第7小節目:空っぽの空が僕はきらいだ
* * *
おかしいな、と思ったのは、ロックオンの翌日、夏休みの初日のことだった。
いつもの休日と同じように、寝ぼけまなこのまま、ギターを手に取る。
今日作る曲はDメジャーにしようか、Aマイナーにしようか。
数秒だけ逡巡して、結局、左手をCの形に押さえて、弦と弦の間に挟んでいたピックを取り出して音を鳴らす。
ジャラーンと弾いた音から、曲作りを始めるのが、ほとんど休日の日課のようなものだった。
なのに。
「は……?」
そのギターからは、音階が無くなっていたのだ。
もはやその音はドでもミでもソでもない。
重たいコップを机の上に置く音、時間に追われてキーボードをタイピングする音、どこかから近づいてくる誰かの足音。
そんな音と同じ、メロディにならない『ただの雑音』になってしまったのだ。
どういうことだろう、と、おれは別のコードを押さえて試してみる。
でも、だめだった。さっきと何も、変わらない。
チューニングをし直してみても、アンプに繋いでみても一緒。
おれの弾くギターからは、和音ではなく。
ただの無機質な音の羅列が同時に鳴っているだけだった。
他の楽器でも状況は同じで、ピアノを弾いてみても、ベースを弾いてみても、同じ感覚だった。
唯一ドラムだけは、元々音階の概念がないからか、ほとんど以前と変わらずに扱うことができるみたいだったが、他は完全にダメだ。
もう一度、口にして確認する。
「おれの耳から、音階がなくなった……?」
* * *
「それで、曲が作れないって……」
市川と沙子が気まずそうに目をそらしていた。
「それじゃあ、さっき私が歌った曲も音階がなく聴こえてたの? その、なんだろう……お経みたいな感じで……?」
「いや、」
おれは首を振る。
「自分の演奏以外はしっかり普段通りに聴こえる。おれが鳴らした音だけが、音階がなくなったように聴こえるみたいなんだ」
不安そうにしている市川を見て、
「市川の曲は、ちゃんと、良い曲だったよ」
と、しっかり伝えた。
「そんなこと、今言わなくったっていいよ……!」
市川が瞳を潤ませておれを見る。
おれは慌てて自分の胸の前で手を振った。
「いやいや、そんなに重くとらえなくて大丈夫だから! 一時的なものだろ、きっと」
しめっぽくなられても困る。せっかくの楽しい合宿なんだし!
「拓人、原因は分かってるの」
沙子がおれのTシャツのすそをつかみながら質問する(多分)。
「いやあ、それが全然分かんないんだよなあ……」
ロックオンで良い演奏して、みんなが感動して、拍手もらって……、なんだろう、燃え尽き症候群みたいなことなんだろうか。
「私の声が、小沼くんの音階を奪っちゃったのかな……?」
市川が不安そうにそんなことを言う。
「そんな、おとぎ話の呪いみたいな話なわけあるかよ」
ついつい苦笑が漏れる。ポエマーといえば吾妻だが、市川も作詞をするだけあって思考が多少メルヘンらしい。
「まあまあ、大丈夫だよ、きっと。まだ、たった2週間弱こうなってるだけだから。すまん、曲を作れないかもなんて大げさに言い過ぎた」
おれは同情でも引こうとしたんだろうか。くだらない。
「……でも、そしたら、もう一曲は、どうしようか」
沙子がつぶやいたその一言は、ぽとり、と透明な空気に、黒いインクみたいに一滴垂らされ、じわじわと、でも確実にスタジオ内をにごった色に染め上げていった。
「そうなあ……」
おれも、その回答は持ち合わせていない。
「ねえ、小沼くん」
やがて、市川がそっと口を開く。
「小沼くんは、どうしたい?」
その真剣な表情に、いつかの夕暮れの教室の市川がフラッシュバックした。
『本当は、また、歌えるようになりたい......言いたいこと、たくさん、あって……でも、怖くて……』
いつかの帰り道の市川がフラッシュバックした。
『小沼くんは、何を音楽にしたいの?』
「おれは……、正直よく分からない。自分で曲を作りたいのか、どうなのか。音階が取り戻せたとして、どんな曲が、作りたいのかも……」
ポツリポツリと、一言一言、こぼすみたいに、落とすみたいに。
おれは、何がしたいんだろう。
「ねえ、私は、」
すぅーっと息を吸う。
「小沼くんの新しい曲が聴きたい」
そのまっすぐな瞳がおれをとらえる。
「小沼くんの曲が、好きだよ」
その言葉に息を呑む。
「……うちもだし」
沙子が横からつぶやく。
「うちも、拓人の曲を演りたい。市川さんよりもうちの方が拓人の曲を演りたい」
「……沙子さん、今その後半のコメント要る?」
「なんか、市川さんのペースになってるのがムカつく」
沙子がぷいっとそっぽを向いた。
市川は『もうー……』とかいって苦笑いしてから、おれの方に向き直った。
「ねえ、小沼くん、どうやったらいいかは分からないけどさ、」
市川はそこまで言って、コホン、とわざとらしく咳払いをして、
「『いつか、遠い未来でもいい。いくらでも待つ。世の中に公表しなくてもいい』」
いつかの誰かみたいな口調で語り始める。
よく、一言一句覚えてんな。
「小沼くんの曲を、私に歌わせてくれないかな?」
泣きそうな笑顔でそっと微笑む市川は、なんだかすごく綺麗で。
「お、おお……」
見惚れながら生返事を返していると、市川のほっぺが強く引っ張られる。
「え、ちょ、ちょっと、沙子さん、いたいんだけど!」
「だから、二人の世界に入んのをやめろっつってんの」
「こういう時って、小沼くんのほっぺ引っ張るとこじゃないの!?」
「今回、拓人は悪くないから」
沙子が珍しくわかりやすくむすーっとしている。
そんな沙子を見て、おれも少し我にかえる。
危ない危ない、天然天使に籠絡されるところだった……。今さらじゃんとか言うな。
「ねえ、拓人。とりあえず、文化祭ギリギリまで曲はひと枠空けておくから、やってみない」
沙子が提案してくれている(多分)。
「でも沙子さん、期限とかつけたら小沼くんのプレッシャーになっちゃうんじゃ……」
おれを心配して言う市川を遮って、
「拓人は、出来るよ」
はっきりと、沙子は言い切った。
「……なんで、沙子さんがドヤ顔してるのかよく分からないんだけど」
呆れたみたいに、でも、白旗をあげるように両手をあげて、市川が笑う。
そう。
沙子は、心配でもなく、甘やかすでもなく。
勝利を確信した表情で、そう言うのだ。
「拓人は、出来るから」
と、もう一度。
「ね、拓人?」
「おう、待ってろ」
珍しく語尾をあげた幼馴染の問いかけに、おれが弱気な答えを返せるわけもない。
「わー、良いところは沙子さんが持ってった!」
「いつまでもやられっぱなしじゃないっての」
そんな風にふざけあっている二人を見て、おれは、決意を新たにするのだった。
「……ありがとう、二人とも」
「そしたらさ、小沼くん、競争ね!」
「なんの?」
「私が歌詞を書けるようになるのと、小沼くんが曲を書けるようになるの、どっちが早いか!」
ニカッと市川が笑う。
「……おう、そうだな」
またしても、市川のほっぺが引っ張られる。
「だから、最後の最後は自分が持ってこうとするところがむかつくっつってんの」
「あはは、そんなの知らないよ! …………え、ちょっと、本当に痛いから離して! いや、強過ぎるから! 小沼くん、助けて!」




