第71小節目:Juice
「ただいまー」
「おかえりー」
玄関で靴を脱いでいると、キッチンの方からゆずの声が聞こえる。
おれはその声で吾妻の言葉を思い出して、目元を触ってみる。
『そのまま帰って妹ちゃんに見られたら、『兄貴、カツアゲにあったの?』って聞かれるレベル』
あれ、本当かな……?
試してみたい気持ちも含めて、キッチンにそろそろと行ってみると、スウェット姿の我が妹が鍋の前に立っている。
その横に立って、鍋を覗き込む。
「クリームシチュー?」
「うん、なんか帰ってきてテレビでクリームシチューのCM見てたら、どうしても食べたくなっちゃって……」
「そうなんだ、素直だな……」
相槌を打ちながら、鍋をぐるぐるとかき混ぜているゆずの方を向いてみた。
「な、なに……?」
ゆずがおれの視線を感じてこちらを見て、頬を引きつらせる。
「なあ、ゆず。なんかおれの顔見て気づくことあるか?」
「はあ……? なに、めんどくさい彼女……?」
怪訝そうな顔をしながらもゆずは、
「え? 前髪切ったとか? 眉毛揃えたとか? ……え、メイク変えたとか?」
と、小声でおれの顔の変化したところを探してくれている。メイクしてねえよ。
でも、大丈夫そうだ。まぶたの腫れには気づく様子もない。
「気づかないならいいんだ」
吾妻のアイスの助言のおかげで『兄貴、カツアゲにあったの?』と聞かれる世界線を回避出来たらしい。……ていうか、そもそもまぶたは本当に腫れてたのか?
「え、本当に意味不明なんだけど……?」
「いいんだ。すまん、兄の顔を観察させて」
「うん、本当にやめてほしい……」
本気で嫌がってるじゃんおれの妹。兄貴って言われるよりショックだよ……。
ゆずの手元を見てみると、今ちょうどルーを溶かしたところらしい。
「まだもう少しかかるよな? 着替えてくるわ」
「ああ、うん。ごめんね遅くなっちゃって。CM見てから買い物行ったから……怒ってる?」
「いや、ご飯作ってもらってるのに文句言うわけないだろ……。おれのことなんだと思ってるんだよ」
気を遣わせまい、という気遣いのつもりで、
「お腹もそんなに空いてないし」
と一言付け加えながら、自室に戻ろうとしたその時。
「……え、なんで?」
背中から、背筋が凍るような声がした。
恐る恐る振り返ると、光を失って瞳を真っ黒にしたヤンデレ状態になった、おれの妹だったはずの何者かが立っていた。
……今さっきまで右手に握っていたのはおたまだったはずなのに、包丁に見える。
「ネぇ、なンでおナカ空いテなイの? もシかして、外でナニヵ喰べてキタの……?」
なになに!? 超怖いんだけど!?
「す、すみません! ちょっとだけ!」
「ナニを、喰べてキタの……?」
「あ、あ……アイスを少々……!」
おれが白状すると、
「たっくん、ご飯の前にアイス食べたの!? いつもゆずがご飯の前に食べると注意するくせに!」
と通常状態に戻って激昂する。
いくら怒ってても、さっきのホラーなやつよりはずっといい……。
「帰り道に誘われて食べただけだよ! 仕方なかったんだ!」
「今、『仕方なかった』って言ったの!? 沙子ちゃんには『仕方ない』って言わせたくないって言ってたくせに!」
「え、なんで知ってんの!?」
「話を逸らさないで!」
つり目の我が妹の怖さに『話を逸らしたのはそっちなのでは?』という疑念も一瞬で吹き飛ぶ。
「で、でもほら、ほんとにちょっとなんだって! パピコ半分だけだから!」
「パピコをはんぶんこ!?」
まだ墓穴掘ったか? と思った瞬間。
「たっくんすごいじゃん!」
謎に賞賛の言葉をいただいた。
「すまん……え?」
見やると、突然ゆずが瞳を輝かせてこちらを見上げてくる。
「えっ! 誰とはんぶんこしたの? 沙子ちゃん?」
「いや、沙子じゃないけど……」
「……なんだ」
そしてまた残念そうな顔に戻る。
ああ、そっか、この人は今、幼馴染がマイブームなんだっけ……。
「あの幼馴染マンガ……『もう一度、恋した。』だっけ? に、パピコを半分こする描写でもあるのか?」
「うん、最新話だよ……。あれは尊かったよ……!」
「そ、そうなんだ……」
なんか、『もう恋』のおかげでゆずの頭をクールダウンできたっぽい。(アイスだけに)
「あー、でも、そっか。たっくんリア充だもんね。アマネさんと食べてきたんだ?」
「あー、いや、それも違うんですけど……」
「ええ……」
ゆずの顔が軽蔑に変わる。
「違うんや、パピコは単に二個入りのアイスなんや」
……などと、超絶どうでもいい一悶着を終えてから、ゆずの作ってくれたクリームシチューを食べて、部屋に戻る。
ドアをそっと、だけどかちゃりと音が鳴るまで確実に閉めて、ふうー……と、深呼吸する。
震える手つきでスマホを操作して、そっと耳にあてた。
呼び出し音が鳴り、おれの心臓の鼓動を煽ってくる。
1回、2回、3回……。
4回目の途中。
綺麗な声が聞こえた。
『え、小沼くん? 本人?』




