第71小節目:夜を越えて
「あれ、アイスちゃんじゃない?」
その声がしただけで。
吾妻の足が、凍りついたように動かなくなる。本当に寒くなったかのようにその身体を震わせ始める。
声のした方に目をやると、そこには、ピンクのYシャツを着たストレートボブの黒髪女子とパーマがかった茶髪のポニーテールの女子が、吾妻の表情にも気づかず、気づかいもなく、こちらに近づいてきていた。
「ほらやっぱり、アイスちゃんじゃん!」
「ホントだ! え、アイスちゃん、今、武蔵野国際なの!? 受験していなくなった子がいるって聞いてたけど、あれ、アイスちゃんだったんだー!」
おれがそちらに向きなおると、意識せずとも、自然と、おれの背中に吾妻が隠れる形になった。
「ひ、ひさし、ぶり……前島さんと、大田、さん……」
吾妻はおれの後ろから伏し目がちに、たどたどしく、そうなんとか絞り出した。
……いや、もしかしたらきっと、もともとはそういう喋り方だったのだろう。
『あたし、小沼の言ってること、分かるよ。だって、あたし、中学の頃、ぼっちだったから』
高校に入ってからか、その前の春休みかに、一生懸命、リア充になろうと、青春を謳歌しようと努力を重ねただけで、吾妻は、中学時代はきっと、そうだったんだ。
「あっはは、相変わらず声ちっさ!」
「でもなんか、見た目はアカ抜けたくない? 高校デビュー?」
別に、この前島さんと大田さんとやらも吾妻を傷つける意図があるわけじゃないのだろう。
ただ、この人たちは知らないだけなんだ。
『そっち側』のやつの発言や立ち居振る舞いの一つ一つが『こっち側』にどれだけのプレッシャーを与えるかということを。
『そっち側』同士なら冗談になることが、『こっち側』にとっては冗談で済ませられない傷として残るということを。
「……す、すまん、吾妻はちょっと具合悪いみたいだから、また今度」
なんとか、そう伝える。
吾妻にとっては、おれなんかじゃなくて、間みたいなやつがここにいた方が、この場合、ずっとよかっただろう。でも、一番側にいるのがおれなんだ、すまん。……本当に、すまん。
心の中で謝りながら、おれは吾妻の腕を引いて、立ち去ろうとした。
だが、その足は動かないままだ。
目を合わせると、吾妻は申し訳なさそうに、小さく、首を振る。
「ごめん、ダメ元なんだけど、アイスちゃん、あの、ケンジくんとか、あのお人形さんみたいな、司会やってた女の子と友達だったり、しないよね?」
「アタシはあの、金髪のクールビューティーな女の子と話してみたいんだけど……」
動かないことを話す意思があるというサインととったのか、拝むように話しかけてくる2人に、吾妻は困ったような微笑みをなんとか作った。
するとその時、
「ゆりすけ、具合悪いの。大丈夫」
人だかりをかき分けて、沙子がすっと出て来た。
どっちが前島さんでどっちが大田さんだかは知らんが、2人がワァっと、沙子の登場に色めき立つ。
「わー! ダンス、めっちゃくちゃかっこよかったですっ!」
「近くで見るとほんとすらっとしてるし美脚や……」
「ああ、うん……どうも……」
突然知らない人に褒めちぎられて沙子が戸惑いの表情を見せる。
「どしたのどしたのぉー?」「波須、いきなり動くなよ」
人だかりは落ち着いたのだろうか、英里奈さんと間も加わって、いよいよ前島さんと大田さんのテンションがマックスになる。
「わああー! 司会もダンスもめっちゃ可愛かったですぅー!」「健次クン、握手してください!!」
英里奈さんと間は「えっへへぇー」とか「え? ああ、はい、いいっスよ!」とかやっている。
「えっと、ゆりすけ、この人たちは……」
沙子がいまだにカチカチの微笑を浮かべている吾妻に質問すると、割り込むように、
「アタシたちは、えっと、ユリスケちゃんの中学の時の友達です!」
とポニーテールの方が答えた。
「あ、そうなんだ。よろしく……」
沙子はその勢いに圧倒されたまま、あくまでクールにうなずく。
「へぇーそぉなんだぁー! ゆりとは何友達なの?」
英里奈さんが嬉しそうに尋ねた。
「ええーっと、ユリスケちゃんとはクラスが一緒でえー。あれ、1年の時だっけ? 2年の時だっけ? えっと、ユリスケちゃん?」
「……1年も、2年、も、だよ」
された質問に、吾妻が答える。
「小沼くん? 由莉?」
「ううー何してるんですかー早く行きましょうよー……」
そうこうしている間に、少し先に行っていた市川と平良ちゃんが戻って来た。平良ちゃんは小動物らしく、市川の後ろに隠れている。
「うわっ、めっちゃ可愛い子がもう2人も……! 何、この高校、通いたい……!」
ポニーテールさんは興奮しっぱなしだ。
「あっ、そーだ! アタシ、多分、みなさんも知らないよーなユリスケちゃんの秘密知ってるんですよー!」
すると、ストレートボブが思いついたとばかり、手を叩く。
嫌な予感がする。
「えぇー、なになにぃー?」
英里奈さんが尋ねると、ストレートボブは英里奈さんに話しかけられたことが嬉しかったらしく、さらに調子付いて話し始めた。
「あれはたしか2年の時のことなんですけどー、授業終わって休み時間になってもノートに一心不乱にバァーって、なんか書いててー。何、書いてたと思いますー?」
「いや、おい、それって……」
おれが中断させようとする声なんか、もはや聞こえていないらしい。
吾妻の毛が逆立ち、また血の気が失われていく。
その瞬間、あらかた察したのだろう、市川が吾妻を後ろからそっと抱きとめた。
「ポエム書いてたんです! 中身読んでないけど、アタシ鳥肌ゾワワーってして!」
くそ、やっぱり……。
おれたちの失望や絶望を無視して、ストレートボブは続ける。
「もう時効だよねー? アイスちゃんの黒歴史! 今はもう書いてないだろうけど……」
「おい」
その時。
低い声で、静かに言い放つ声がした。
まばたきをすると、1秒前までとは一転して、顔面蒼白になったストレートボブと。
その胸ぐらを掴んで睨む沙子の姿がそこにあった。
「さこっしゅ……!?」
「訂正しろよ」
「は、はい……?」
ストレートボブはさっきまでかっこいいかっこいいと誉めそやしていた金髪女子に睨まれて、頬を引きつらせている。
「今すぐ、ゆりすけの歌詞を嘲笑ったことを訂正しろ」
その声は、静かに、だけど、いつもの無表情ではない、明確な怒気をはらんでいて。
「……!」
「百歩譲って、出来上がったものに何か口を出しただけなら見逃してやる。でも、」
そのただでさえ鋭い眼光を焦点を合わせるように細める。
「作ってること自体を、作ったこともねえやつがバカにしてんじゃねえよ」
「波須先輩……!」
平良ちゃんが息を呑む声がした。
「今すぐ、訂正して、謝れよ」
そう言うと、沙子は、少しだけうつむく。
「じゃないと……取り返しのつかないことに、なるから」
沙子の怒りが届いたのだろうか。
「ごめん、なさい……」
窮屈そうな喉から絞り出されたその言葉と共に、沙子は胸ぐらを放す。
「その腐った言葉で、二度とうちの大事なゆりすけを傷付けんなよ」
「さこはす……!」
市川に後ろから抱きすくめられたまま、吾妻は大きな瞳を震わせた。
「……ねえねえ、ゆり、歌詞書くって本当ぉ?」
そんな吾妻に、英里奈さんが、そっと問いかける。
いや、なんで今それをわざわざ訊く……?
「……うん、そう、なんだ」
答えづらそうに、それでもなんとか吾妻が答えると。
英里奈さんは満面の笑顔で、
「ほぇー、ゆりは、本当に、なぁーんでもできるんだねぇー! 可愛いし、スタイル良いし、ベースも上手だし、歌詞もかけるし、性格最高だし、もう一回、すぅーっごく可愛いし! ねぇー?」
これ見よがしに感心してみせた。
「英里奈……!」
その後ろで間も痛快そうに笑っている。
その笑顔を受けて、吾妻は軽く、深呼吸をする。
「……天音、ありがと」
「……うん」
そう言って、市川の腕を優しくほどくと、一歩、そしてもう一歩だけ、前島さんと大田さんの方に近づいた。
「前島さん、大田さん、あのね」
そしてまだ伏し目がちだが、ゆっくりと、口を開く。
二人は、呆然と、唖然と、かつてぼっちだったはずのクラスメイトの顔を眺めていた。
「あたし、ずっと、二人に憧れてたんだ。二人みたいになりたかった。二人みたいに、可愛くて、キラキラしてて、教室の中心にいるようなそんな青春を送りたかった」
話しているうちに、だんだん余裕を取り戻してきたのだろう。
徐々におれの知る、いつもの吾妻に、戻っていく。
「あたし、中学の時には一人もいなかった友達が、今は、こんなにいるんだ。二人が羨むくらいの最高の友達と、二人が羨むくらいの青春を、あたしは過ごせてるんだ」
そう言って少し顔をあげた吾妻の後ろには。
腰に手をあてて不敵な笑みを浮かべた英里奈さんが、眉間にしわを寄せてじっと二人を見る間が、腕組みして眼光を鋭くしている沙子が、ちょっと怯えながらもなんとか毅然としようと真顔を作る平良ちゃんが、そして、自分のバンドの作詞家を信頼しきった表情で優しく笑う市川が、並んで立っていた。
「……二人が、いたからだと、本当に思ってるよ」
吾妻はうなずきも返すことの出来ない二人に語りかけ続ける。
「二人になりたくて、あたしはやっとここまで辿りついたんだ」
そしていよいよ、はっきり正面まで顔をあげて。
かつての憧れだった二人を見据えて、にっこり笑う。
「だから、ありがとう、ね!」
吾妻のその、リア充の鑑みたいな笑顔がなんだかすごく様になっていて、おれはついつい見とれてしまう。
初めて吾妻に会ったあの時と同じように。




