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鬼が出るか蛇が出るか  作者: 志に異議アリ


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3/3

息子



音は、思ったより大きくなかった。


父が母に刃を向けた瞬間、

世界が壊れる音がすると思っていた。

でも実際は、空気が少しだけ歪んだだけだった。


だから、息子は動けた。


父の目は、母を見ていなかった。

鏡の向こうの、何かを見ていた。


息子は知っていた。

父がずっと、何かと戦っていたことを。

仕事のこと。

金のこと。

母の変化に、気づいていたことも。


母が家にいない時間が増えた理由も、

父がそれを知っていたことも。


誰も、何も言わなかった。

だから、息子も言わなかった。


床に倒れる母を見ても、

涙は出なかった。


悲しいより先に、

「やっぱり、ここまで来たんだ」と思った。


父は、刃を握ったまま立ち尽くしている。

肩が小刻みに揺れている。


このままでは、父は完全に壊れる。

母を殺したという事実よりも、

“まだ続けようとしている”ことが、息子には怖かった。


救う方法は、ひとつしかなかった。


近くにあった置時計は、

時間を刻む役目を、もう果たしていなかった。


息子は、それを両手で持ち上げた。


重さが、現実だった。


一度、振り下ろす。

父は、何も言わなかった。


二度目で、

父はゆっくりと床に崩れた。


鏡の中には、

もう誰も映っていない。


ただ、割れたガラスと、

倒れた大人が二人。


息子は、しばらく動かなかった。


泣く理由が、見つからなかった。


その後のことは、よく覚えている。


警察。

救急車。

白い光。


刑事は、静かな声で尋ねた。


「なぜ、父親を殴った?」


息子は、少し考えた。

正確な言葉を探して。


そして、答えた。


「父を、救ったんです」


刑事は、眉をひそめた。

理解できない、という顔だった。


それでよかった。


父は、これ以上壊れなくて済んだ。

母も、これ以上逃げなくて済んだ。


息子だけが、

すべてを背負えばいい。


鏡に映る自分は、

何も言わなかった。


否定もしない。

肯定もしない。


それでいい、と息子は思った。


家族は、もう映らない。

でも、時間だけは、

確かに前へ進んでいる。


置時計は壊れたまま、

二度と動かなかった。


それが、この家に残った

最後の、正確な沈黙だった。




───

供述書の年齢欄には、

迷いもなく、

五十三と書かれていた。



刑事は、最後にもう一度だけ確認した。


「君の年齢は」


「五十三です」


それで、すべてが終わった。







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