第26小節目:バイタルサイン
吉祥寺。
市川さんに手を振って、駅から少し遠い楽器屋の自動ドアを開けたうちは、鼓膜に流れ込んできたその音に足を止める。
楽器屋では、誰かが買おうか考えている楽器を試奏していることがよくある。今はベースの試奏を誰かがしていた。そんなの、全然珍しいことじゃない。それだけで足を止めたわけじゃない。
問題はそのフレーズだ。
それがあまりにも耳馴染みのあるフレーズだったせいで、日常に溶け込んで一瞬スルーしかけたけど、やっぱりおかしい。
だって、そのフレーズは、『おまもり』でうちが弾いているベースラインだったのだから。
どこの誰がamaneの曲を弾いているんだろう……?
音のする方をうかがうけど、間に立ったフェンスにたくさんのベースが掛けられていて、隙間からじゃ、どこかの学校の制服のスカートが揺れているのしか見えない。
もしかして、ゆりすけ……? いや、ゆりすけが違う学校の生徒のコスプレをしてここに来る意味がわからない。でも、だとしたら……?
鼓動は痛いほど強く胸を打つ。
それでも、確認しないわけにはいかない。
一歩ずつ、音源に近づいていく。
そしてついにうちの瞳がその弾き手を捉えた。
捉えた、けど。
「……?」
そこにいたのは、まったく知らない小柄な女の子だった。
武蔵野国際の制服でもなく、中学時代の後輩とか先輩でもなく、本当にまったく知らない女の子。黒セーラー服の制服の胸元には『中』と書いてある校章が。
黒髪で短髪。中学生らしいその子は、よっぽど集中しているらしく、口をたこみたいに尖らせて、たどたどしい指で、だけど一生懸命に、そのフレーズを弾いていた。
「……あの」
震える声が自分の喉からかすれ出てくる。ベースの音にかき消されて、集中している彼女には届かない。
……どうしたんだ、うちは。
こんなの、自分らしくもない。
心の中の空に花火が上がったように、激しくて、熱い。
「あのっ!」
調節のツマミがバカになっているのか、思ったよりも大きく出てしまった声で彼女に声をかけると、
「は、はいっ!?」
随分と慌てた様子のその子は、うちをみて身をすくめる。
「な、ななななんでしょうか何かしちゃいましたか!?」
「あ、えっと……」
そりゃそうだろう。
元々、人を威嚇しがちな外見をしている自覚はあるし、一生懸命試奏していたのに店員じゃない人間にいきなり声をかけられたら、こうなる方が自然だ。
「……それ、なんて曲」
こんな奇跡みたいなシチュエーションになっても石橋を叩いて渡る、ロックとは正反対の自分の性格が情けない。
「あ、あの、えっと……」
彼女はほんの少しだけ逡巡する間を見せて、でも、すぐに、自分だけの宝物をこっそり自慢するように微笑む。
「『おまもり』って曲です」
「……!」
……やっぱり、本当にそうだった。
うちの知らない誰かが、うちの作ったフレーズを弾いていた。
えっと……こういう時、なんていえばいい……?
自分から声をかけたくせに言葉を失っているはた迷惑なうちを、それでも彼女は瞳を輝かせて見上げる。
「お姉さん、お耳が高いですね……!」
うううううう、と噛み締めるみたいな仕草を見せてから、爆ぜるように話し始めた。
「めっっっっっっっちゃくちゃいいフレーズですよね、主旋律みたいで! これ、ベースソロとかじゃないんですよ? ボーカルの方が歌を歌っている後ろを裏メロディ的に弾いてるって感じで。もう一つの歌詞が聞こえてくるみたいなのに、全然歌を邪魔してなくて、むしろ歌に寄り添ってハモっているみたいなベースラインになってるんです。あ、わたしが考えたわけじゃないんですよ? もちろんですけど!」
「ああ、うん……」
「わたしの腕じゃ原曲の素晴らしさの1割も表現できてないんですけど、それでもやっぱり聴く人の足を止めちゃうフレーズなんだなあ……。あ、ご存じでなければぜひ原曲聴いていただきたいです! 青春リベリオンのサイトで聴けるはずなので……あれ、まだ聴けるのかな、ちょっと待ってくださいね……」
「あ、えっと……」
いきなり褒めちぎられて嬉しいやら照れくさいやらで正体を明かせないうちの胸中など知らず、彼女はポケットから取り出したスマホをスワイプする。そして、
「……ほら、まだ聞けます! この『amane』ってバンドの……あぁ!?」
彼女は大声をあげて、スマホの画面にうつったamaneのアー写とうちを見比べる。
「そ、そそそ、その、無表情、金髪、仏頂面、制服、能面……波須沙子さんですか!?」
……おい、無表情の同義語をいちいち挟むな。その写真しか知らないのになんでうちの無愛想を知ってんの。
「……そうだけど」
「え、ええええええええ!?」
「ちょっと、声が大きい……」
「だ、だって……!」
周りをキョロキョロと見るうちとは対照的に、彼女はブツブツと口の中で話し始める。
「そっか、武蔵野国際高校は武蔵境の高校だから、最寄りの楽器屋さんは吉祥寺になるのか……」
「なんでうちの高校を知ってんの」
「制服でわかりますよ?」
……たしかに。
「でも、そっかあ、本物の波須沙子さんだー……! あの、わたし、この曲聞いて、これからベースの練習して、高校に入ったら絶対オリジナル曲をやるバンドを組むって決めたんです! 今、中2なので本当はそろそろ受験勉強始めないといけないんですけど、こんなにかっこいいものを聴いたら、いてもたってもいられなくって……」
うずうずと、くるくると表情を変えながら一生懸命うちに伝えてくれる。
「ベース持ってないのに、どうやってそこまで弾けるようになったの」
「あ、幼馴染……っていうか腐れ縁?のやつがいるんですけど、そいつがベース持ってるんです。だからそいつの家に行ってちょっと教えてもらったりして……」
「幼馴染、ベース弾けるんだ」
「あー……そいつ楽器が一通り、何でも出来るんです」
「へえ……」
「あれ、なんか穏やかな表情になりましたね?」
「……別に」
「あ、戻っちゃった」
初めて会った割には軽妙なやりとりをしてくれる彼女は案外大物かもしれない。
「あの、実は、波須さんにちょうど聞きたかったことがあるんですけど……」
「何」
「波須さんってどのベース使ってるんですか? わたし、波須さんのベースの音が大好きで……。優しくて強くて、クールでかっこよくて……! 弾き比べてみたら分かるかなって思って楽器屋に来てみたんですけど、わたしの耳じゃどれがそのベースか分からなくて。これで10本目の試奏です」
よく店員さんに怒られなかったな、この子。と思って近くの店員を見てみると、微笑ましそうにこっちを見ている。なるほど、この子もあの女と同じ天然人たらしか。
「その幼馴染にも聞かせたんですけど、音楽に詳しいくせにわからないって言ってて」
「ああ……」
ベースの音は、レコーディングの時に使うアンプとか、音作りの違いで随分と変わるから、音だけ聞いてベースの種類を当てるのはうちでも難しい。
「ま、拓人なら聞き分けられるけどね」
「たくと?」
……口に出てたか。
うちは咳払いで誤魔化す。
「こほん……別にうちに合わせる必要はないけど、うちが使ってるのはジャズベ。あなたが今持ってるのはプレベ」
「じゃずべ……?」
「ジャズベース」
「ジャズを弾くためのベースってことです?」
「最初はジャズ用に作られたんだけど、使う人がどんどんジャズ以外で使うようになったんだって」
いつか、拓人と市川さんにもした説明をする。
「ほええー……じゃあジャズベにしようかな……」
「別になんでもいいと思うけど。弾いてて好きな音だったら」
「だから、波須さんの音が好きなんですってば」
彼女は自然にそんなことを言うと、ジャズベのコーナーに数歩移動する。
「うわー高いけど……でも、楽器なんかどれも高いもんなあ……お年玉を全部足せば……もしかしたら……?」
またぶつぶつとお金の算段をしている。決して安い買い物じゃないから、こうなるのも当然だ。
なんとなく隣で一緒に眺めていると。
「……あの、波須さん。もう一個、聞いてもいいですか? こんなこと聞くのも失礼な話なんですけど……」
と、もじもじし始める。
「どうしたの」
しかし、その質問をしっかりするためにか、彼女はうちに向き直った。
「……波須さんがこれからバンドやるとしたら、ベースを選びますか?」
「……ああ」
その質問の意図はよく分かる。
他の楽器だったら少し変な質問だけど、ベースだとこの質問がどうにもしっくりきてしまうのだ。
要するに、『目立たないパートだけど、後悔していないか?』ということだろう。これから楽器を始めるんだったらそれは聞いておきたいところだと思う。大枚はたいて買った楽器が部屋に飾られてるだけのただの死んだ木になってしまったら、たまったもんじゃない。
「……ベースなんかやってなければって思ったことは何回もあるよ」
「ええっ……」
悲痛な声をあげた彼女はそれでもどこか「残念だけど、まあやっぱりそうなのかな……」みたいな顔をしている。
「引き立て役だから、損することの方が多いし。ボーカルの女とかは自分にスポットライトが当たってないと腹立てるようなめんどくさいやつだし。それでものびのび演奏できるように公私共にサポートしてやらないといけないし。それに……これはベースに限ったことじゃ無いだろうけど、上手い人も山ほどいるからね。毎日毎日、自分の実力不足に嫌気がさす。胃がキリキリ痛むほど苦しくて、楽器をみるのも嫌になることもしょっちゅう。メンバーの作った曲とか、誰かのベースを聴くだけで、悔しくて死にそうになることだってある」
「そう、ですか……」
しゅん、としてしまった彼女に、うちはそれでも一番大切なことを言う。
「でも……もしあの時からやり直せるとしても、うちはベースを選ぶよ。それは間違いない」
きっと昨日までだったら言えなかっただろう言葉を、うちの口はしっかりと音にしていた。
「どうしてですか……?」
「それは、」
うちは、自分の口角が自然に上がっていくのを感じる。
「あなたに会えたから」
「……わたし、ですか?」
「うん、あなた」
「はあ……」
ふふ、と吹き出しそうになる。
そりゃ、分からないか。こんなに清々しくて晴々しい気持ちは、本人にしか分からないようになってるんだろう。じゃないと、報われないもん。
気づくと、指先がうずいていた。
やる気がたぎって、みなぎって、これ以上ここに留まっていられない。
「それじゃあ、うちはそろそろ行くね」
そう言って背を向けたうちを、
「あ、あの!」
彼女が呼び止める。
肩越しに振り返ると、
「わたし、いつか、amaneと対バン出来るように、バンド一生懸命頑張ります!! な、なので!!! その時は、よろしくお願いします!!」
ガバッと頭を下げる彼女。
いつか。
その『未来』をこの子は無邪気に信じて、うちに無遠慮に投げつけてくる。
うちらがもう今月の終わりには解散してしまうことも知らずに。
当たり前だけど、対バンは存続しているバンド同士じゃないと出来ないのだ。
「はあ……」
ため息が漏れる。
このまま、あなたにとって、手の届かない憧れのまま立ち去ることが出来れば良かったのに。
でも仕方ない。
うちは、果たされない約束が大嫌いだ。
無責任な約束は、その人を縛るだけ縛って、傷付けて何も残さない。
うちは、彼と見たあの花火に誓ったんだ。
もう一生約束を破らない、と。
だから、ちゃんとしないといけない。ちゃんと言わないといけない。
守れない約束なんてしないために、うちはしっかりと彼女に向き直り、彼女の前に立つ。
「うん、amaneとあなたたちで絶対に対バンしよう。だから、……やめんなよ、何があっても」
うちが小指を差し出すと、その子は嬉しそうに自分の小指を絡めてくる。
「はい……!」
届かない憧れなんかじゃなく、同じ地平で音を鳴らすのだと、そう約束をした。
先輩風を吹かせて、臆病風を追い払う。
虚勢だって、見栄だって、ハッタリだって。
叶えれば決意に変わるんだ。
「嘘ついたら、針千本飲むから」




