死にぞこなった調査官
添田涼子は霊安室で目を覚ました。雨の夜、トラックにはねられたのだ。一年後、東京の下町で事件が起きた。中学生の男子児童が自宅マンションから転落死したのだ。その事件をめぐりさまざまな人間がうごめきだした。自首した同級生、そして真相を知ろうとするクラスメートたち。家庭裁判所調査官、添田涼子は真実を誰よりも深く追求する。そのために手段は選ばない。人間の心の闇に光を当てることこそ、一度失った命を全力で使う、そう彼女は決めていたのだ。
最初、線香の匂いがした。続いて強烈な頭痛が襲ってきた。いたたまれず半身を起こすと、今度は全身に激痛が走った。
気がつくと、白い布をかけられた自分が、何か別の世界にいるように感じた。痛みと視界のぼやけに、不安が込み上げてきた。ぐりぐりとこめかみをさすりながら辺りを見回すと、薄暗い中に非常口の明かりだけが見えた。
ここは霊安室だ…。添田涼子
そえだりょうこ
はそう思った。
――1年後
東京都葛飾区東新町の10階建て中層マンションで起きた15才の男子中学生転落死亡事故は、事故後二日目にして大きな展開を見せた。同じ同級生だった男子児童が母親に付き添われ、東新町警察署に出頭してきたのだ。
出頭してきた男子中学生は武藤真一といった。出頭時、「ぼくがあいつを突き落とした」と言ったきり、それ以後取り調べの際も一切黙秘を続けていた。事故から事件へ、そして容疑者が中学生の、しかも同級生だということでマスコミは大きく取り上げ、自然、すぐに名前と顔は世間の知るところとなった。
東京家庭裁判所葛飾支部
「大磯さん、添田調査官に言ってやってくださいよ。二十四号の案件の、調書がまだ来てないんですよ。いつまでかかってるのか、審理までもう時間ないって言ってるのに」
「高木事務官。添田君には充分に調査するよう言ってある。まあ、思うところはあるだろう。しかし単に仕事がルーズなら僕は責を問わざるを得ないが、実際、真実に向き合う姿勢にそれこそ彼女ほど真剣な者は、いないと思う。そういうわけで毎度ギリギリで申し訳ないが」
「大磯さんがそうやって甘やかすから図に乗るんですよ、あの死にぞこない」
「きみ」
添田涼子は一年前の雨の夜、トラックにはねられ心肺停止となって病院に搬送された。外傷はほとんどなかったが、強いショックは一瞬にして彼女の命を奪った。死亡が宣告され、数時間が経った頃、その奇跡は起きた。鍛え抜かれた体と生まれ持った悪運が彼女を救ったのだ。
添田涼子は病院の霊安室で蘇生した。
北海道の国立大学法学部を卒業し、親の勧めの結婚を嫌い、就職をして自立の道を決めた彼女は裁判所職員採用総合職試験に合格し、家庭裁判所調査官補として採用された。そして二年間の研修ののち家庭裁判所調査官となった彼女は、家裁が扱うさまざまな案件に向き合うこととなった。
「ただいま戻りました」
黒ずくめの細いスーツから伸びた手足がしなやかだった。学生時代、ボクシング部に所属し、インターハイ候補までになったが、涼子には興味はなかった。ボクシングは合法的に人を殴れる、そんな理由から始めた彼女の相手は専ら男子で、しかも生半可な相手では太刀打ちできないほどだった。
「ご苦労さま。佐伯夫婦は離婚の調停に同意したかい?」
大磯裁判官がデスクから身を起こして涼子に向き合った。
「どちらも意地を張ってます。まあ、旦那のほうに分がないですから、まとめるのは簡単です」
「また脅したりしてないよね?」
「失礼な。今回はちゃんと調査してます」
「なら結構。調査資料を高木事務官に渡してください」
「ういっす」
「添田調査官?」
「へ?」
「返事は、はい、です」
「はーい」
肩をすぼめながら裁判官室を出て行く涼子に、冷たい視線を向けた高木事務官はぼやいた。
「黙ってれば相当の美人なのに、もったいないですな。大磯さん、もっと躾けないと」
「そんなことしたら、あの子のいいところがなくなっちゃうような気がするんですよ」
「それが甘やかしなんです」
「ですよね」
「まったく」
北海道豊浦支部から大磯は東京葛飾支部に転勤となった。その際、添田涼子を引き抜いてきたのだ。地元を離れることに難色を示すかと大磯は思ったが、嬉々としてついてきてくれた。もっとも、大磯のためではなく、単に東京に出たいという涼子の本音はちゃんと把握していた。
涼子が事故にあう直前まで担当していた事件。暗く陰鬱なものだった。家庭内で虐待されていた少年の審判の調査だったのだが、調査が入る前に少年は死んだ。涼子は何日か少年と過ごしたと言い張ったが、すでにそのときは少年の命は絶たれた後で、それが涼子の幻想だったのか、わからないまま涼子は事故にあったのだ。
大磯はなるべく少年審判から涼子を遠ざけようとした。しかし案件の多さはそれを許してはくれないようだ。
東新町警察署からその案件が来たのは、大磯が着任して半年目のことだった。
武藤真一は一時的に鑑別所に観護措置をとられ、少年保護手続きに基づいて家裁送致となった。ここで非行について審理、審判を行うが、その下準備として涼子たち調査官が徹底的に調査をするのだ。
初回、接見に立ち会った涼子はキレた。
何を聞いても物言わぬ真一に、涼子の正義感がつまり激高したわけだが、大磯がうまくそれをコントロールしていた。
「添田調査官。すまないけどジュースかなんか買ってきて」
「こんなクソガキにもったいないですよ」
「またそんなこと言って。始末書とりますよ」
「ちぇっ」
涼子は最初、少年を見たとき、どうしても同級生を殺した非行少年には思えなかった。しかし最初の自白とその後の物言わぬ態度に、その疑問は膨れ上がり、態度に出てしまったのだ。こいつは絶対何か隠している。涼子にはそう思えてならなかった。最初の審理の日が決まった。それまでにとことん調査する、と涼子は心に決めた。
東新町中学は重苦しい空気が全体を締め付けていた。マスコミは遠慮なく学校正門に陣取り、そして遠慮なく登下校する生徒にインタビューを求めた。学校の再三の要請にも、報道の自由と正義を振りかざす彼らの抑止にはほとんど効果がなかった。なにしろネット上にはすべてが暴露されているのだ。学校名、被害者少年の名前、顔、住所。そして加害容疑の少年のそれも。それは当事者にとって、家族にとって地獄そのものだ。
三年二組は暗く沈んでいた。被害者と加害者のクラス。他のクラスのざわめきが一層クラス中に余計に重くのしかかっていく。
教師たちは対応に苦慮した。なぜこんなことが起きたのか、全く把握も出来ないでいた。そんななかひとりの男子生徒が声をあげた。的場修二。武藤真一は小学校が一緒で、仲もよかった。事実上二人がクラスのリーダーで、まとめ役に連携もよくとれていたのだ。
「なんでみんな黙ってるんだよ。あいつがそんなことできるわけないって、みんな知ってるだろ?」
クラスの何人かが顔をあげたが、またうつむいてしまった。
「そんなこと言っても、自分でやったって認めているんだからしょうがないじゃない」
突然声をあげたのは、場の雰囲気にいたたまれなくなったクラス委員の佐伯しのぶだ。
「しのぶ、お前までそんなこと言うのかよ。おなじクラス委員だったじゃないか」
「それとは関係ないじゃない」
「関係あるだろ。仲良くクラス委員やってたじゃないか」
「ちょっと、変なこと言わないでよっ。あたしがいつ真一と仲良く」
「うるせえよ」
クラスの後ろから大きな声がした。田中義文。背が大きく、見るからにいじめっ子タイプだ。
「なによ」
「おまえらがガタガタ言ったってしょうがねえんだよ」
「そういうあんたは智明が死んでホッとしてんじゃないの?」
「なんだと」
「いつもいじめてたでしょ。訴えられる前にいなくなってよかったって思ってるわよね」
「てめえ」
「やめろ、もうたくさんだ」
ドン、と机を叩いた修二はみんなを見回した。
柴田智明。死んだ少年だ。小柄でいつも義文たちにいじめられていた。クラスは見て見ぬふりをしていたが、ときおり真一がかばっていた。見るからに線の細い智明はついこの前まで不登校になっていた。それを真一が学校に来させたりもしていた。
そんな真一がなぜ智明を。修二はわけがわからなかった。きっと何かある。真一の話が聞ければ。だが、真一は高い塀の向こう側だ。
「真一はやってない。きっと誰かをかばってるんだ」
修二の言葉にみなが驚いた。
「かばってるって、何よそれ」
しのぶが鋭い目をして聞き返した。
「きっと真犯人が他にいるんだ。真一はそいつをかばってるんだ」
「馬鹿言わないでよ。なんでそんなこと言ってるの?真犯人だなんて、あんた刑事にでもなったつもり?」
「俺、あの日、真一と会ったんだ」
クラス中が修二に注目した。そんなこと知らなかったぞ、という目とともに。
「ちょっと、何言ってんの?それ先生に話した?」
「言ってない」
「何で?」
修二はぐっとこらえるように体に力を入れた。恐らく話すことに、大きなエネルギーが必要だったのだ。
「あの日、学校が終わって俺は一旦家に戻って、それからコンビニに行ったんだ。そしたらそこに真一が来ていた。コンビニの駐車場で少し真一と話したんだ。これから人に会いに行くところだって」
「会いに行くって、誰に?」
「それは言わなかった。だけど大事な話があるからって言っていた。きっとそいつが何か知ってるかもしれない。もしかしたら犯人て」
「やめてっ」
急に叫んだ女子がいた。藤間咲子だ。普段はあまり目立たないが、成績は優秀で学年でもトップクラスだ。
「もうそんなことどうでもいいじゃない。もうやめようよ。そんなこと言ってても、誰も喜ばないよ」
修二はぐっとこらえたようだったが、我慢できない様子だ。クラス全体を見回して宣言した。
「俺は真犯人を見つける。絶対にだ。誰にも邪魔させない」
シーンとなったクラスに、しのぶの声が響いた。
「邪魔はしない。あたしも真犯人がいるなら知りたい。そして理由も。なんで智明が死ななくちゃならなかったかを」
聞いていた義文がふん、と鼻を鳴らした。
「俺も犯人を見つける。このままじゃ、俺が智明をいじめ殺したってみんなに思われるからな」
こうしてぼくたちの狂気は始まった。
真相とは狂気の異名。真実こそ最も恐れられている世界。それを暴き立てることは、もはや狂気でしかない。彼らはその淵に立ってしまっていた。