黒い女
僕の部屋をことばで説明しろと言われたら、それはとても簡単なことだ。文房具しかない。テーブルとベッドはあるし、窓にカーテンはかかっているけれど、それらは取り立てて語るほどのものでもない。語る価値のあるものは文房具だけ。テレビもパソコンもなくて、スマートフォンはあるけど仕事用だから、親しくないひとと電話するためにしか使わない。僕の時間のほとんどは文房具だ。コンパスが円を描いて回り続ける。
僕の部屋には銀色。というよりは灰色。と、あとは透明と黒、それとほんのアクセントとしての赤しかない。ファンシーな類いではない、文房具色の僕の部屋。
やぁ、今日も見事に文房具色だね、君たち! 僕が讃えると、灰色の電卓が嬉しいのか黒い文字を打ちはじめる。カタカタカタ、ピッピッピピピと音を鳴らして。窓の数字はいつまでも0.0000だ。でも今日は特別な日なのか0.0003になった。何が特別なのかは電卓に聞いてみないとわからない。僕の前ではコンパスが円を描いて回り続ける。三角定規は数値を測りながら今日もへこたれる。
灰色のデジタル時計が赤く光った。
灰色のカーテンを少しだけめくって、僕は窓の外を見る。二階の窓からはこの時間、いつもまったく同じ景色が見える。薄暗闇の小さな通りを青白いLEDの灯りが青白く照らす。そんなアスファルトの上を、黒い女が今日も歩いてくる。
アパートの2階の僕の部屋の窓の下を、いつも黒い女が通る。黒ずくめの服を着ているというわけではなく、墨のように真っ黒だ。影よりも黒い。そんなに黒いのに、女性だということだけは間違いなくわかることが、僕には楽しかった。
彼女のことを僕は何も知らない。近所に住んでいるのだろうということはわかる。しかし黒い女だ。今日も黒い女はとても黒い。真っ黒だ。たぶん近づいてみれば、目も鼻も口も色もあるんだろう。でも知り合いでもないのにそんな近くで彼女を見ることはないだろう。僕の友達は文房具だけだからだ。フローリングの床をペタペタ、カチカチ鳴らして分度器がはしゃぎ回っている。
黒い女が通り過ぎていった。女性は勘が鋭いから、僕がいつも見ていることに気がついてるのかもしれない。真っ黒だからこちらを見ていてもわからない。僕のことをどう思っているだろう。いやらしい覗き魔だとか思われているだろうか。ふいに水準器が欲しくなった。蛍光色にも似た爽やかなグリーンティー色の液体の気泡で今、水平を測りたい。フローリングの足下が揺れている。僕は不安定なこの気持ちを地震のせいにしたくなったのだ。
◇
いつもと変わらない朝が来て、目を覚ました僕の隣に、ステンレスの指矩が朝日を受けて光っている。直角定規ではない、よく似ていてよく間違われるけど、こいつは指矩だ。Wikipediaは彼を工具に定義したがるけど、誰が何といおうと僕は彼を文房具だと思っている。愛するものを僕がどう定義しようと、世界の誰にも文句を言われたくない。
仕事へ行くため部屋の中にさよならを言った。
灰色の車に乗り、黒いシートにお尻を乗せて、少しだけ赤いところのあるメーターを見ながら、単調な高速道路を走る。いびつな飛行機雲が3本、黒い山の上から狼煙のように立ち昇っているのを見た。何か不吉なことが起きる前兆だろうか?
会社に着くと、いつものように、色のないオフィスの中で退屈な時間がはじまる。色のないボールペンに色のないパソコン画面。僕はとりあえずみんなに昨夜、地震があったかを聞いてみた。みんなの返事は一様で、「ちっとも」「ぜんせん」「まったく」──どうやら日本のどこにも地震はなかったようで、僕の興味を引くようなことも、何もなかった。
会社にいるあいだ、僕は何杯もコーヒーを飲む。蛍光灯の白を浮かべたブラックコーヒーだ。その表面が揺れるのを見ながらでないと、時間を早送りすることができない。笑顔や怒り顔や無愛想の仮面をつけたひとたちが、僕の周りを忙しそうに歩き回る。僕はそのひとたちに興味がないし、そのひとたちも僕が僕であることに対して興味がない。ただ色のない、匂いもない時間だけをやり過ごす。会社からの帰りには3本の飛行機雲も消えていて、不吉なことなど何もなかった。
◇
黒い女が今日は赤かった。しかも足元に行くにつれて色が淡くなる。何かいいことでもあったのだろうか。派手で、足どりが軽そうだとはいえ、やっぱり単色だった。僕はちょっとだけ興味を引かれたけど、それだけだった。三角定規が寂しがるので枕元に置いてやった。コンパスがくるくるとテーブルの上で回り続けてる。指矩を抱いて、今日も眠った。
◇
僕には悩みがない。人間とは誰とも付き合わないから、悩まされることがないのだ。一日中、部屋にいても、文房具たちがいるから寂しくない。それでもおかしなもので、たまに星の家の牛丼が無性に食いたくなる。今日は土曜日で、僕は仕事が休みだし、黒い女も通らない。だから僕は仕事用の服を着て、クロックスの踵を踏んづけて、近所のお店まで歩いていった。
夜空の月を見ずに歩いていった。
爆発寸前の満月みたいにあかるい光を内側から発してるお店の扉を開いて滑り込むと、カウンター席に黒い女がいたので僕の動きが一瞬、停まった。それでも店員さんにいらっしゃいませと言われたのに出ていくわけにもいかないので、勇気を出して僕もカウンター席に座った。お客さんは疎らだったけど、黒い女の隣の席に座った。
黒い女はもう牛丼を食べていた。近くで見ると真っ黒だ。見たことはないけどブラックホールみたいに真っ黒だ。立体感すらなかった。もっと目鼻立ちとかわかるような気がしていたのに。汗の臭いも感じられないほど真っ黒だった。
口を開けてもやっぱり真っ黒だ。牛丼は吸い込まれるように黒の中に消えていく。僕は思わずそれをまじまじと見つめてしまいながら、つい「黒っ」と、声に出してしまった。
黒い女が僕に答えるように、声を出した。
「あんのハゲ係長の頭のてっぺんにコンパスの針を突き立ててやれたらいいのに」
とても嫌な気持ちにさせられた。声は意外とかわいかったけれど、ことばの内容がかわいくなさすぎた。コンパスはそんなことに使うものじゃない! できれば彼女に小一時間のお説教を食らわせたかった。でもそんな度胸は僕にはなくて、まるで化け物にでも出会ってしまったかのように席を立つと、おそるおそるとお店の扉を内側から開け直し、外へ走り出た。
取り残された僕のための水が、コップの中で恨めしそうに僕を見つめてた。
◇
僕は必死でその次の日の日曜日をやり過ごした。
指矩を抱いて、不安に耐えながら、ベッドの中で悶えながら、指矩だけでなく、電卓も、分度器も、三角定規も、テーブルの上で回るコンパスだけをそのままにして、みんなを集めて抱きしめてやり過ごした。やっぱり水準器が欲しかった。僕の精神の水平を測ってほしい。でも外へ出て買ってくるには人間に会わなければならず、そんな気にはとてもならなくて、部屋の中でずっとやり過ごした。明日になったら仕事に行かないといけない。高速道路の上から山の上を見て、青空だったら安心しないといけない。
明日になるのをひたすら願った。明日になれば、きっとすべてはいつもどおりだ。
◇
僕の仕事をことばで説明しろと言われたら、それはとても簡単なことだ。何をやっているのかわからない、それだけの仕事だから。意味を考える必要はないので、とっても楽ではある。でも退屈で、退屈で、いつでも早くアパートの部屋に帰りたい。そう思えるのは、仕事のおかげだった。
興味のないひとたちに囲まれて仕事をしていると、退屈だけど心は落ち着く。落ち着こうとする。早く部屋に帰って文房具たちと戯れたいと思えば、今をやり過ごすための場所でしかそこはない。少なくとも昨日のような、まる一日をやり過ごすための地獄ではそこはなく、黙って決められたことさえしていれば、勝手に時間が僕の横を通り過ぎていく。そんなところにいると、自分が何かの機械になったようで、心もすっかりなくなっていった。
でも部屋に帰るとまた不安が襲ってきた。何もかもがいつもと違う気がした。僕は変化など求めてはいないのに、確かにその変化は起こっていた。文房具たちに、色がない。なくなっている。あの、とても落ち着く、銀色。というよりは灰色の輝きが。灰色のものをモノクロームで見れば灰色ではなくなるのだと初めて知った。
黒い女は今夜もいつものように通るのだろうか。赤黒かったらどうしよう。係長のハゲ頭にコンパスの針は刺されただろうか。返り血を浴びて、赤黒かったらどうしよう。
色のないデジタル時計が無色に光った。
彼女が窓の下を通る時間だ。僕は見たくなかった。それでゆっくりと窓に近づいて、カーテンを少しだけめくり、その隙間から下を見た。薄暗闇の小さな通りを色のないLEDの灯りがぼんやりと照らしていた。その中を、彼女が歩いてきた。
僕は「アッ」と声をあげた。
彼女だとわかった。特に黒くもなく、ふつうの黒い髪をして、灰茶色のスーツの上下のその上にカラフルなパステルカラーのはっぴのようなものを羽織り、それを雲のようになびかせて、色を纏って歩いてくる。目も鼻も口も色もあった。20歳代半ばぐらいの、特に可愛くも不細工でもない、ふつうの女の子だった。しかし、なんだかいいことがあったようなニコニコ笑顔で歩いてくる。それがコンパスでハゲ頭を刺してスッキリした笑顔ではないことは容易にわかった。だって、まったく黒くないのだ。
彼女は僕が覗いていることに気がつかなかった。自分の中に訪れたらしい幸せしか見ていない笑顔だった。何があったのかはわからない。でも僕も思わず笑顔になり、僕の部屋にも様々な色が咲いた。
日はもう長くなりはじめている。季節が初夏だったことを思い出し、僕は冷蔵庫から金色の缶のビールを一本、取り出すと、祝杯のように掲げ、笑顔のキラキラする文房具たちに囲まれながら、祝辞を述べた。
「やったぞ! 僕と彼女には関係がなかった!」
純文学とは、日常を破壊したのち、おかしなものに替えてそれを再構築し、ただ描くだけのものであり、その意味を誰かに問われても、そんな自分が生活している意味なんてものは作者にすらわからないものである。ちなみに自分が何を言ってるのかもよくわかっていない。