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鬼が出るか蛇が出るか  作者: 志に異議アリ


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1/3



男は、眠れなくなった理由を正確には覚えていない。


最初は仕事だった。

上司の声が、夜になっても耳から離れない。

数字、期限、責任。

どれも形がなく、逃げ場もなかった。


次に、金だ。


ローンの返済予定表は、

冷蔵庫の横に磁石で貼られている。

見ないようにしても、

白い紙は視界の端で主張してくる。


今月も足りない。

来月はもっと厳しい。


電卓を叩く音だけが、夜に響く。


そして、妻。


スマホを伏せて置く癖。

風呂の時間が長くなったこと。

香水の匂いが変わったこと。


証拠はなかった。

だが、確信だけがあった。


男は、誰にも言わなかった。

言えば壊れるとわかっていたからだ。

家庭も、自分も。


ある朝、鏡がうるさくなった。


洗面所で顔を上げた瞬間、

映った男が、こちらを見ていなかった。


――お前が悪い。


声はしなかった。

だが、確かにそう言われた気がした。


仕事ができないのも、

金が足りないのも、

妻に裏切られたのも、


全部、自分のせいだと。


男は、鏡を拭いた。

何度も、何度も。


だが、汚れは落ちない。

むしろ、目だけがはっきりしていく。


「……黙れ」


そう呟くと、胸が少しだけ楽になった。


それから、鏡と話す時間が増えた。


妻は気づいていたが、何も言わなかった。

男はそれを、理解だと思った。


息子は、何も聞かなかった。

それが救いだった。


ある夜、男は帰宅した。


リビングの灯りは消えている。

寝室から、かすかな物音。


ドアを開けると、

妻はスマホを胸に抱いたまま、振り向いた。


その顔は、驚いていなかった。


「……話があるなら、明日にして」


その一言で、

何かが決定的に崩れた。


鏡の声が、はっきりとした。


――あいつだ。

――お前を壊したのは。


男は台所へ向かった。

包丁を手に取る感覚は、妙に現実的だった。


洗面所の鏡に、

妻の姿が映る。


歪んだガラスの中で、

それは“自分を嘲笑う存在”に見えた。


「終わりにしよう」


男は、鏡に向かって刃を振り上げた。


悲鳴は、短かった。


床に倒れる妻を見下ろしながら、

男は不思議な静けさを感じていた。


これで、

すべてが静かになる。


そう、信じていた。


鏡には、血が跳ねている。

だがもう、何も語りかけてこなかった。


男は、深く息を吐いた。


背後に、誰かの気配があることには

まだ、気づいていなかった。




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