第18小節目:或る街の群青
翌朝5時。
チェリーボーイズたちが気持ちよさそうに寝息を立てている静かな部屋で、おれは一人、目を覚ます。
長い長い、もはや二週間ちょっとくらいあったように感じる一日が終わり、新しい一日が始まった。
ジャージに着替えて、スニーカーを履いて、スタジオ棟に行くために外に出た。
靄がかった空。どこかで鳴く鳥の声。スン、と、朝の匂いがする。
「ふぅぅ……」
季節は真夏だというのに肌寒くて、おれは腕の半袖からはみ出したところをこすり合わせた。
スゥーっと歯で音を鳴らしながら渡り廊下を進む。
口ずさむ音は相変わらず無機質で、歌った端から、どんどんこぼれ落ちていく。
「はあ……」
おれの鼻歌は、相変わらず音階のないままだ。
『毎日血がにじむほど練習して、精根尽き果てて、それでも越えられない壁のことを、『才能』って言うんじゃないのかな』
昨日大友くんが風呂場で言っていたことがなんだか妙に胸に残っていた。
まだ、曲は作れないかもしれない。
時間をかけたらできるという保証もない。
それでも。
「誰よりもやる、しかないんだよなあ……」
おれはそっとひとりごちる。
改めて口にして、形にして、それと向き合わないといけない。
だからこそおれは、誰よりも早く、スタジオにやってきた。
「よしっ」
もう一度気合いを入れる。
スタジオ棟に入り、おれはおれたちのバンドのスタジオのドアを開けた。
その瞬間。
「『これがなんて気持ちか……』」
澄み切った声が聞こえた。
「市川……」
そこで、市川が歌っていたのだ。
新曲を、おれの、聞いたことのない歌詞で。
その姿を見て、全身の力が抜けていくようだった。
「あ、あれ、小沼くん!?」
市川の視界に入ったらしい。
「おう、おはよう、市川」
「お、おはよ……」
なんだかあっけにとられたみたいに市川が挨拶を返してくれる。
「っていうか、小沼くん、朝練はないって言ってたじゃん!」
「『バンドの練習は』って言っただろ」
おれは、近くにあった椅子にへたりと座り込んだ。
「そんなのヘリクツだよー、もう……」
市川がすねたみたいに口をとがらせる。
「……歌詞、書けたのか?」
「いや、えっと、まだ、です……」
尋ねてみると、もじもじと市川が答えた。
いたずらがバレた子供みたいなその話し方におれは少し笑ってしまう。
「別に、隠さなくてもいいのに。今歌ってたじゃん」
市川は自分の顔の前で両手を振る。
「本当にそんなことないんだ、仮で歌ってただけで」
「ほーん」
「もー、そのあいづちだけは治らないね」
「そうなあ……」
おれも悪いとは思ってるんだが。
「……市川は、いつから練習してるんだ?」
その言葉は、思った以上に冷めたトーンで、自分の口からこぼれ出た。
「んー、30分前くらいかな。どうして?」
純粋な顔をして、市川が首をかしげる。
おれはつい、苦笑いをしてしまう。
何が、『誰よりも早く』だよ。『才能』を超えるんじゃなかったのかよ。
おれはなんだか自分がバカらしくなって、やや投げやりに、市川に問いを投げた。
「……市川は、才能って信じるか?」
「え、才能? いきなりどうして?」
「まあ、いいから」
市川の答えを、そっと促す。
「うーん……『個性』はあっても、『才能』っていうのはあんまりないと思うけど……」
くは、とおれはあきれ笑いを吹き出す。
「だよなあ……」
「ん? どうしたの?」
おれは、圧倒的な事実に打ちのめされそうだった。
おれが『才能』だなんだとわめいていたのは、もしかしたら、ただの『努力』だったのかもしれない。
市川は、おれなんかよりも先に起き出して練習をしていて、その積み重ねで、そこに立っているのかも知れない。
『才能は努力できないやつの言い訳だ』とか、『努力できると言うことが天才なんだ』とか。
100回以上聞いたような言葉を奥歯で噛みしめる。
おれは言葉を失ったまま、ただただ乾いた薄ら笑いを浮かべるばかりであった。
「小沼くん……怒ってるの……?」
市川が困ったような顔をしておれの顔を覗き込んでくる。
「ああ、いや、そうじゃなくて……すまん」
市川に気を遣わせてどうすんだ、おれ。
「昨日の夜、吾妻と話してたんだ」
「由莉と? 小沼くんの曲の話してたの?」
「うん、そう」
おれはうなずく。
「おれだけじゃなくて、吾妻も歌詞が書けなくなっちゃったんだってさ」
「……え、そうなの? ……どうして?」
市川は、眉間にしわを寄せる。
「これを市川に言うべきかは分からないけど、」
ふぅ、と諦めたように息を吐く。
「おれたち、amaneに打ちのめされちゃってるみたいなんだ」
一度口にすると、堰を切ったように、思っていたことがどろどろと引きずり出てきた。
「おれは、amaneに憧れて、音楽を始めて。それでそのamaneに高校で出会って、歌詞は全然ダメダメだけど、楽器も練習して、吾妻にめちゃくちゃ良い歌詞もつけてもらって、amaneに感情を込めて歌ってもらって。でも……」
市川は、真剣に聞いてくれている。
「でも、『平日』よりも『わたしのうた』の方が、何倍もみんなの心を打ったんだ。そんなんで、おれらが曲を作る意味なんかあるのかな、って」
自分で改めて言葉にすると、その事実が実体を伴って、おれの前に立ちはだかった。
「……由莉も、そう言ってたの?」
市川が訊いてくる。
「うん」
「そっかあ……」
市川は目を閉じて、はあ……とわざとらしくため息をつく。
「曲の与える感動の種類が違うとか、そもそもなんの勝負だよとか、そもそも『わたしのうた』は、とか、言いたいことは沢山、ほんと沢山あるんだけど、全部込めて一個だけ」
「ん……?」
市川はおれを応援するでも、なぐさめるでも、励ますでもなく。
ただただ、挑発的に笑って、こう言うのだった。
「じゃあ、小沼くんと由莉で、『わたしのうた』を超える曲を、作ればいいんじゃない?」
「な……!?」
その堂々たる笑顔に、おれは息を呑む。
「でしょ?」
その声色は、完全にラスボスのそれだった。
「い、いや、待てよ。曲を作るだけでも出来るかどうかって言ってんのに、『わたしのうた』を超える曲を作るって……」
「もう、それしかないんだよ、小沼くんが曲を作れるようになるには。由莉も、きっと、そう」
おれの泣き言をさえぎって市川は断言する。
「私や沙子さんがいくら『平日』が好きだって言ったって仕方ないし、多分、みんながそう言ったって仕方ない。だって、」
はあ、とため息をついて。
「そっちが勝手に負けてるんだもん」
おれは首をかしげながらも、うなずくことしか出来ない。
市川は足をトントンとゆすりながら、言葉を続けた。
「あと、2人とも見落としてるみたいだから一応言っておくけど」
「なんでしょうか……?」
おそるおそる、おれは尋ねる。
「2人は『わたしのうた』がなかったら『平日』がないとばかり思ってるみたいだけど、あの日、『平日』がなかったら『わたしのうた』はなかったんだからね?」
「はえ……? それは、完全に順番がおかしいだろ」
だって、『わたしのうた』の方が先に出来てる曲なんだから。
「おかしくないよ。これはなぐさめでも、こじつけでもない。ただの事実」
「……どう言う意味だ?」
訊いてみると、
「そんなことも分かんなくなっちゃってるから、小沼くんはバカだって言ってんの!」
ピシャリ、と強く叱責される。バカってまだ言われてないですよ……。
「っていうか、市川、怒ってる……?」
「怒ってるに決まってるじゃん!」
それはなんでなんでしょうか……。
「まあいいや、勝負に持ち込んできたんだから、頑張って勝ってね!」
パン! と良い音を立てて、市川がおれの二の腕のあたりを叩いた。
「いや、勝負にしたのは市川さんじゃないですか……」
「違うじゃん、その前に2人が勝手に勝負にしてたから言ってるの!」
もう、何を言ってるのか分かりゃしない。
だけど、なんか分からないけど、心の中で何かが芽吹きそうになっているのを、おれは感じていた。多分、もう少しだ。
「もう、久しぶりに『あまね』って言ったと思ったらまたamaneの方なんだから……」




