狂気の方程式
家に帰りひとりになると、気がつくことがある。昼間みなでいるときは気がつかなかったこと。それは孤独という現実。ぼくらはいつもたったひとりなのだ。理解し、理解されぬ思いは迷走しそして新たな事件に。涼子が向かう先に何があるか、今狂気が口を開ける。
わけがわからなかった。なぜ担任の吉井静江が飛び降りたのか。なぜ柴田のスマホを持っていたのか。
修二は家に帰っていた。静まり返った家だ。兄は部屋で勉強している。いや、勉強している以外の兄を見たことがない。妹は自分の部屋で電子ピアノを弾いているんだろう。カタカタという音だけが漏れていた。
パートに出ている母親が帰ってきたようだ。無言で玄関から入り、台所に行く。勉強している兄に気を使っているのだろう。ここ数年はリビングでテレビをつけたこともない。食事も個々で食べる。父親の帰りはいつも遅く、ここ数日は顔も見ていない。
こんなのが家族と言えるのだろうか。修二はシャーペンの芯を限界まで出し、それをゆっくりと戻すことを繰り返した。ちょっとでも力を入れたら折れてしまう。うちは今そんな状態だと思った。
死んだ柴田智明のことを考えた。あまり話したことはなかった。学校に来たり来なかったりで、接する機会もそんなになかった。いや、実際は義文たちにいじめられていると思い、その関わり合いになるのを恐れていたからだ。
だから真一が眩しかった。柴田をかばい、義文たちと対立をも辞さないその強さを。
「ぼくは最低だな」
修二はそうつぶやくと、シャーペンの芯に力を入れた。
「なんで柴田の父親に呼び出されたんだ?第一、なんで柴田の父親だって知ってたんだ?」
涼子はある疑問がますます強くなってくるのを感じた。
「最初はぼくも知りませんでした。でもあんなことが起きる少し前に、家の近くで声をかけられたんです」
「藤間咲子の父親、藤間武に、か?」
「そういう名前なんですか。何度も咲子のことで学校に来ていたので顔は知っていました。ぼくはてっきり咲子のことだと思っていましたが、咲子の父親は意外なことをぼくに言いました」
涼子は思った。こいつは犯行を自供するやつの目だ。真一は何かしらの非行を行い、今それをしゃべろうとしている。
「なんて言ったんだ、お前に」
「智明をこれ以上いじめるな、と」
涼子の血が沸騰してくるのがわかった大磯は、ずいっと進み出ると真一に優しく問いかける。
「きみは柴田智明くんをいじめていたのか?」
真一はだまってうなずいた。
「詳しく話してくれる、ね?」
一旦大磯を見ると、再びうつむいてしゃべろうとする真一の机を涼子は思いっきり蹴飛ばした。大きな音が鑑別所中に響くほどと思われた。
「ちゃんと前向いて話せっ。甘ったれたポーズしてんじゃねえっ」
「ちょっと、添田調査官、も少し冷静に」
「大磯さん、こんなクソガキに遠慮なんて無用ですよっ」
「そのとおりです。ぼくはクソみたいなやつです」
真一は青くなった顔をしっかりとあげて言った。
「小学校のいつごろだったか覚えていませんが、同じクラスの柴田くんをいじめだして、それが快感になっていきました。中学に入ってからもしょっちゅうではなかったですが、いじめました。義文たちが柴田をいじめだしたので、手が出しにくくなったのですが」
「どんなふうにいじめた?」
大磯は自ら調書に記入しながら真一に聞いた。
「誰もいなくなった隙に、廊下とかトイレとかで殴りました」
「こいつっ」
「やめなさい、添田調査官。ほかには?」
「カバンや教科書を捨てたりしました」
「画鋲やカッターの歯を机の中に入れたのもきみかい?」
真一は困ったような顔をした。
「それは…」
ダンと再び大きな音がした。涼子が机を叩いた。人間がここまで大きな音を出せるか、と思われるほどすさまじい音だ。真一は飛び上がった。
「洗いざらい言えっ」
「あー、もう添田くん、表出すよ」
「しかしこいつ」
「先生です」
「先生って、誰だい?」
「ぼくらの担任の吉井静江先生がやってました」
「添田調査官、吉井静江を調べてください」
涼子は部屋を飛び出して行った。
青い粉も柴田の机に入れられていた。鑑定にかけたらすぐにわかった。硫酸銅。劇薬だ。そんなものを真一がホイホイ用意できるわけがない。できるなら先生しかない。理科の教師である吉井なら簡単に手に入る。
「まだ起きているのか?」
咲子の父親が部屋の外から声をかけてきた。
「もう寝るところ」
「そうか。学校であったことは聞いた。早く忘れなさい」
「はい。あ、あの?」
「明日は学会がある。準備で忙しい。話しはまた今度聞く」
足音が急ぐように遠ざかって行った。
新東都大医学部の教授である藤間武は若くして教授の座についた。研究につぐ研究でほとんどうちにいない暮らしがもう何年も続いていた。家のことはほとんど通いの家政婦がやっていた。父は兄のいる施設にはほとんど顔を出さないらしい。咲子も兄に会うことは禁止されている。もっとも会おうとも思わなかった。
寂しかったが、そういう時はいつも義文に甘えた。義文は父が母親以外に産ませた子供だ。最初義文から聞かされた時、信じられなかった。父親に問い詰めたら簡単に話してくれた。真実だった。辛く悲しかったが、別の意味で感情が動いていた。義文の母は私生児の義文を連れて再婚していた。義文には家庭に身の置き所がなかった。ふたりはこの世で二人きりの心を許しあえる姉弟となった。
絡まりあった糸がだんだん姿を現してきたと涼子は思った。そしてそれは教師の吉井こそが糸口なのだ。涼子は吉井が搬送された救急病院に向かった。
「なんですって?転院移送された?」
「そうです。処置が終わった段階で、新東都大学病院に」
「だって重傷だったんでしょう?どうしてそんな無茶を」
「一命はとりとめてましたし、意識もしっかりしてましたから。少しなら名前も言えるくらい。奇跡的に頭を打っていなかったのがよかったって先生方が仰ってました」
「しめた」
涼子は駆け出すと、すぐに車を拾った。
「っしゃあっ」
「お客さん、なんかいいこと、あったんですか?」
「まあね。一気に霧が晴れるのよ」
「霧?そんなのでてますかぁ」
タクシーの運転手は不思議そうに運転席から周りを見渡していた。
新東都大病院には警察も来ていた。やれやれ一歩遅かったか。しかし警察にしては対応が早い。いや、早すぎる。
病室から運び出される吉井と出くわすところだった。全身を白い布で覆われている。涼子が霊安室で目を覚ました時とおなじ格好だ。
「ちょっと、それ吉井静江なの?」
「あんただれ?」
刑事のような男が涼子を止めた。
「家裁調査官添田です」
「あんたがあのじゃじゃ馬か」
「なによそれ」
「はは、すまん。俺は城東署の月島。巡査部長だ」
刑事は身分証を見せた。涼子も身分証を提示した。法的にこれで公務に認定される。涼子も下手なことはできない。
「吉井さんですよね、あれ。東新町中学教師の」
「ああ。これから司法解剖にまわされる」
「何ですって!死んだの?だって命は助かったって」
「急死したんだ。なぜかわからんから司法解剖なんだ」
「それって事件かもってことでしょ」
「今言えるのはこれだけだ」
「ちょっと待ってよ」
「生憎これは少年事件でもなければ離婚訴訟でもない。残念だがきみの立ち入れるところじゃないんだよ」
月島という刑事は皮肉ではなく、気の毒そうに涼子に言った。月島の言う通りだった。法の圏内であればどんな無茶なこともある程度はできるが、家裁の範疇を超えてしまっているのだ。もう手出しは出来ない。情報も入らないのだ。
しょげている涼子に月島が言った。
「できるだけ情報をそっちに渡す。かわりにそっちの情報をくれ。こいつは取引だ。こっちもヤマをいくつも抱えて手いっぱいなんだ。悪い話じゃないだろ?」
涼子はニッコリ微笑んだ。月島はこんなに愛らしい顔を見たことがなかった。自分がいかにすさんでいたか、知らされるようだった。そして何ものにも汚されていない笑顔の涼子に羨望と嫉妬を覚えるのだった。
事態は吉井の死で振り出しに戻ったようだったが、涼子は気がついた。ここは藤間咲子の父親がいるところだと。いま涼子の前に、解かれるのを待っている方程式が見えていた。
すべてがひとりの人間へとつながる。それはおぞましい現実か、悲しい虚構か。修二たち、さらに涼子をまきこんで事態は急変する。