第9話 姉妹の絆
夕暮れ時。
空は燃えるような橙に染まり、古びた窓辺をゆっくりと撫でていた。長く伸びた影が床を斜めに横切り、その境界をぼんやりと揺らす。
室内には、窓から差し込む光が薄い金色の膜のように漂い、どこか寂しさを漂わせている。そんな中、ミーティアは妹の寝顔から目を離せずにいた。
ベッドの上で、エルネアは穏やかな寝息を立てていた。胸が上下し、時おり微かにまつ毛が揺れる。彼女が生きている証だ。
つい数日前まで病の色に覆われていた青白い肌は、今ではほんのりと血色を取り戻し、頬には薄らと温かみが浮かんでいる。部屋には安堵の空気が広がっていた。
枕元にはミーティアが腰掛け、妹の小さな手を両手で包み込むように握っていた。黒い瞳はエルネアの寝顔をじっと見つめ、その奥には深い愛情と、ようやく辿り着いた安らぎが滲んでいる。
指先はそっと撫でるように妹の手を動かした。まるでその感触を現実のものか確かめるように。
外では、風が木々の梢を揺らし、葉と葉が擦れ合う音が精霊たちの祝福の囁きのように響いた。その心地よい音が、室内の静けさをさらに引き立てていた。
やがて、ミーティアがぽつりと口を開いた。
「……死霊術ってのは、てっきり人に恐怖を与えるだけのもんだと思ってた」
握る手に力がこもりかけ、ふと緩む。妹の温もりが、その偏見を少しずつ溶かしていく。
彼女の声音に、棘や皮肉はない。死霊術は悪であると、長年揺るがなかった信念。今、それが少しずつ変わろうとしている。
彼女は視線を落とし、自分の手と、握られている妹の手とを見比べるように眺める。過去の記憶と、今目の前にある現実とを天秤にかけているようだった。
「けどよ……こんなこともできるんだな。人を助けるために、死の力を使うなんて、ちっとも想像してなかった」
その言葉を背後で聞きながら、シードは目を伏せたまま沈黙を保っていた。壁際に立つ彼の銀色の髪が夕陽を受けて淡く光る中で、まぶたが微かに揺れる。
(死霊術が人を救う、か……)
すぐに表情は戻ったが、その儚くも冷ややかな存在感に、僅かに温かな色が滲む。
セラはミーティアの隣に腰を下ろし、そっと微笑む。彼女の瞳はミーティアの言葉を受け止めるようにゆっくりと瞬きをした。
ミーティアはしばらく視線を宙に漂わせ、ためらいがちに呟く。
「……なあ、ちょっとだけ昔話、してもいいか?」
「はい。もちろんです」
セラは膝を揃えて背筋を伸ばし、まっすぐに答えた。
ミーティアは苦笑し、肩をすくめる。まるでどこか遠い日を懐かしむように。
「俺たちはな、三姉妹なんだ。一番上の姉貴は――死霊術師だった」
セラの白銀の目が僅かに見開かれた。驚きと期待がその表情に浮かぶ。
「死霊術は禁忌で、人々に忌み嫌われる。姉貴はそれでも研究をやめなかった。……まあ、当然だが、俺はそれが許せなかった」
その声は少し低く、重くなった。ミーティアの手は無意識にエルネアの手を強く握りしめ、胸の奥に押し込んでいた感情が揺さぶられているようだった。
「正直、死霊術師のクソ姉貴が、大っ嫌いだった。どんなに優しくしてくれても、関係なかった。俺の中では、死霊術ってだけで……もう人じゃねぇって思ってた」
部屋に沈黙が落ちた。外の風が窓ガラスを微かに揺らし、静けさの中でその音がやけに大きく聞こえる。
「けど……あんたらに会って……少しだけ気が変わった」
そう言ってミーティアは息を吐き、口元に微笑みを浮かべた。その笑みは小さいが、長く張り詰めていた心が少しだけ解けたような表情だった。
「……二年も音信不通だ。もう二度と会えねぇと思ってた。けど……会ってみてもいい気がしてきた」
ほんの一瞬、言葉をためらい、それから小さく息を吐く。
「……『ファレム』って言うんだ、姉貴」
セラはゆっくりと頷き、温かな声で応じた。
「……素敵な名前ですね。私も……大切な人の名を呼ぶたび、胸が温かくなるんです。もし旅の途中でお姉さまにお会いしたら、必ずお伝えします。ミーティアさんが会いたがっていたって」
ミーティアは短く「頼む」と言い、視線を落とす。その瞳の奥に、抑えきれない不安と、ほのかな希望が交錯していた。
そのやりとりを、シードは黙って見ていた。表情はいつもと変わらず冷静だったが、胸の奥では波紋のような衝撃が広がっていた。
ファレム――二年前ロスリエス教国に現れ、教皇の名のもとシードが葬った死霊術師の名。
その時奪った魔術書こそが、彼を後戻りのできぬ道へと導いた。
今、その女がこの場にいるミーティアの姉であり、そして妹がこれほどまでに姉を想っていると知った。その事実は、彼の内側に重く沈み込む。
(……僕の選択が、また一人、誰かを奪ったのか)
その答えを声にすることはない。セラにも、ミーティアにも、誰にも。
夕陽はゆっくりと沈み、光は赤みを帯びて薄くなる。壁に揺れる影が、彼の僅かな感情の機微を隠すように伸びていた。
そして――彼は心の奥に、新たな鍵をかけた。