エンディングノート
小説と言うよりも祖父を忘れないために書いたものです。
3月、まだ寒い夜に祖父は亡くなった。享年71まだまだ若かった。今の時代80歳を越える人はたくさんいる。もともと不摂生が原因で胃がんや食道癌を患っていたが生命力があったのかすべて克服し完治していた。だが、今回はダメだったらしい。血液の病気でどんどん痩せていくのが目に見えて分かった。そして免疫力が下がり肺炎になった。その肺炎が祖父にとどめを刺したのだ。祖父が息を引き取ったあと母や伯母、祖母は知り合いに連絡をとっていた泣きながら電話もなかなか話にならないほどだった。私と弟、そして私の父は静かに病室の前の椅子に座っていた。普段から感情を出さないこの三人はこの状況でも驚くほど冷静だった。「もうちょっと持つと思ったけどな」私がそう言うと父が「そうやな」とだけ答えた。どのくらいだったかずっと静かな時間が流れていた。その間、私は祖父と過ごした時間を思い出していた。
2001年、私は父の実家から奈良にある母の実家に引っ越してきた。正直なところ小さかったのであまり記憶には無い。でも、家に行く度にお菓子やおもちゃをくれる祖父が私は大好きだった。奈良での生活が始まってすぐ、私は保育所に入った。行きは母が送ってくれていたが仕事の都合で迎えは祖父と祖母が自転車でしてくれていた。祖母の自転車はゆっくりなのだが祖父はスピードを出すので怖かった。でも、楽しかったことを覚えている。祖父は私と弟をとにかく可愛がってくれた。休みの日には公園や動物園、博物館、とにかく色々なところに連れていってくれた。小学校に入学してからは私と弟が野球を始めてしまったので行く機会は少なくなったがそれでも夏休みや冬休みには色々なところへ連れていってくれた。祖父は歩くことが好きだったのでよく"山辺の道"へ連れていってもらった。「亮ちゃん今度の休み山辺の道行こか!」これが祖父の常套句である。私と弟はそれが楽しみで仕方がなかった。"山辺の道"にはにゅうめんを食べれるところがあって私はそれが大好きだった。また少し歩くと無人販売でみかんや果物が売ってあった。それを買って歩きながら食べていた。そして歩き終わるといつも決まって焼き鳥屋さんに連れていってくれた。私たちは「食べ歩きツアーや!」といってとても楽しかったことを覚えている。私たちの喜ぶ顔を見て祖父は「亮ちゃんはじいじのこと好きか?」といつも聞いてきた。これも祖父の常套句である。私は恥ずかしがり屋だったので決まって受け流すのである。
中学に上がり私は野球で本格的に上を目指し始めた。この頃にはもう祖父と"山辺の道"に行くことは無くなっていた。そして、高校は寮のある学校に行ったので祖父と会う機会が減ってしまった。思春期であまり家族と会話をしなかった私は祖父の常套句すらも鬱陶しく感じていた。祖父はとても寂しく思っていただろう。そんなことを静かな病室の前の椅子で思い出していた。
祖父が亡くなって数日が経ち遺品の整理をしていた時祖父のエンディングノートが見つかった。母に中を見せてもらった。そこには、亡くなったことを早く知らせて欲しいお世話になった人、自分の遺産のこと、亡くなった後の手続き、お葬式で使う遺影用の写真まで用意されていた。そして、最後のページには自分がやり残したことがかかれていたのである。しょうもないものから不可能と思えるものまで色々あった。でも祖父らしい面白いものばかりだった。そのなかに一つ、「孫と写真を撮る」と言うものがあった。「僕らとの写真はいっぱいあんのになんでやろ」と思っていたがよく考えると祖父は私の従兄弟との写真は数えるほどしかなかった。つまり、伯母の子供たちである。私や弟とは10歳ほど離れているので祖父が元気だった頃には遊べなかったのである。それでも、従兄弟が家にきた際には、祖父は僕らにも言っていたあの常套句を従兄弟に言っては逃げられていた。私は自分が祖父に連れていってもらったところに従兄弟達を連れていき写真を撮ることにした。
最初はどこに行こうか。そうだ、公園に行こう!と従兄弟を連れて近くの公園に行った。ここは祖父とよく野球をした公園である。祖父は野球が下手だった。祖父がピッチャーにいくとよく「亮ちゃんいくでドロップや!」と変化球を投げてきたが素晴らしい棒球で私だけでなく2つ下の弟にまで痛打されていた。すると祖父は「スゴいなぁ。プロになれるで!」と言ってくれていたがあれが打てないようでは少年野球もできない。そんなことを思い出しながら私は従兄弟たちに「野球やろか。」ともちかける。従兄弟たちは嬉しそうに「やる!!」といって楽しそうである。なんだか嬉しくなってくる。祖父も同じ気持ちだったのだろうか。祖父と違うところは私は生粋のベースボーラーというところである。10歳も下の従兄弟たちを完封して大人気なく反省した。もしかすると 祖父は僕らに打たしてくれていたのかも知れない。祖父が投げるドロップが曲がってなかったのはそのせいか。いや、ちがうか。いや、きっとそうだ。そういうことにしておこう。そう思いながら桜の木の下で写真を撮った。
次によく行った動物園に行った。よくよく考えると動物園に行くのは祖父と行って以来だ。はしゃぐ従兄弟たちを見ながらしばらく歩いているとモルモットを触れるところがあった。従兄弟たちに「触ってみいや」と言っても怖がってなかなか触ろうとしない。そう言えば私も小さい頃は怖かった。祖父は怖いもの知らずでモルモットを躊躇なく抱いていたが私は怖がってさわらなかった。餌やりも怖くて手がひけて動物がなかなか食べられずにイライラしていた。「亮ちゃん怖がりやなー」と祖父に言われてムッとして触りに行ったがやっぱり怖くて触れなかった。それを見て祖父は笑っていた。従兄弟たちも私と同じで怖がりらしい。「怖がりやなー」と言うと「だって怖いもん」と返された。私にはなかった素直さだ。「しょうがないなー」と言いながら私は触ろうとするとまだ抵抗があった。どうやらいくつになっても怖いものは怖いらしい。触らずにごまかして次に行った。「にいにも触ってないやん!」と従兄弟たちに言われてムッとした。どうやら私は成長していないらしい。少し恥ずかしくなったところでキリンの前で写真を撮った。いい笑顔だ。さっき怖がってた動物より何倍も大きいのに、そう言えば祖父にも言われた気がした、「さっきのよりでかいのに怖くないの?」と触らなければ大丈夫なのだ。
次は博物館に行った。ここには小学校の遠足でも行ったことのあるところだった。従兄弟たちもちょうどその辺りの学年だったらしく「行ったことあるー」と言われたがそんなことはおかまいなしである。私にはミッションがある。頼まれたわけではないが。それに行ったら行ったで楽しそうにしていた。やはりいい笑顔である。私はここの博物館の仕掛けなどよりもエスカレーターが好きだった。とても大きくてカッコよかったのである。なので何回も階を変えてはエスカレーターに乗っていた。祖父は「昭和の子供みたいやな。」と呆れていたが好きなものは好きなのである。呆れられても困る。と思っていたが今思うと呆れる気持ちがわかる気がした。小さい頃は何でも大きく、すごいものに見えるのかもしれない。写真を撮るところはたくさんあったがエスカレーターが写るところにした。後に母には「何でこんなとこで撮ったん。センス無いな。」と言われたのは言うまでもない。祖父にもそう言われてる気がした。母と祖父は性格がよく似ているのである。
最後に山辺の道に行くことにした。紹介し忘れていたが山辺の道とは大和の古代道路のひとつで、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山のふもとまで山々の間を縫う道のことで、全長約16キロメートルある道のことである。今になって思うがよく子供の足で16キロも歩いたなと思った。果たして従兄弟たちに歩けるだろうか、私は運動が得意であったが従兄弟たちは運動が得意ではない。むしろ苦手な方である。でも、多分祖父ならおかまいなしに連れていっただろうなと思った。なので、私も連れていく。さっきから何度も言うがミッションなのである。頼まれたわけではないが。しかし、道のりはそう甘くはなかった。そう、途中にあったはずのあのにゅうめんのお店がしまっていたのである。この旅一番の楽しみだと言うのに(私にとっては)なんてことだ!従兄弟たちにも申し訳がたたない何せここで昼食をとるつもりだったので他に弁当を持ってきていなかったのだ、ここまで自分の考えの浅さを憎んだことはなかった。もう、運動が苦手で心配といったレベルではないこのままでは三人仲良く餓死してしまう。そんな時だった、見覚えのあるいかつい顔が近づいてきた。祖父の友達の山下さんである。山下さんは祖父のウォーキング仲間でよく一緒にこの街道を歩いていた。私も小学生のときに一度に歩いたことがある。そして祖父の葬儀にも来てくれていた。その山下さんが声をかけてくれたのである。「おー、亮介君!偶然やなー」本当に偶然だったのであっけにとられていると「ここ閉まってるやろ。この日は休みやねん」と言われてやはり把握しておくべきだったと思っていると山下さんが「おじちゃんのおにぎり分けたげるわ!」といってコンビニのおにぎりを分けてくれた。あんなにいかつい顔の山下さんが天使に見えた…ような気がした。そこから山下さんとともに歩いていると祖父の話を聞くことができた。「おじいちゃんはないつも亮介君のこと自慢してたで!野球が上手いとか背が高いとか。とにかく、優しいとか、自慢の孫やったんやな」私の知らないところでそんなことを言っていたのか、さらに山下さんが続けた「あと、病気が重くなる少し前や、おじいちゃんがおじちゃんに言うたんや、カナちゃんとゆうくんと一緒に歩きに行きたかったなぁって。」カナとゆうとは従兄弟達の名前である。「そんでおじちゃんはな、そんなもん病気治ったらいくらでも行けるやんか!って言うたんやけど…自分が長くないの悟ってたんかもしれんな。無理やって言いはったんや。」そうだったのか。僕が黙り込んでいると山下さんがさらに続けた「何でゆうくんとかなちゃん連れてきたんや?」と聞くので私は「祖父のエンディングノートにやり残したことが最後のページに書いてあって、その中のかなとゆうと写真を撮るってのがあったんです。」私がそう言うと山下さんが「なるほどな、やっぱりおじいちゃんが言ってたことはほんまやってんなー」と言うのでどうゆうことか聞くと「おじいちゃんがな、亮介は絶対に僕のできなかったことやってくれるって言ってたんや、おじちゃん実はエンディングノート見せてもらったんや最後のページだけ、ほなそう書いてあったから。かなり無理なことも書いてやろ」と呆れぎみだったが「亮介君はほんまにやり残したことやろうとしてんねんなーほんまに自慢の孫やなー」と言われた。そう言われた瞬間なにか申し訳ない気分になった、祖父の最後にはあまり会話もせず、冷たい態度であしらうこともあったのにここまで私を誉めてくれていたなんて、私は祖父との最後の会話も思い出せないのに祖父がここまで私のことを信頼してくれているとは思っても見なかった。流れそうな涙をグッとこらえて私は笑顔で最後の写真を撮った。
撮った写真は祖父の祭壇のまわりに飾った。従兄弟達の笑顔が花のようである。祖父が遺したエンディングノートにはまだまだやり残したことがあった。ゆっくり一つずつでもできればいいと思っている。最後に、「じいじ、ありがとう。最後はもっと素直になれたらよかったのにと思ってます。病院で亡くなったあともお葬式の時も泣けなかった。じいじはよく「じいじが死んだら泣いてくれるか?」と聞いてきたけど泣けなかった。それは、多分じいじが心配すると思ったから、家族みんな泣いて、感情がないと思ってた弟と親父すら泣いたのに僕が泣いたら誰がしっかりするんやと思ったから。僕が孫の中で一番思い出を持ってます。これからは弟や従兄弟たちに伝えていくようにする。じいじは、エンディングノートに「お墓は要りません。参ってもらえるのはひ孫の代まででしょうから。」と言いましたが。僕が語り継ぎます。じいじはみんなの中に生きてます。じゃあしばしの別れを、では、また。」亮介
実話ですが。記憶が曖昧なところがあるため多少フィクションがあります。