第66小節目:まちがいさがし
ふわふわ女に引っ張られて隣の空き教室に入る。
「いや、うち、帰りたいんだけど」
「ねぇねぇさこっしゅ、えりなのことかばってくれたのぉー?」
……無視しやがった。
「……別にあんたをかばったわけじゃない。あの話が本当なら、普通にあんたが悪いでしょ」
「そぉかなぁ? 覚えてもない人にコクられたえりなのほうが怖いよぉ?」
どうやら本気で言ってるらしい。反省の色など微塵も見せずにあざとく首をかしげる。
「いや、だとしても、向こうだって勇気出して言ってるだろうし……。つーか隣の席なんでしょ、覚えてろっつーの」
「だからぁ、それ、さこっしゅに言われたくないんだってぇー」
数日前のセリフが脳裏に浮かぶ。
『えぇ、でも、反対の方の隣の人のこと、えりな知らないよぉ?』
『えりなのことも知らなかったさこっしゅに言われたくはないですぅー』
だとしても。
「……あんたとうちは、違うでしょ」
「何が違うのぉ?」
唇の上に指を置いて聞いてくる。いつものあざとい仕草だ。
「……あんたは、別に、普通にしてたら好かれるじゃん。愛嬌があって、可愛げがあって、せっかく楽しい学校生活が送れるのに、なんでわざわざ自分からそれを壊すようなことをすんの」
「えへへぇ、褒められちゃったぁ……」
ふわふわ女はそのふわふわした頭をくしくしと照れくさそうにいじる。
「褒めてない。まじで」
「じゃぁ、叱ってくれてるんだぁ……」
そう指摘されて『そうか、うちはこいつを叱っていたのか』と気づかされる。うちとしたことが、お節介もいいところだ。
うちに、誰かを叱る権利なんかあるはずないのに。何様のつもりだ。
深入りしすぎている自分に嫌気がさして、とにかく早く話を切り上げることにする。
「……とにかく。別にあんたのことをかばったつもりは本当にないから。うちは、無駄で不用意な言葉が誰かを傷つけて、取り返しのつかないことになってるのを見たくないだけ」
「ふぅーん……」
すると、皮肉でもなく、嫌味でもなく。
「さこっしゅ、優しいんだねぇ?」
純粋に、この女はうちのことを『優しい』と形容するのだ。
鳥肌がたった。
『優しい』と言われたことに、身体が強い拒否感を示す。
……これ以上はまずそうだ。
「……優しくなんか、絶対にないから」
声が震えそうになるのを押さえつけながら、うちは教室を出ようとする。
すると、その手をぎゅうっと掴んで引き止められた。
「待ってよぉ」
「……離して」
「なんでぇ?」
「いいから離して!」
「へぇ、そんな大きい声出すんだねぇ……」
そんなことを言いながらも、彼女は、手を離してはくれない。
「うちは……あんたみたいな人と馴れ合っていい人間じゃない」
「どぉして?」
「うちは、最低な人間だから……」
「なんで、自分のこと最低だなんて言うのぉ……?」
こんなうちのことを、この女は悲しそうな顔で見上げてくる。
違う、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「……うちには、ずっと仲良かった友達がいて。その友達が一生懸命作ったものを、嫉妬で否定しちゃったんだ。それ以来、もう、そいつとは話せなくなって、それで……」
うちにとっての大事件が思ったよりも短い言葉で要約できたことに、なんとなく虚しい気分になる。
「謝れなかったの?」
うちは、こくりとうなずく。
「そっかぁ……それは、苦しいかもしれないねぇ……」
「だからもう、友達なんかいらない、誰かとの関わりなんかいらない。そんな権利が、うちにはない。これ以上、人を傷つけたりしたくない。だから、誰も、うちになんか寄り付かなくていい」
「それが、金髪にした理由ってことぉ……?」
「そう」
元々は、人を遠ざけるために金髪にしたわけじゃない。
ただ、学校の廊下であの女を見つけた時に、うちは自分が同じ髪型をしていることが気持ち悪くなって、とにかく早く違う髪にしたい、と思って帰り道に染め粉を買ったのだ。
染めた直後、鏡に映った自分は、自分でも嗤ってしまうくらい、この鈍い口角が自嘲的に持ち上がってしまうくらいに、相当に滑稽だった。
偽物だ、と思った。まがいものだと思った。
いや、むしろ、それ以下の何かだと思った。
生きているのが恥ずかしい、存在の仕方ない何か。
そのちっとも似合っていない金髪は、罪を犯した自分に押された烙印としては、とんでもなくお似合いだと思った。
そして、翌日に登校した時の周りの反応を見て、理解する。
こんなどうしようもなくて、攻撃的な何かに、誰も話しかけてきやしない。
これなら人を寄せ付けないで済む。
誰とも関わらず、誰も傷つけずに済む。
そう思っていたのに。
「なのになんであんたは、うちに近づいてくるの。構ってくるの。しつこく、いつもいつも……」
その女に取られていない方を手をぎゅっと握り拳にしながら絞り出したうちの言葉に、その女は首をかしげる。
「さぁ、なんとなく、だけど?」
「……はあ?」
あまりの言葉に、語尾が上がる。眉間にしわがよる。
「そんなの理由なんかないよぉ? なんとなく、さこっしゅとお話したいなぁってそれだけ」
「なんで、わざわざ、金髪のうちなんか……」
「あははぁ、金髪にすっごくこだわるねぇー? でもねぇ、さこっしゅ」
金髪にこだわってると言われて少し恥ずかしくなってうつむいたうちに、その女はまっすぐに思いもよらないことを伝えてくる。
「さこっしゅの金髪は、『見つけて欲しい』って言ってるように見えたよ」
「なに、言ってんの……?」
思わず顔を上げる。わなわなと、唇が震える。
そんなの、真逆じゃんか。
「えぇ? そんなに変なことは言ってないよぉ? 普通は、目立ちたいから金髪にするんだもん。もし、本当に嫌われたいだけなら、今みたいにむっすぅーってしてたらそれで十分だよぉ」
そう言いながら、『むっすぅー』ともう一度、しかめっ面をおどけて作って見せた。
「でもねぇ、この間も言ったけど金髪でいてくれたから、さこっしゅに気付くことができたのかもしれないよねぇ。だから、よかったなぁ。気づかなかったら、さこっしゅのこと、こんな風に想ったりできないもんねぇ」
「こんな風にって……?」
うちがまた質問すると、その女は、照れくさそうに笑う。
「えへへぇー。えりな、今はもう、さこっしゅのこと大好きになっちゃったんだよねぇ」
うちは、息を呑む。
もう、言葉もない。
自分が呆れているのか怒っているのか喜んでいるのか、そんなこともわからない。
「ねぇねぇさこっしゅ? さこっしゅの言う通り、その友達にひどいことを言っちゃったのも、謝れなかったのも悪いことかもしれない」
大きな感情を持て余して処理できなくなっているうちに、その女は続ける。
「でもねぇ、それでさこっしゅが、あの、悪口言おうとしてた女の子を止めたり、えりなのことを叱ってくれるんだったらさぁ、」
しっかりと、しっとりと、だけど自信満々に微笑んで言い切る。
「それって、今のさこっしゅは『優しい』ってことだよ」
「うそ、でしょ……? うち、昔からあんなに色々ひどいことをして、あんたにだって、やなこと色々言って……」
「嘘じゃないよぉ! だって、昔さこっしゅがしたミスなんか、えりなには関係ないもん」
その女は、あざとく頬を膨らませる。
「これまで色々あって、それでここにいてくれる今のさこっしゅが、えりなは大好きなの! それだけ!」
その手がきゅっとうちの手を優しく握り直した。
「で、でも。『大好き』とかって、誰にでも言うんでしょ……?」
「そぉんなわけないじゃんかぁー!」
なんだかダサすぎることを自分が言った気がするが、それすら上塗りするように、その女は堂々と否定した。
「えりなの大好きにだってリミットがあるよぉ。だって、『大好き』も、『愛してる』も、本当は苦しいことだもん。心を誰かに預けて、コントロール出来なくなるってことだから。……その人じゃないと埋まらないところを、心の中に作っちゃうってことだから」
「何をいきなり……」
ちょっと深いことを言い始めるんだ、こいつは。
「でも、それでも、」
だけどそんな邪念も吹き飛ばすようにもう一度快活に笑う。
「えりなは、今のさこっしゅが大好きだって言ってるんだよぉ」
こういう女の『大好き』は、信用出来ない。
こういう女はあらゆるものに『大好き』や『可愛い』や『大切』を振りまいていく。
中身なんかすっからかんで、なんの足しにもなりゃしない。
……だけど。
「そっか……」
この人は、うちの後悔も、失敗も、間違いも、そんな裏目に出ている全てをもう一度ひっくり返す。
『金髪でいてくれたから、さこっしゅに気付くことができたのかもしれないよねぇ。だから、よかったなぁ』
遠ざけようとしたのに、金髪を理由に近づいてくる。
『それって、今のさこっしゅは『優しい』ってことだよ』
うちの卑劣な拭えない過去を、優しさの素だと言う。
そして、こんなうちの目の前で。
「えりな、武蔵野国際に入ってよかったなぁー! さこっしゅに会えたもん!」
うちと出会えたことを心から喜んでる。
大して知りもしないくせに、『なんとなく』なんてどうしようもない理由で。
うちのこれまでの人生を、すべて肯定しようとしている。
分かった。
やっぱり、この人は。
「バカ女だ……」
「ばか女ってまた言ったぁ!?」
怒ったようにおどけて笑う。
うちにとっては、その、あざとくも嘘ではない笑顔は、暗い暗い落とし穴の中に差し込んだ、一筋の光に見えた。
「ねぇねぇさこっしゅ、こんなに言われたらさこっしゅもえりなのこと大好きになっちゃうでしょぉ?」
いたずらな微笑みを浮かべてこちらを見上げてくる。答えなんか、分かり切ってるくせに。
こんな女のこと『大好き』だなんて、とんでもない。
そもそも『大好き』も『愛してる』も、あいつにすら一回も言ったことがない、言えたことがない。
強いて言うのなら。
この人は、人生で2人目の友達だ。
「……そんなわけないじゃん」
「あははぁ、だぁーよねぇー!」
大して残念でもなさそうに、バカ女は笑う。
「あ。さこっしゅはどうやって帰るのぉ? えりな、一緒に帰ろっていってもいーっつも拒否られるから、さこっしゅとは違う道で帰ってあげるよぉ」
「……新小金井から」
「ふぅん、じゃぁ、えりなはスクールバスで帰るね、ばいばぁーい!」
彼女はそっと手を離して、一歩踏み出した。
あかりのついていない教室を出て、大きな窓から光の差す廊下に立つ彼女と、動けないまま暗い教室の内側にいる自分。
離れた手。ニコニコと手を振ってから、立ち去ろうとする後ろ姿。
なんでだろう。
行って欲しくない、と、そう思った。
「……英里奈」
うちが小さく口にすると、その女はバッと振り返って、目を見開く。
「さこっしゅ、今……!」
「そ、その……」
そしてそのあと、首を傾げながら笑った。
「……なぁに?」
その笑顔がまぶしくて、まだ怖くて、うちはうつむく。
教室の引き戸のレールが目に入る。
その灰色のラインは、何かの境界線に見えた。
ここを超えてもいいのだろうか。
誰かと関わってもいいのだろうか。
喜んだり、悲しんだりしてもいいのだろうか。
惑って、迷って、動かせない足元。
「さこっしゅ」
その視界にそっと彼女の手が差し伸べられる。
手が震える。
まだ怖い。
……だけど、もしかしたら。
ありったけの勇気を振り絞って、うちはぎゅっとその手を取る。
そして、顔を上げた瞬間。
うちはまた息を大きく呑むことになる。
そこには、光に包まれた、むせ返るほどの色彩の世界が広がっていた。
教室には白いチョークがよく映える深緑の黒板。
廊下の窓の外には鮮やかな緑樹。
その隙間から見えるのは晴れやかな青空。
視界にちらつくのは自分の頭から伸びる輝く金髪。
そして、目の前には。
綺麗なピンクベージュの髪を揺らして笑う、黄海英里奈。
「どぉしたの、さこっしゅ?」
こくりとうなずいて、うちは、やっと。
さっきまで灰色だったはずの、銀色のラインを踏み越える。
何かの洋楽の歌詞に『silver lining 』という言葉があった。……あれは、どういう意味だっただろうか。
まあいいや。今はそれよりもだいじなことを伝えないといけない。
「……一緒に帰ろう、英里奈」
それだけなんとか口に出すと、彼女は天使のように無邪気に、そのあと、悪魔のように意地悪に笑う。
「もちろん! ……ねぇねぇさこっしゅ、もっかい名前呼んでぇ?」
「……うっさい、英里奈」
* * *




