母
怖かったのだと思う。
それがいつからだったのか、はっきりとは覚えていない。
ただ、夫の背中を見るたびに、胸の奥がひくりと縮んだ。
鏡の前で立ち尽くす時間。
独り言のような呟き。
名前を呼んでも、反応が遅れること。
「疲れてるだけよ」
そう思おうとした。
思わなければ、日常が崩れてしまうから。
仕事のストレス。
ローンの話。
家計簿の赤い数字。
それらを口にするたび、夫の表情は固くなった。
だから、言わなくなった。
病院に行こう、とも言わなかった。
言えば、現実を直視しなければならなくなる。
壊れていく夫を、真正面から見る勇気がなかった。
代わりに、外に居場所を作った。
それは恋ではなかった。
救いでもなかった。
ただ、
何も考えずに「大丈夫だよ」と言ってくれる場所。
スマホを伏せるようになったのは、
後ろめたさより、面倒だったからだ。
説明する気力がなかった。
問い詰められる覚悟もなかった。
息子は、何も言わない。
それが、ありがたかった。
子どもは気づいていない。
そう思うことで、自分を保っていた。
その夜、夫の帰りは遅かった。
寝室でスマホを見ながら、
早く眠ってしまおうと思った。
夢の中に逃げれば、
朝には、また「普通」が始まる。
ドアの音で、目を覚ました。
立っていた夫の目は、
こちらを見ていなかった。
「明日にして」
そう言ったのは、
冷たくしたかったわけじゃない。
今は、話したくなかった。
今、何かを言えば、壊れる気がした。
夫の背中が、ふっと消えた。
台所の方から、引き出しの音。
胸の奥で、警報のようなものが鳴った。
それでも、体は動かなかった。
逃げ続けてきたのだから、
最後まで逃げればいい。
そう思った。
洗面所の鏡に、
自分の顔が映る。
ひどく疲れた女が、そこにいた。
夫が戻ってきたとき、
その手にあるものを見て、ようやく理解した。
――これは、もう戻れない。
声を出そうとしたが、
言葉が見つからない。
「あなた……」
それが、最後だった。
刃が向けられているのに、
不思議と恐怖はなかった。
ああ、
この人は、もう私を見ていないのだと。
鏡の向こうにいる“誰か”を、
必死で終わらせようとしているだけ。
床に倒れながら、
息子の姿が視界に入った。
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、見ている。
その視線が、胸に突き刺さる。
ごめんね、と言いたかった。
でも、その言葉を言う資格がないことも、
ちゃんとわかっていた。
だから、何も言わなかった。
血の匂いが広がる中で、
意識が遠のく。
最後に思ったのは、
愛していなかったわけじゃない、という
どうしようもなく身勝手な言い訳だった。
それすら、
もう誰にも届かない。




