第63小節目:青い空
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『これまでの人生で一番苦しかった一ヶ月は?』
そう訊かれたら、うちは迷わず『高1の4月』と答えるだろう。
理由はたった一つ。
十年来の親友との関係がその直前の3月、自分の失言によって途絶えてしまっていたから。
3月の間はその ”元” 親友と半強制的に会うこともなかったから、『仲違いも気のせいかも知れない』『次に会った時には普通に戻っているかもしれない』なんて今思うと虚しい期待感もわずかにあった。だけど4月、同じ高校に進学して顔をあわせることが出来るようになった時に、2人の決裂はもう決定的なものになっていたのだと、現実を突きつけられた。
しかも、その遠因となった女まで奇跡的に同じ高校に進学してきている始末。
染めた金髪は、そこそこの進学校である武蔵野国際高校において、『威嚇』の効果を持ったらしい。
別に校則で禁止されているわけではないし、2年生や3年生を見たら派手な格好をしている人もそれなりにはいるけど、だとしても入学式とほぼ同時に金髪に染めてくる新入生なんか他にいなかった。
クラスの男子も女子も、誰1人うちに話しかけたりしてこない。
君子危うきに近寄らず、というやつだろう。
そしてうちのクラスにはもう1人。
うちとは逆の方向で、腫れ物に触るように扱われている女がいた。
* * *
* * *
教室には灰色の黒板。
窓の外には灰色の緑樹。
見上げると灰色の青空。
視界にちらつくのは自分の頭から伸びる灰色の金髪。
入学して早々の席替えにて窓際の席をもらったけれど、何の意味もないな、と思う。
時計は12時30分。灰色の白昼のことだ。
義務教育を卒業したにも関わらず、義務感だけでどうにか高校に通い続けて3週間くらいが過ぎた。
その間、うちが発した言葉と言えば、最初の自己紹介で名前だけを小さくつぶやいた時と、廊下であの女を見つけた時に漏れ出てしまった「は……?」の一言の合計2回だけかも知れない。
本当に意味がない世界だと、心から思う。
目に映るすべてのことがどうでもいい。
だから、金髪にしたのは正解だった。
誰にも話しかけられなければ、誰かと関わることもない。
考えるだけでも気が遠くなりそうな、これから続く長い長い約3年間を、うちは金髪のおかげで誰にも関わらず、誰も傷付けずに生き抜くことが出来るのかもしれない。
そんなことを考えたり考えなかったりしながら、味のしないおにぎりを味のしないジャスミン茶で流し込む。
「よぉしっ!」
ふと、右側からそんな独り言が聞こえてくる。追って、シャカシャカと音漏れ。
視界の隅では、パタパタと、チラチラと、何かが動いていて鬱陶しい。
ほぼ同時、教室の入口あたりがにわかにざわつく。
「やっぱり英里奈姫、かわいいな……」「インスタフォロワーたくさんいるんでしょ?」「告白したら付き合えるかな……」「いやあ、あれは観賞用だろ……」
興味があったわけではないけど、ちらつくその動きが自分に危害を加えやしないだろうかと一応確認がてらそちらに視線を向けると、隣の席にはやけに顔の整った女が座っていた。
どうやらダンスの動画か何かを見ながら振り付けを覚えているところらしい。熱心に手をパタパタとさせている。
音漏れで聴こえてくるのはうちもよく知っている曲だった。
「うわあ、波須さん怒ってる……」「やばくない? え、注意した方がいいのかな?」「いや、でもエリナちゃん怒らせると何されるか分からないし……」「でも、波須さんだって……」
今度は教室の中にいる有象無象が何かを言っている。
別に怒ってもない。どうでもいい。なのに、何でうちが怒っていることになってんの。
金髪になると誰かちょっと見てるだけでそんな風に思われるのか、一長一短だな、と心の中でため息をついたその時。
「……ねぇ!」
今の今まで動画を見ていたはずの女が嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「その指、この曲のリズム取ってるでしょぉ!」
「……は」
久しぶりに声を出した。
それよりも、『その指』ってなんだ、と女が指さして来た自分の右手を見ると。
「あ……」
無意識のうちに、音漏れで聴こえてきた曲のベースラインに合わせて右指を動かして机を叩いていたらしい。
それがイライラしている音に聴こえて、クラスの人たちを怯えさせていたってことか。
「ねぇ、絶対そぉだよぉ! 昔ピアノやってたから、そゆこと分かるんだよぉ、すごくない?」
「……うっさい」
そう言い放って、前を向く。いつぶりかで二回も連続で話したものだから、少し声がかすれている。
「えりな、この曲大好きなんだよねぇー」
……話を切り上げたのに、気にもせずその女はうちに話しかけてくる。
そもそも、自分が誰かに話しかけて迷惑だとか、そういうことを考えもしないのだろう。うちとかあいつが一番苦手なタイプだ。
そして、こういう女はいとも簡単に『大好き』と口にする。
こういう女の『大好き』は、信用出来ない。
こういう女はあらゆるものに『大好き』や『可愛い』や『大切』を振りまいていく。
そして、『なんにでもそういうこと言うよね』と突っ込もうものなら、
『え、だって、好きなものが多い方が人生楽しくない?』
などと、クソみたいな正論を突きつけてくる。
そんな理屈を理由に『好き』だなんて言えるものが、そんな風に感情をコントロール出来るものが、本当の『好き』であるはずもないのに。
だって、そんな理由で、『好き』か『好きじゃない』が選べるのなら。
だったら、うちはとっくに『好き』を放棄しているし、こんなに苦しい思いをする必要なんかないはずなんだ。
っつーか、そもそも。
「……えりなって何」
「間が長かったねぇー……? えりなは、えりなだけどぉ……?」
自分の顔を指差したかと思うと、そのままその人差し指を唇の上に置いて、首をかしげる。ああ、そのあざとい仕草の一つ一つに腹が立つ。
「あ、漢字ぃ?」
その女は聞いてもいないのに、自分の名前を示すらしい漢字を空に書き始めた。
「えぇーっとねぇ、英語の『英』に、古里の『里』に、奈良の『奈』! 英が里だから!」
「……『奈』は」
……無視しておけばよかったのに、不足した説明につい一言、深追いしてしまった。
「んんー、なんだろぉね? なんか、『英里奈』って名前はビートルズの曲から取ったってパパは言ってたけど……なぁんだっけなぁ……」
自分の名前のことなのに、うーんと唸り始めた。
「うぅーん、ねぇねぇ、知らないぃー?」
「……」
本当にやめた、これ以上関わるべきじゃない。無視しよう。
机に突っ伏して狸寝入りをしようと体勢を変えようとしたその時。
その女はとんでもないことをいいやがった。
「いやぁ、ビートルズなんか知らないかぁ……。なんか古臭いもんねぇ……」
「おい」
ほぼ反射的にその女を睨んでいた。
「んんー……?」
何も感じないように首をかしげてくる。
「ビートルズが古臭いだなんて二度というなよ、バカ女」
「ばっ、ばか女ぁ!?」
「うっさい黙れ、バカが感染る」
ビートルズをなめるな。
ビートルズがいなかったらお前の大好きだとほざいたさっきの曲もない。
それに。
ビートルズの『1』は、うちが”あいつ”から初めて借りたCDだ。
「も、もぉ話しかけてあげないからぁ!」
「うっさいっつってんだよ」
うちの返答を受けて、バカ女は立ち上がり、教室から出て行く。
一部始終を見ていたらしい別の女子が席に座ったままのうちのところにおずおずとやってきた。
「ねえ、波須さん」
「……なに」
なんだこの人。なんで、うちに関わろうとするんだ。
「エリナちゃんを刺激しないほうがいいかもよ。ほら、エリナちゃん、1人だけネクタイの色3年生と一緒でしょ? エリナちゃん3年生の先輩に彼氏いるらしくて、その人に目つけられると大変だって……」
「は、」
何それ、と続けようとしたけど、その女子の顔を見てやめる。
他のクラスメイトが遠巻きに傍観と無関心を決め込んでいる中、わざわざうちのために助言をしにきてくれたのだ。
別にそんな助言の内容は心底どうでもいいけど、別にうちだって人をこれ以上傷付けたいわけじゃない。
どういう形であっても、誰かと関わりを持ちたいわけじゃない。
「……ごめん、ありがとう」
「……全然!」
安心したようにそう笑って、その女子は下がっていった。
翌朝。
「チッ」
舌打ちをして、扉のあたりに群がる邪魔なやつらをどかして教室に入る。
入学してからここまでの約3週間、1年生から3年生まで、学年も性別も問わず、朝と昼休みはうちのクラスの前には毎日毎日飽きもせず小規模な人だかりが出来ていた。
何を見に来ているのか知らないけど、とにかく迷惑だ。
カバンを机の横にかけて雑に座ると、右側でガタン、と椅子を引く音がして。
「ねぇ」
「……なに」
声のする方には、昨日のバカ女が腕組みをして立っていた。
「ちょっと、ついてきてもらってもいぃ?」




