星空の瓶と天の川の君
今日の空も曇っている。最近はずっとこうだ。ぼんやりした色の空を見上げて、ぼくはため息をついた。
これでは今年の七夕は、織姫と彦星は会うのに苦労しただろう。確か雨で流されてしまう橋の代わりに、カササギたちを渡るのだったか。
星空が好きだ。
その美しさはもちろん、昔の人たちがそこに見た星座から物語を編み出したというのも興味深い。
例えばイラストにしても、ポップな形の星が散っていたり、写実的だったり幻想的だったりと、表現に違いがあるのが良い。
雨だから仕方がないのだ。降りだした午後の雨に、ぼくは傘を差した。雑踏の中では、カラフルな傘の花が咲いている。そこに混じってしまえば、ぼくもその他大勢に含まれる。
――はずだった。
「ねえねえ、キミ」
誰かが、ぼくの服の裾を引っ張った。
「え、ぼく?」
「そうだよ。ソコのキミだよ」
振り返った先にいたのは、まだ十代半ばだろう少女だ。白いブラウスに桜色の半袖パーカーを羽織り、珈琲色のキュロット姿は、今が夏だということも相まって活動的な印象を受ける。
「この後ヒマ?」
「……ナンパ?」
「まさか、違うよ。あのね、ぜひキミみたいな人に手伝ってもらいたいことがあるんだ」
来て来て、と手を引かれる。
今日は学校も休日、確かに予定は何も入っていない。もし晴れるなら、この先の展望台にでも行こうかと思っていたが、それも無駄足になりそうだった。それにもう夕方だ。
他人からすれば、ぼくと彼女は兄妹にでも見えるのだろうか。少し強引に引っ張られるせいでたまに人にぶつかりかけるが、なぜか微笑ましそうにされる。
「何? ぼくに何の用なの? 第一、ぼくと君は他人同士で……」
「わたしの名前は……便宜上だけど、ベガ。キミは?」
「え。文弥、だけど」
「ヨロシク、文弥。さあ、コレで他人じゃないね。知り合いだ」
一時だけ振り返った彼女――ベガちゃんはにっこりと笑う。悪意があるようには見えない。
それだけで、ぼくの手を掴むベガちゃんの小さな手を振りほどこうとは思わなかった。
数分ほど歩いて、ようやくベガちゃんが立ち止まったのは一番近くにあった川の岸辺だ。
「ココでいいかな。文弥、行くよ」
「行くって、どこに?」
「ソレはおいおい説明しよう。よいしょっと!」
威勢の良い掛け声と共に、ベガちゃんはぼくの手をしっかりと掴んだまま、川に向かって跳んだ。その突然の行動に対応できなかったぼくは、当然道連れになった。
何が悪意は感じられないだ。これじゃあ心中じゃないか。
雨で濁った水面が近づく。違う、ぼくが落ちていくんだ。
目を閉じた瞬間、ぼくを包む空気が変わったことに気づく。さきほどまでの雨の気配ではなく、ひんやりとした静かなものに。
おそるおそる、目を開ける。
「わ……!」
ぼくは、星々の中を落ちていた。どこに目を向けても星がある。どうやら背中を下にして落ちているらしく、おかげで視界いっぱいに広がる星が見えた。
夢じゃない。落下の感覚もこの景色も、夢にしてはやけにリアルだ。
「キミ、星は好き?」
繋がった右手の先に、ベガちゃんがいる。重力に身を任せ、ぼくへ顔を向けた。よく見ると、その黒い瞳の中にも星がある。どうやらこの風景を映しているせいじゃない。だって今その瞳は、ぼくに向けられているのだから。
彼女は、人ではないのだろう。急にこんな場所にいることといい、その瞳といい。
ああ、でも。きらきらしていて、とても綺麗だ。人為的なものでなく、あるがままの自然の美しさ。
水や炎はいくら綺麗でも、時には恵み、時には災害になる。だけど星は、ただ綺麗なだけだ。届かないけれど、直接害を与えられることもない。
「うん。大好きだ」
左手を上に伸ばす。ここからなら届きそうだ。掴めそうだ。けれど、今はただ眺めていたかった。
「キミを選んで良かった」
ベガちゃんが呟いたのと同時に、落下速度がふわりと遅くなった。柔らかく着地したそこは川岸だ。
さっきの川とは明らかに違う。なぜならそこには、星が沈んでいるからだ。普通の川で言うところの川底の石。澄んだ水の中、きらきら瞬いていた。
「ココは天の川。今日が雨で良かったよ。普段の水量じゃ、舟を出せなくてね」
木で作られた舟には、櫂が一つ。大きさは人が三人乗れるくらい。こじんまりと荷物が積まれているが、それを含めてもぼくとベガちゃんが乗っても問題なさそうだ。
彼女が『手伝って』ほしかったのは、これに関係することなのだろう。乗って、と促される。
繋ぎ止めていた綱をほどいて、ベガちゃんも乗り込む。天の川は川幅も広く、星明かりだけでは対岸が見えない。
「文弥は操縦をヨロシクね。ダイジョウブ、そう難しくないから」
「でも、やったことないよ。舟の操縦なんて。もし失敗したら……」
「初挑戦ってワクワクするよね。何事も、やってみなくちゃわからないさ。わたしもついてるし、失敗くらいいくらでも取り返せるよ」
流れに乗って、舟は漕ぎ出す。弾ける水にも、まるで星が溶けているかのように輝きがあった。
ゆらゆら揺れる舟は、星の海を往く。ベガちゃんの指示する方向へ進むよう、なんとか櫂を使う。案外思い通りに動くから、まわりを見る余裕もできた。
沈んでいる星以外にも、水と共に流れている星もある。青や白、赤と少しずつ違う色味。
「これは、本物?」
「難しい質問だね。キミたちが学校とやらで習うものとは違うけど、コレはコレで本物なんだ。理屈とかそういうのじゃなく、ただそう在るんだよ」
説明しながら、ベガちゃんは荷物の入っているらしき大きなバッグから、瓶を取り出した。ラムネのそれに近い大きさだ。
「手を止めても構わないよ。キミも見ているといい」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
舟は、星と水の流れにされるがまま流される。
きらきら光る水面に、ベガちゃんは瓶を沈めた。こぽこぽと上がってくる気泡さえもが、星の輝きを宿している。
すぐに瓶はいっぱいになった。ベガちゃんがおもちゃを自慢する子供みたいに、それをぼくに見せてくれる。
「星の水さ。普通のひとや道具じゃ、集められない。わたしだけの仕事なんだ」
「すごく、綺麗だ。こんなことができるなんて、ベガちゃんはすごいね。誇りを持てる仕事だ」
「ウン、そうなんだよ。わたしは、この役目に誇りを持ってる! わかってくれて嬉しいよ、文弥っ」
「うわっ」
ベガちゃんがはしゃいだせいで、舟が揺れた。いくらかは加減していたのか、転覆するようなことにはならなかったけど。
「おっと、すまないね。まだ瓶はあるんだった、続きをしなくちゃね」
今度は、ベガちゃんの手元に注目してみる。すると、より多く星の混じった水が彼女の持つ瓶へと流れ込んでいるのがわかった。
水から上げても、瓶はほんのりと光っている。澄んだ水は背景の暗闇を映し、まるで星空を瓶に閉じ込めたみたいだ。
バッグの中身は全て、大きさは違うが星の水を入れるための瓶らしい。その半分を水で満たすと、また違う場所に移動することになった。
次は、特に川幅の広いところだ。おそらく天の川の中流なのだろう。
「ここでは何をするの?」
「することは変わらないよ。集めるものは違うけどね。次は流れ星さ」
ベガちゃんにつられて、ぼくも視線を上に向ける。つい、と夜空を星が横切った。両手におさまる大きさの瓶を、ベガが頭上にかかげる。
まるで呼び寄せるようにベガちゃんが軽く瓶を揺すると、ふわりと中に落ちる。流れ星は瓶の底で弾けて、パキンと小さく音をたてた。細かい砂のようになっても、星は輝いている。
何度かそれを繰り返すと、また瓶はいっぱいになった。
さらさらした星は、やっぱりそれぞれ少しずつ違う色をしている。上下に振るとそれが混ざり合って、星の水とはまた違った美しさだ。
全ての瓶の四分の一に、流れ星が溜まった。
舟は下流へと向かっていく。今度は川の中ほどではなく、岸に近い位置に舟を止めた。浅く、舟から降りても膝下くらいにしか水位がない。
ベガちゃんは瓶を手に、川の中へ入った。川底からビー玉ほどの星を掬い上げる。それを流れ星の時より大きく、星の水の時よりは小さい瓶に入れた。
ガラス同士がぶつかる、からんころんという音がする。川の下流の石が丸いのと同じように、星もなめらかな球の形をしていた。
「ふふ。見た目はもちろんだけど、音もいいだろう?」
「うん、いい音だね。星って、音も綺麗だ。知ることができたのは、ベガちゃんのおかげだよ。ありがとう」
からん、ころん。瓶には星が溜まっていく。あっというまに、残る空の瓶はわずかだ。まるで時を告げる砂時計。あと二本、あと一本。
「……ベガちゃん」
「今日の仕事はね、織姫さまからの依頼なんだ。この星たちは、織物の飾りに使われる。織姫さまから彦星さまへの、贈り物にね」
一年に一度だけ会う、愛しいひとへの贈り物。特別なプレゼントに使う特別な星を、集めることのできるベガちゃん。星より特別だと思うのに、ふさわしい言葉がみつからない。
「ココまでありがとう、文弥。コレはほんのお礼」
差し出された三つの小瓶。握りしめたら、片手の中におさまりそうなほど小さい。それぞれ星の水、流れ星と球の星が入っていた。
受け取ってしまえば、夢から覚めるような予感がした。作り物みたいに、どこまでも続く美しい星空。水と星の流れる天の川を進む舟。
これは、現実?
「また……また、会える?」
「次の星集めも、キミに手伝いを頼むって約束するよ。星に誓って。だから、そんな顔しないでよ。名残惜しくなっちゃうじゃないか」
ぼくはどんな顔をしているんだろう。少なくとも、ベガちゃんが寂しそうにするような表情なのだろう。
「ダイジョウブ、また会える。だからコレ、受け取ってよ。そしたら、キミも忘れないだろう? わたしのことも、今日の星空も」
「忘れないよ。夢じゃなかった今日のことも、幻じゃない君のことも」
小瓶が彼女の手から、ぼくに渡される。軽いけれど、確かな存在感。今夜のことは、夢じゃない。
「……またね、文弥」
来た時とは違って、ぼくは一瞬で見慣れた川岸に立っていた。別れを告げる間もなかった。
空は暗く、満天の星が瞬いている。ぼくの手の中には、星を閉じ込めた小瓶が、確かに三つ在ったのだった。