第43小節目:真夜中のプール
エレベーターホールには有賀さんが立っていて、
「いらっしゃい! 大丈夫でした? ここまで大変だったでしょう?」
と、おおよそ先ほどまで魔王と言われていた人とは思えないほどの優しさで迎え入れてくれる。別に魔王じゃないからそりゃそうか。
吾妻もさすがに罪悪感を感じたのか、
「あ、はい……すみません……」
と頭を下げる。
「すみません……?」
と首をかしげながらも、有賀さんは「こちらです」と先導してくれる。
何度か曲がり、大きな自動ドアを、有賀さんがカードキーをかざして開くと。
「「わあ……!」」
そこにはおしゃれなカフェのような空間が広がっていた。
木目調の机が並び、中央には飲み物を提供してそうなカウンターがある。テレビで特集していたTSUTAYAのおしゃれバージョン店舗みたいな内観だ。
壁は三面がガラス張りになっており、そこからは夜の都心が一望できた。
「社内にレストランがあるんですか……?」
「レストランっていうか、社員食堂ですね」
「「しょ、しょくどう……!?」」
おれと吾妻はさらにあわあわする。
食堂と言われたらもちろんおれの頭には武蔵野国際の食堂しか浮かばないわけで。
いやまあ、あっちも同じく三面ガラス張りではあるなのだが、そのおしゃれさは月とスッポンだ。
「すごすぎますね……!」
大きな瞳を輝かせるおれたちに、有賀さんは満足げにうなずく。
「誰を連れて来ても最初はこれに驚いてもらえるんですよね。あー、天音さんを除いて……」
「え、そうなんですか?」
「そう、天音さんだけはそんなにいい反応してくれなかったんですよ。あれ、分かってないのかな? って思ってこっちから『こちら、食堂です!』って言ったら、にこって笑って、『はい、キッチンがあるのでそうかなって思ってました』とか言ってて。なんかこっちが恥ずかしかったなあ、あの時」
「うわあ、可愛くないな……」「逆にめっちゃ可愛いな……」
おっと、吾妻さんと宗派が分かれましたね。(どっちがどっちでしょう?)
有賀さんは歩きながら窓際のソファ席に案内してくれる。
おれは窓の外を指差して有賀さんに聞いてみた。
「あれ、東京タワーですか?」
「ちょっと、それは聞かなくてもわかるでしょうが……! 恥ずかしいからやめて? ……あの、あれって六本木ヒルズですか?」
「あはは、どっちも合ってるよ。別に私がここに建てたわけじゃないけど、そういう反応もらえると案内しがいがあるね。……えっと、コーヒー、紅茶、どっちがいい? オレンジジュースとかもあるけど」
「こ、コーヒーをお願いします!」「お、オレンジジュースください!」
「はいはーい」
有賀さんがさっきのカウンターの方へ向かい、2人で取り残される。
「ねえねえ、すごいところだね、魔王城……!」
窓の外を見ながら大きな瞳を輝かせている。
「なんていうか、吾妻ってたまに無邪気だよな。普段、姉御キャラなのに」
「はあ、姉御キャラって何? それで心の中とかであたしのことねえさん呼ばわりしてんの?」
ジト目で見られた。心中で吾妻ねえさんと呼んでいることがバレていたのか……。
「あたし、お兄ちゃんしかいないから妹だよ妹。どう? 妹キャラ。萌える?」
「いやあ、リアル妹いるからなあ……」
「そうだった」
そんなどうでもいい話をしていると、有賀さんがトレイの上にコーヒーとオレンジジュースとカフェオレを載せてきてくれたので、お礼を言いながら受け取る。
「はい、それでは改めまして、名刺お渡ししますね」
「は、はいっ!」
有賀さんが名刺を差し出したので、受け取り方も分からないまま、なんとなく丁寧にもらった。
* * *
株式会社 バディ・ミュージック
マネージャー
有賀紗代
* * *
人生で初めて名刺というものをもらってしまった……と、しげしげと眺めた後に、
「あ、すみません。おれ、名刺とかは持ってなくて……」
と頭を下げる。
「大丈夫、分かってるよ。あ、でも名前の漢字を知りたいから、ここに書いてもらえる?」
そう言って、有賀さんは手帳とペンを差し出した。それにしても、名刺やら手帳やら財布やらどこに入ってるんだろうか……?
おれが渡されたペンで『小沼拓人』と書くと、その横に吾妻が『吾妻由莉』と書く。(当たり前)
ていうか……。
「吾妻って、字、綺麗だな」
「んな!? 何をいきなり……!」
つい思ったことを口に出すと、吾妻がこちらを向いて頬を染める。
「2人ともありがとう。名前を横に並べて書くと、なんか、婚姻届みたいね」
「んな!?」
次は有賀さんの発言に過剰に反応する。吾妻、忙しそうだな……。
「『アズマ』ってこういう字なんだね……。私の後輩にもこの字で吾妻君っていたなあ」
「え!? たしか有賀さんって武蔵野国際ですよね……!? もしかして、吾妻莉久ですか?」
その名前を聞いた瞬間、有賀さんが大きく目を見開く。
「……そう!! あれ、兄妹!?」
「はい、そうです!」
「ってことはあの時の、吾妻君の妹さん!? 小さいころ、学園祭に来たことあるでしょう? 器楽部の演奏を観に」
「はい、まあ……多分……?」
吾妻のお兄さんが何歳かは知らないし有賀さんの年齢も分からないが、少なくとも3年前には社会人だった有賀さんが現役の時ということは、吾妻もおれも小学校に入ったかどうかくらいの時期だろう。小さくて覚えていないのかもしれない。
「その時に一回会ってるんだよ! すごい偶然!」
「そうなんですか!?」
「さすがに覚えてないかあ。私たち、隣で一緒に器楽部の演奏観たんだよ。そっか、たしかにゆりちゃんて名前だった気もする……。ずーっと『おにいちゃんカッコいい!』ってそればかり言って、そりゃあもう可愛かったんだから……」
「お、覚えてません!」
吾妻が赤面するが、有賀さんはにんまり笑顔だ。
「そっかそっか。あの時の子が……大きくなったんだね。なんだか変だなあ。つい最近、小さい頃のあなたに会ったばかりみたいな気がするのに。もう、10年経ってるんだもんね……」
「すごいですね……! じゃあ、おにいちゃんに連絡してみます!」
あまりの偶然に吾妻が興奮して大人の前でおにいちゃん呼びしちゃうくらい、前のめりになっていると、有賀さんの方はスッとバツが悪そうな表情に変わる。
「ああー……まあ、あんまり芳しい反応はないかもしれないけど……」
「え? おにい……兄と、何かあったんですか?」
「さあ、どうでしょうね……?」
目を合わせようとしない有賀さんに吾妻の髪の毛がひと束、ピーンと逆立った(ように見えた)。
「あれれ、青春ロマンスの匂いがしますね……!?」
「「青春ロマンス……」」
もはや古めかしいのかもよく分からない単語に反応した後、有賀さんはこほん、と咳払いをする。
「……それで? 相談があるんでしょう? amaneの今後のこと、でしたっけ?」
話題をそらされたのか戻されたのか、とにかく本題に入った。
「は、はい……!」
おれが緊張を取り戻して答えると、吾妻の方も、一転して真剣な顔になった。
「あの、最初になのですが……」
「ん?」
言うことを決めて来ていたのだろうか。吾妻は、すぅー……っと大きく息を吸う。
「有賀さん、amaneをバンドとしてデビューさせていただけませんか?」
「あ、吾妻……!?」
のっけから何を言い出すんだよ、と、おれが焦る向かい側で、
「……ほう?」
と、有賀さんはついに魔王のように目を赤く光らせた。




