第9小節目:大切な人
「拓人さ」
スタジオでの練習を終えて一夏町駅へ向かう電車の中、沙子がそっと口を開いた。
「ん?」
「あの、舞花さんって人のこと、どう思ってるの」
「どう思ってるってなんだよ……?」
突然の質問に戸惑いつつも、それがさっきの受付での不機嫌の理由か、と悟った。でもなんなんだ、この金髪から醸し出されている糾弾ムードは……?
「いいから答えて」
真剣な顔に、一応少しだけ考えてみるものの。
「いや、どうも何もねえよ。今日初めて話した人のことだろ? なんなら今日もほとんど話してないし。『どうも』って言っただけだ。沙子と会話の数一緒だよ」
「ふーん……」
形のいい猫目がおれの表情のさらに奥を覗き込んでくる。
「なにが言いたいんだよ……?」
居心地が悪く、目を逸らしながら真意を聞くと、沙子はコクリとうなずく。
「自覚ないかも知んないけど、拓人、後夜祭の時もそうだし今日もそうだし、あの人を見てる時、『あの時』と同じ顔してる」
「あの時って?」
沙子は、少し息を吐いて、言った。
「amaneのCDを初めてうちに貸してきた時」
「はあ……」
なるほど。沙子の言いたいことが少しだけわかってきた。
「つまり、おれが市川に持ってるみたいな気持ちを神野さんにも持ってるんじゃないかってことを心配してんのか?」
「そうだけど、ちょっと違う」
すると、沙子が小さく首を振る。
「どっちかっていうと、そこで『市川』って言うところが危ないって話をしてる」
「何だそれ?」
わけがわからず、眉間にしわを寄せた。
「んん……。うち、あんまり難しいことを口にするの得意じゃないんだけど」
「知ってるけど、沙子が話し始めたんだろ……?」
「知ってるならいい」
そう言って0.数ミリだけ口角をあげ、沙子は説明をはじめてくれる。
「つまり。んん……、拓人はamaneに憧れて、その感情がいつの間にか市川さんへの今の感情になってた、じゃん。その境界線のことって覚えてないでしょ」
「まあ……そうだな」
たしかに、感情が変わった瞬間が明確にあったわけではない。
「だから、有賀さんて人にはああいったけど、拓人自身、本当は『市川天音』と『amane』の区別がどれくらいついてるのか怪しいかもとか、そんな感じ」
曖昧な語尾に思えるが、これは沙子なりの誠意だ。
沙子は決して饒舌な方ではない。考えていることはきっと色々あるのだが、それを表現することについて、自信がなく、言い切るよりもおれに考えさせることで答えに導こうとしている。
「んー、あの時、有賀さんに言ったことは嘘じゃないんだけどなあ」
「そんなの、わかってるよ」
「そうかあ……」
おれは沙子から与えられた課題を、自分で整理する。
つまり、だ。
有賀さんには、amaneに対する感情は「憧れ」で、市川天音に対する感情は「恋」であるという説明をした。
だけど分かっていない部分があるでしょ、ということを沙子は言っている。たしかにそうだ。
その2つの感情(「憧れ」と「恋」)が存在しているということはたしかだが、それが共存しているまったく別個の感情なのか、一つの繋がった感情を別の側面からそう呼んでいるだけのことなのか、ということがおれにも分かっていない。
というか今おれが何を言ってるかもよく分からないんですけど。吾妻ねえさん助けてえ……。
とはいえ、だ。それでも分かっていることが一つある。
「ゆくゆくはおれが神野さんに、って話をしてるんだったら、それはねえよ。おれは、別に節操なしではない」
「それも分かってる。もうちょっと節操なかったら、うちも動きを変えるのに」
「おい……」
不穏な物言いをおれは曖昧に諫めようとすると沙子はそれを打ち切るように、さっぱりとした声をあげた。
「別に、なんでもいいんだけど、市川さんと別れてあんなぽっと出の先輩に恋するとかまじでやめてね。本当は市川さんだって、うちからしたらぽっと出なんだから」
「ぽっと出って……」
答えづらくなった話題になってしまい、ふと無言が降りてくる。
なんだかいたたまれなくなり、
「あのさ、おれが聞いていけないことだったら無視して欲しいんだけど、こないだのってどんな話だったんだ?」
と話を変えてみる。
「こないだのって何」
「間との話」
「ああ……」
沙子は逡巡するそぶりを見せてから、
「まあ、一番は市川さんに聞かせたくなかった話だから……拓人ならいいけど」
おれの目をまっすぐ見てくる。
「でも、本当に聞きたいの」
質問をしてきた。
「んん、まあ……」
その瞳に頷きを返した。
「ふーん、じゃ、いいけど」
沙子はふうーと長い息を吐いてから、一口に告げる。
「あのね、『うちは健次と付き合う気はない』って、改めて伝えたんだよ」
「まじ、か……」
それは想像以上に硬度を持った話だった。
「うん。『だから、英里奈のこと、ちゃんと考えて』って」
沙子はそれで良かったのか? と疑問がよぎるが、そんなことおれが質問できるはずもない。
それでもこの幼馴染はなんとなく察したのだろう。
「うちも、そんなに簡単に切り替えられるわけでもないからね」
と続ける。
ここにきて、先ほどの『本当に聞きたいの』という質問の意図が、強く身に染みていた。こうなることまで、沙子にはよく分かっていたんだ。
「つっても別に、当たり前だけど、今さら拓人とどうこうなろうとかってことじゃなくて」
それでも沙子は話を続け、それでも、口角を0.数ミリ上げた。
「拓人のこと好きだった自分のことを、今はまだ大切にしてあげたい」
「そう、か」
ここで『ありがとう』も『ごめん』も言えず、だからといって他にふさわしい言葉も浮かばないが、せめて、その力強いセリフを受け止めることだけはしようと思った。これが正しいのかも、よく分からないけれど。
「それを市川に伝えたくないってのは、どうしてだ?」
おれに言う方がよっぽど大変だと思うんだけど。
すると、
「あの人は、天才のくせに結構気を遣うから」
と言った。
「amaneは、うちにとってすごく大切な場所だから」
沙子は口を引き結んでから、そっと告げる。
「もう、大切な場所は壊したくないんだよ」




