第56小節目:Learn To Fly
「それで、逃げてきたの」
「はい……」
吉祥寺のスタジオにて腕を組んで立つ沙子と、椅子に座って不甲斐なさそうにしている市川。
学校のスタジオの前に、徳川さんという、以前市川に告白したらしい人物を見つけたおれたちは、結局、回れ右をして自分たちの教室へと引き返したのである。
ちなみに、徳川という名前から、なかなか恰幅のいい将軍的な人が想像されるが、もう少し痩せた、でもガリガリではない、いい感じのイケメンであった。イケメンっていうか男前って言った方が正しいような。
「別に、スティックは消耗品だし予備も沢山あるからいいんだけど、あくまで今日しかしのげないっていうか、これから一年半、卒業まであんな風に避けつづけるのは普通に無理だろ」
おれも、ドラムイスからため息混じりに言葉を投げる。
「はい、ですよね……。ていうか、私、いま、あの小沼くんに人間関係のことで怒られてる……?」
別に怒ってないけど。ていうか、その発言失礼じゃない? 怒るよ?
……いや、怒らないけど。なんていうか、モヤモヤすんだよな。なんでだ?
「あの人は、良い人でしょ」
沙子が謎に断定する。
「沙子、なんで知ってんの? あの先輩と話したのか?」
「いや、あの人うちのクラスに入ってきたんだよね。去年4組だったらしくて、そのまま4組で、みたいな」
「ほーん、そうなんだ」
ていうか、それで市川は4組の前を通るのを避けてスタジオに行きたがったってことか。色々つながった。
「うん、そんで席がうちの隣になったから、ちょっと話した。ロック部員だっていうから、うちもロック部員ですって言ったら、誰とバンド組んでるのって訊かれて。市川さんと、多分知らないけど小沼拓人ってやつですって言ったら、『天音さんは、バンドが組めるようになったんだね』って心から喜んでる感じだったよ」
へえ。沙子は、結構体育会系だから意外と先輩には敬語が使えるんだよな。あと、『多分知らないけど』は余計だからね。多分知らないけど。
「そんで、そこで、あーこの人そういえば市川さんが合宿の夜に自慢げに話してた人だって思い出した」
「自慢げになんて話してないよ!」
多分市川にとっては大事なところだったんだろう、わたわたとしながらも、強めに否定した。
「うん、分かってる」
で、分かってるってなんだよ。沙子さんが先に言ったんだよ。
「まあとりあえず、うち的にも良い人だと思ったよ。ちなみに、うちが良い人だと思うのは多分、結構珍しい」
「そうなの?」
市川がなぜかおれの方を向いて質問してくる。
「んー、まあ、そうだな。沙子は別に人のこと嫌いになったりもそんなにしないけど、良い人だって認めるのは、他にあんま聞いたことないな」
「そうなんだ……んんー……」
市川が頭を抱える。
「あと、洋楽の話で盛り上がった」
「へえー……」
いやまあ、沙子が『盛り上がった』っていう感じをどれくらい先方が感じていたかは不明ですが……。
「うーん、良い人だってことは、私にも分かる気がするんだ。ちょっとあの去年の合宿以来会ってないから気まずいってくらいで……」
去年の合宿以来? ああ、そうか、海外の学校は9月始まりだって言うから、去年の合宿だけ参加して向こうに行ったって感じなのか。
市川が告白OKしたとして、どちらにせよ遠距離恋愛だったんじゃん。
「もう一年経ってるんだから、しかも海外に一年も居たんだから、向こうだってもうなんとも思ってないでしょ」
「……そうだよね?」
市川が期待をわずかにもった目で顔を上げる。
「うん、普通に。自意識過剰だよ、市川さん」
「……そうだよねー」
そんで自意識過剰って言われて若干不機嫌になる市川。
「でも、たしかに、沙子の言う通りかもな。1年間も話せてなかったら、気持ちって薄らぐもんなんじゃねえの。知らんけど」
おれがうんうん、と、沙子に同意すると、
「……いや、うちが間違ってたかも」
沙子が低い声で否定してくる。……なんぞ?
「1年間も話せなかったら、話せなかった分、そのことばっかり考えて、気持ちが大きくなってる可能性が高い。いや、むしろ絶対そう、確信がある」
そう言っておれをキッとにらんだ。なんぞ?
「沙子さん、不安になるようなこと言わないでよー……」
市川が困り果てている。
「ていうか、なんで市川さんはそんなにあの人と話すのがいやなの」
沙子が市川に質問している(多分)。
「……私は、告白してもらった時、何にもわからないまま、ひどいこと言っちゃったから」
「ひどいこと?」
告白を断るそのセリフの話だろうか。
「えーっとね……『ごめんなさい、私は、人間不信なんです。それで、バンドも誰とも組むことができていません。あなたのことも、私は、信じきることが出来ません』って……ああ、ほんとに……」
「「うわー……」」
おれと沙子がハモる。
普通に『今はお付き合いできません』とかでよくない? 闇落ちしていた時期の市川さん、そんなに怖かったっけ?
「私は、その時はまだ恋とかもしたことなかったし、どんな覚悟でとか、どんな気持ちでとか、そういうこと全然分かってなくて……ただ事実をお伝えしなきゃと思った結果で……」
市川が穴があったら入りたいと言うような感じで両手で顔を覆う。
ん? ていうか今、なんか気になる言い回しがあったような気がするけど……。
「でも、それなら、それこそ、」
おれの思考が深みにハマる前に、沙子が諭すようにつぶやく。
「逃げずに、真正面から、受け止めなきゃ」
そう、市川の真正面からまっすぐに見据えて伝える。
「大事な気持ちなんでしょ?」
そんな風に、語尾をあげて。
「……うん、そうだよね」
市川が、しっかりとうなずいた。
「なんにせよ、ちゃんとお話してみる。うん、そうするべきだ」
何度も、確かめるように。
「……ま、向こうがもうなんとも思ってなかったらマジ恥ずかしいけど」
「それはそうだよねー!」
沙子がいらんことをいい、市川の決心が揺らぎそうになる。
「頑張れー」「大丈夫大丈夫ー」
そんな市川を、おれと沙子は棒読みで応援する。
『「頑張れ」も「大丈夫」も無責任で 言えることは少ないけど』
「ちょっと、ふたりとも無責任に言ってるでしょー!?」
『少なくとも1人 ここに味方がいることだけ 忘れないでくれたらいいな』
あはは、と珍しく沙子が声を出して笑って、
「どんな恥かいたってもさ、」
ニヤッと口角をわずかにあげて、宣言した。
「少なくとも2人、ここに味方がいるから」
……おれもそういられるだろうか。
わずかにかげる心に、作り笑顔でフタをした。




