”へ向かおう。

語られぬまま眠る神話の、その続きを語るために。


そして誰もいなくなった神殿の奥で、

ルカが無意識に書き残した綴言が、淡く光っていた。



《神は語られねばならぬ。

 そして語られぬままでは、死よりなお深く眠る》


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