第61小節目:マドベーゼ
放課後になった。
「たくとくん、またあとでねぇー」
扉にほど近い席に座るおれの横を通る時に、小声で囁きながら英里奈さんが教室を出ていく。
「おう……」
と応じながら、おれは窓際の席に視線を移した。
そして、自分から見たくせに、不意をつかれたようにその光景に見惚れる。
市川がただカバンに教科書をしまっているだけなのに、窓からさしこむ陽光の美しい部分が全部その制服姿にだけ注がれているのではないかと思ってしまうくらい、やわらかくてきれいな光景だ。
……いやいや、そんな前向きな現実逃避をしている場合ではない。
昼休みは結局、新カップリング『えりつば(英里奈さん×平良ちゃん)』の謎の絡みを収束させることに使い切ったため市川とは話せず、5時間目と6時間目の間の休み時間にも別の授業を取っていたため話すことが出来なかったので、市川にはこれからこの放課後のお伺いを立てることになる。
教室から人がどんどんいなくなっていく中、そろりそろりと窓際の席まで進む。
「あのさ、市川……」
「んー? どうしたの?」
市川はにこやかにこちらを見上げておれの表情をみたあと、
「……あ」
何かを察したらしく顔をしかめる。
「……その顔は、女の子と出かける許可を取りにきた顔だね?」
「おお、すごいな……」
いつのまに市川は吾妻のスキルを少し習得したのだろう。見破られてつい感嘆の声が漏れた。
「ううん、感心してる場合じゃないんだけどなあ……。なんかもう、小沼くん頼みに来る時いつもおんなじ表情してるからわかるようになってきちゃったよ。これで何回目かな?」
呆れたように笑う市川。
何回目だろう、とおれも頭の中で指を折る。……数えないといけない時点で結構な数だということはわかった。
「まあいいや……。それで、具体的には?」
市川が先を促す。
「いや実は最近、沙子が夜あんまり眠れてないらしくて」
「え、そうなの? 全然気付かなかった……」
ここ数日、長い時間一緒にいただけに、気づけなかったことに少なからずショックを受けたのだろう。市川が口に指をあてる。
「まあ、おれにも分からなかったくらいだから……」
「その注釈が自然と出てくるのもなんか釈然としないけど……」
少し口を尖らせる市川を無視して話を進める。
「……それで、その原因が、英里奈さんとの仲直りがちゃんとは出来てないかららしいんだ」
「そうなんだあ……。部活一緒だけど、話したりできなかったのかな?」
「なんか、話そうとしても英里奈さんがササっと帰っちゃうらしくて。沙子も、避けられてるのに追いかけるのもどうかなって思ってたんだと。なんだけど、こないだ市川の家に泊まった帰り、火曜日……まあ、今日だな、なんとしてでも話すって決意してて」
「なるほど……。で、それが小沼くんが私に女の子とデートをする許可をとることにどうつながるの?」
嫌味で言ってるわけではなく、ただただ疑問だという顔で首をかしげた。
「デートとは言ってないけど……。おれ、たまたまなんだけど今日の昼休みに英里奈さんに『放課後、部活のあと、一緒にマック行こう』って誘われたんだよ」
「またマック……むー……」
「だ、だから。その待ち合わせ場所に沙子も呼んで、2人を鉢合わせさせようかな、という作戦なんだけど……」
ふむふむなるほど、と腕組みをして市川が頷く。
「たしかに、それはすっごくわかりやすい作戦だね? ……でもそれなら本来、小沼くんは待ち合わせ場所だけ伝えて帰っちゃってもいいんじゃないのかな?」
「いや、まあ、そうなんだけど……」
首を傾げる市川におれは頬をかく。
「どうして、そうしないの?」
そんなことを訊きながらも、その答えも、その理由も、なんとなく察しがついているのだろう。期待するように、試すように、そしてどこか嬉しそうに、市川はおれの顔を覗き込む。
「そこにおれが本当にいなかったら英里奈さんとの約束が嘘になっちゃうから……。だから、あくまでもおれよりも先に沙子が通りかかったって、そういうことにしたい」
「……そっかあ」
柔らかい声音で相槌が返ってくる。
市川も理解をしたらしい。おれが嘘をつかないことにこだわる理由は、他でもない。
「ほら、市川……嘘、嫌いだろ?」
「……そうなあ」
市川は誰かの口癖を真似てから、ふふ、と笑ってみせる。
「……ま、『小沼くんが他の女の子と会う』のと『小沼くんが嘘をつく』のと、どっちの方が嫌ですか? って言われたら微妙なところだけどね?」
「え、そうなの?」
嘘をつく方が全然嫌かと思ってたのに……。
「なんちゃって、ね。うそうそ。小沼くんが正直者で嬉しい」
えへへ、と柔らかく微笑む。ていうか今、当の市川が『うそうそ』って言っちゃってる気がしたけど……。
「……それにね、それが私のためだってことが、もっと嬉しい」
心の中でつっこんでいたが、そう言って浮かべた笑顔におれは心を奪われてしまい、一瞬、声が出なくなる。
「もし沙子さんと英里奈ちゃんがうまくいかなかったら、小沼くんがフォローに入らないといけないだろうしね?」
突然示された重めの使命に我に返り、頭をかいた。
「いや、出来るかなあ、そんなこと……」
「ううん、大丈夫。上手く出来なくてもいいんだよ。そんなこと出来なくたって、」
市川は微笑みながらおれの指をきゅっとつかむ。
「小沼くんがそこにいるだけで救われる人がいるんだから」
「お、おお……」
「頑張ってね、小沼くん」
「おう……!」
そこまで合意できたので、おれはスマホを取り出してLINEを開く。
小沼拓人『部活の後、英里奈さんと2人でマックに行くことになった。部活が終わったらスクールバスのバス停に集合することになってる』
波須沙子『わかった。じゃあ、うちは、たまたまそこを通りかかるね』
「んん、阿吽の呼吸だね……?」
「……あんまりナチュラルに人のスマホを覗き込まないでくれます?」




