第15.2小節目:Smooch!
吉祥寺の漫画喫茶の前に到着する。
「わあ、これが漫画喫茶……! なんか緊張するなあ……」
ブレザー姿の市川が、ジェットコースターに初めて並んだ小学生みたいな顔で、まだ明るいというのに電球がチカチカと光っている看板を見る。
「そうなあ……」
「あれ、小沼くんも緊張するの?」
「うん……」
なんとなく案内役みたいになっているが、おれも実はそんなに来たことがあるわけではないのだ。
高1、バリバリ帰宅部時代の暇な放課後に2回ほど、某海賊漫画を一気読みしたい衝動にかられた時に行ったくらいだ。結局2回で読み切ることは全然出来なかったけど。
あれはたしか、池袋の漫画喫茶だったか。なんとなく退廃的な雰囲気が漂っていたし、一人でいると少し怖い感じもした。別に悪いことしてるわけでもないのに悪いことしてる気分というか……。
「へえ……。じゃあ一緒に深呼吸して落ち着こうか?」
「なんで……?」
「むう、そんな顔しなくてもいいじゃん……!」
天然天使が意味不明な提案をしてくるので、普通に眉をひそめてしまうと、やたらショックを受けたように市川が下唇を少しつきだした。
「すまん……」
いや、これ、おれが悪いのかなあ……?
結局二人とも深呼吸はせずに入店し(そりゃそうだ)、カウンターで二人とも会員証を作る。
「お席のタイプなんですけどー、お客様高校生さんですのでー、今ですとフラットブースのみのご案内になりますがよろしいですかー?」
パキッとした化粧をして金髪のギャルっぽい店員さんが、見た目に反して事務的に対応してくれる。
「はい、大丈夫です」
「他にどんな席があるんですか?」
答えるおれの横から、好奇心旺盛な市川さんが無駄な質問をする。
「え? あー……えーっと、ご案内できないんでアレなんですけどー、こちらの鍵付き個室タイプとかですねー」
ちょっと戸惑って素を出した店員さんが、カウンターに置いてあるラミネート加工されたインフォーメーションの写真を手で示す。
そこには、鍵をかけられる個室(情報量増えてない)でくつろぐ女性の写真と、その下に、
『18歳未満および高校生の方はご利用いただけません。』
と注釈が書かれている。
「へえー……!」
感心の声をあげてから、社会科見学に行った生徒のように興味津々の笑顔で市川は質問を重ねる。
「どうしてこの席って高校生は使えないんですか?」
「え? はい、えーっと、それはー……」
少し目を泳がせた店員さんが答える前に、
「あの、とにかく、フラットシートで大丈夫です」
おれが遮った。
「は、はい、かしこまりましたー。じゃあ、こちらのブース番号でー……」
市川の質問に答えるのをやめて、店員さんは伝票みたいなものを小さいバインダーに挟んで渡してくれる。
「は、はい……! あの、なんか、すみません……!」
「い、いえー……。むしろ、ありがとうございますー……!」
「とんでもないです……、ほんとすみません……!」
ペコペコと頭を下げあう二人。謎の連帯感がおれと店員さんの間に生まれた瞬間だった。
「んー……?」
ほけーっと純粋な目をして首を傾げる黒髪さんの視線が痛い。
そっちがきれい過ぎるだけでこっちが汚いわけじゃないんだからね……!
カウンターから奥に入っていく。
指定されたブースに荷物だけ置くと、再度廊下に出た。
「思ったより静かなんだね……!」
たしかに。
市川はかなり声を落としているが、それでもかなり目立つように感じる。一人で来る時には分からなかったことだな……。
「小沼くん、何読むの?」
「うーん……。ONE PIECEかな……」
特に目当てがあるわけでもなかったので、とりあえず某海賊漫画を読むことにする。(なんのために伏せてるの?)
「そっかそっか。えっと、私の『もう一度、恋した。』はどこにいけばいいのかな?」
「多分こっちかな」
おれがそう思われる方向に足を踏み出すと、
「うん、ど、どっち……?」
おれのシャツの裾あたりが引っ張られた。
「んっ……?」
振り返ると、市川さんがおれの裾をきゅっとつまんでうつむいている。
「あ、天音さま……?」
「め、迷路みたいだから、迷わないようにって……だめかな……?」
「い、いや……」
いやいや、こんな一本道で迷わないですよ、とは、もちろんおれだって思ったけど、市川の用意してくれた建前に甘えることにした。
直接触れているわけでもないのに、なんかくすぐったいのはなんでなんだろうか……。
そのままとことこと数歩進むと、廊下の少し開けたところに出た。
「あれ、……これ、何?」
市川が、つまんでいない方の手で指差したのはドリンクバー。
「ああ、ソフトドリンク飲み放題なんだよ」
「無料で?」
「無料っていうか、席の料金に勝手についてくるんだけどな」
「へえ……、これ、どうやって使うの?」
首をかしげる市川。
「どうやって使うのって? ファミレスのドリンクバーと一緒だけど」
コップを飲み物が出てくるところに置いてボタンを押す以外に使い方があるだろうか?
「へえ、ファミレスってこういうのあるんだー……」
すると、瞳を大きくして興味深げに眺め始めた。
「え、ファミレス行ったことないの?」
「うーん、記憶にあるうちではないかなあ……。多分、ドリンクバーを頼んだこともない」
「まじか……」
市川がどういう育ちなのか若干まだ掴めていない部分があるが、とりあえずファストフードやファミレスの類はあまり嗜まないらしい。お母さんとか、もしかしてスパルタなんじゃないだろうか……?
でも。
「じゃあ今度行くかあ……」
なんとなく、箱入りのお姫様を鳥カゴから連れ出す貧民みたいな気分で提案した。
「小沼くん、一緒に行ってくれるの?」
「いや、うん、まあ、その……。そりゃ、そうだろ……」
何気ない一言のつもりが存外に意味を持って響いてしまったらしい。
「そっかあ……!」
ぱぁぁ……!とその瞳が輝く。
「そんな嬉しそうな顔しなくても……べ、別に普通だろそんなの」
「ううん……! それが普通なのがすっごく嬉しいんだよ?」
市川がえへへ、と照れたみたいに笑う。
「そ、そうすか……」
対するおれはその素直でまっすぐな気持ちを受け止めると倒れてしまいそうだったので、照れ隠しで逃した。
すると、「そっかあ……」とか言いながら、ブレザーの袖を口元にあてて、嬉しそうにつぶやく。
「初マック、初漫画喫茶、初ドリンクバー、初ファミレス……。私の『はじめて』、たくさん残ってて良かったなあ……」
「お、おう……」
「他にはどんな『はじめて』が残ってるかな……?」
「す、好きな飲み物注ぎなよ、ほら」
この人は、自分の言葉がどんな意味を孕んでいて、そしてそれがどんな握力を持っておれの心臓を握り締めてしまうのかについて自覚がないらしい。
ニコニコと笑いながら、きゅっともう一度だけおれの裾をつまむと、名残惜しそうにそっと離して、コップを手にする。
「あ、由莉の好きなカルピスがある。カルピスにしよーっと」
はあ、おれの心臓はあとどれくらい持つだろうか……。
飲み物と目当てのマンガを手にブースに戻る。
二つ並んだ座椅子に座ってマンガを開いてみると、紙をめくる音すらも大きく聞こえた。
廊下にいた時よりも一層静かにしないといけない感じがして、二人して息を潜める。
「なんかあったら言って」
そう小さく呟くと、声を出してはいけないと思ったのか、市川は口にチャックをかける動作をしながら唇をひき結ぶと、ニコッと笑ってコクリと一度だけ頷く。なんだその動き、TikTokに投稿したら10億いいねくらいくるんじゃねえの。
十数分、集中して読んでいると、
「……ねえ小沼くん」
おれの耳に唇を近づけて市川がささやく。さっきのチャックはもう壊れたのか。
隣のブースにも声が漏れないように、という気遣いであろうが、耳朶をくすぐられて少し身をよじる。
「……どうした?」
顔が近いことは分かっていたので、さすがに気恥ずかしく、漫画に視線を落としたまま返答した。
「あのね、」
だけどこの人は、ちょっと照れたような、だけどどこか真剣な声音で、いきなり、無視できないことをいうのだ。
「ここには『レモンの味』って書いてあるけど、私は違かった気がするんだよね……。だから、その……」
……はい?
「……あの時、何の味がしたかな?」
「んぇっ!?」
突然のあまりの言葉に驚いてバッとそちらを見た瞬間。
「んっ……」
おれの耳元に添えられていた市川の唇におれの唇がわずかに触れた……気がした。
「い、今……!」
やってしまったか……!? と思ってそちらを見ると、手の甲を口元に当てて、暗がりでも分かるほど顔を赤くする市川。
「もしかして……?」
コクコク、と大きくうなずく。
「す、すまん……!」
おれがなかば土下座みたいな体勢で頭をがばっと下げて謝ると、市川の小さな声が頭上から降ってくる。
「う、ううん、別に謝ることじゃないよ……?」
「いや、でも……」
おれは顔を上げる。
「別に、その……ね、」
市川はわずかに視線をそらして、口元には手の甲をあてたまま。
「その、た、拓人くんはこの先、何回だって、いいから」
うっ……!
ダメージを食らって息を呑んだおれにとどめをさすように、おれの目を見つけてくる。
「……はじめてから最後まで、拓人くんだけだよ?」
瞳をうるませて放たれたその一言に、おれは今日も順調に意識を手放すのだった。




