第3小節目:茜色の夕日
「あたしね、井の中の蛙って、その井戸の中にはその蛙一匹しかいないんだと思ってたんだよね」
昼休み。
ロック部のスタジオの壁にもたれかかって地べたに体育座りする吾妻は何気ない雑談みたいなテンションでそんな話をし始めた。
「うん?」
隣、同じく地べたに腰掛けるおれは、吾妻らしい物言いだとは思いつつ、その真意を掴みかねて、先を促すようにうなずく。
「なんか、それって、小沼とか、あたしみたいだなって。そんな風に思ってたんだよ」
「おれ……?」
「そう。井戸って、自分の部屋とかスマホの中とか、そういう『自分だけの場所』だと思ってて。自分一匹だけがそこにいて、自分で自分の書いた歌詞を読んで、『え、あたし結構いい歌詞書くじゃん!?』ってなってるんだと思ってた」
吾妻は、はは、と渇いた笑みを吐き出して続ける。
「だからね、そこから——自分一人の場所から飛び出して、他の人にも読んでもらって、それだけで井戸から出たような気持ちになってたんだろうね」
「ああ……」
少しだけ、なんでこんなことを言い始めたかが分かってきた。
「本当はさ。そのカワズちゃんは、ひとりぼっちってわけじゃなかったんだ。井戸の中には他の生き物もいて。井戸の中っていう小さいコミュニティでは褒められたりもしたんだよ。……てか、井戸って他になんの生き物がいんの? そもそも井戸にカエルいるの地味にやなんだけど。井戸水ってきれいなんじゃないの?」
「知らないけど。……話脱線してない?」
「そ? 全然気づかなかった」
吾妻は少し上を向く。
国語の偏差値84の吾妻がこれしきの脱線に気づかないはずがない。
何かを誤魔化すみたいに、塗りつぶすみたいに、押さえつけるみたいに、そんなどうでもいい話をしているんだろう。
「まあ、とにかく、その蛙以外の生き物たちも井戸の中で過ごしているもんだからさ、大海を知らないんだよね。周りに歌詞書いてる生き物なんていないから、比較せずに『すっごく感動したよ』とか『救われたよ』とか、声かけてくれちゃってさ」
わずかにしゃくりあがる語尾に気づかないふりをする。
「……そんなのさ、嬉しくて飛び跳ねるの、仕方ないじゃんね? 飛び跳ねるのって、カエルの習性だし。それをバカにすることわざなんて、誰が作ったんだろ。きっと、めちゃくちゃにイヤなやつなんだろうね」
「そう……だな」
「ちなみに、このことわざ、続きがあるんだってさ。『されど空の深さを知る』だって。だからダメなんだよ。自分にしか分からない深さなんて、誰にも伝わらない深さなんて……そんなの、なんにもなりゃしないじゃんか」
ふうーっと、天井に息を吹きかけると、少し微笑んで、やっとこっちを見る。
「まあ、でも、それが分かっただけでも良かったよ。一曲届かなかったからって、音楽やめなきゃいけないわけじゃないし。そんなに一曲一曲に拘ってもいられないしね。知ってる? 『拘る』と『拘う』って同じ漢字なんだよ?」
「そう、なんだ」
本音をいえば漢字はピンとこないし、ピントが合わない。
「そう。どれだけ自信作だろうと、どんなに思い入れが強かろうと、世間が求めるかどうかにはそんなのこれっぽっちも関係ないしね。いちいちそんなにくらってたら身が保たないっていうかさ」
吾妻は、
「ま、レコーディング出来ただけでもありがたいし、レコード会社の人とか、多くはないかもだけど色んな人が聴いてくれたんだから、それで十分だよね」
物分かりのいいフリして、
「どんな評価を受けようとさ、あたしはこの歌詞が書けたことを誇りに思うよ」
平気なフリして、
「先を見てかなきゃ。これからもっと良い曲を一緒に作れればいいよね」
また笑ってみせた。
でも。
「ごめん、小沼……」
すぐにその唇はわなわなと震えて、崩れゆく表情と共に、その顔は伏せられる。
「……こんなの全部、嘘」
吾妻はおれの腕を掴む。
「ねえ、小沼、助けて……!」
うるみきった静かな声が悲痛な叫びをあげる。
「あたし、悔しくて死んじゃいそう……! 毎分毎秒、内臓を雑巾絞りされてるみたいに痛い……!」
締め付けられた喉から、掠れた声で、彼女はそう口にする。
「世界をひっくり返せるほどの曲だと思ってたんだ。全身全霊で書いた歌詞に、小沼の最強の曲をつけてもらって、思いを全部託したさこはすのベースと、あたしの世界で一番好きな天音の声で歌ってもらって」
吾妻の両手はおれのシャツに、ぎゅうっと、一生取れない皺を作る。
「……それなのに、なんでこんなに届かないの!?」
「……!」
決壊した感情が雪崩を起こす。
「この曲は、この歌詞は、あたしの全部だよ。あたしの心臓を抉って、流れた血をインクにして書いた歌詞だよ。これ以上のものなんて出来ないよ、書けっこない。ううん、書けるとか書けないとか、以上とか以下とかじゃなくて……」
スタジオの中を氾濫するそれからは、たしかに、鉄の匂いがした。
「この曲は、他でもないあたし自身だったんだよ……!」
「……そう、だよな」
その濁流の中、一筋の水滴が自分からこぼれ落ちることに気がつく。
ピントが合わない理由は、こっちにあったのか。
「それでひっくり返せないってことはさ、……あたしじゃ無理なんだ。あたしの全身全霊じゃ、あたしの100点じゃ、あたしの1000点じゃ、世界の、日本の……ううん、多分、この町の足下にも及ばない」
「吾妻……!」
「こんなに遠いのかよ……!」
最後に一言絞り出した吾妻は、嗚咽しながら、くずおれる。
……そうか。
次がある、だなんて言えない理由はここにあったんだ。
おれは、吾妻の覚悟を、決意を、数打ちゃ当たる鉄砲の一弾だなんて思えなかった。
次があるだなんて言ってるやつに、次なんてあるはずなかったんだ。
「届けられなくて……ごめん」
何も救わない、それこそどこにも届かない言葉は、穴ボコだらけの防音室の中、一瞬で消えていった。
それと同時に、おれは気づき始めていた。
こんなだから、おれたちは負けたんだ。




