第7話 命の取引
「やめてください……っ!!」
鋭く、凛とした声が森を切り裂くように響いた。まるで木々に潜む精霊たちが、彼女の叫びに耳を傾けたかのようだった。
シードの動きがぴたりと止まった。彼の指先から零れかけていた術式が空中で凍りつき、淡い光の余韻となって揺らめいた。
銀色の瞳がゆっくりとセラに向けられる。その眼差しは、氷の底を覗くように冷たく、感情の欠片も感じさせなかった。
「……彼女は僕を殺そうとした。そのような相手に、なぜ情けをかける必要があるのです?」
その声には責めるような意図はなく、彼の純粋な疑問が込められていた。
セラは言葉を返せなかった。唇が僅かに震え、目だけで必死に何かを訴えた。
首を振るその仕草は、言葉を超えて雄弁だった。
――父に、誰かを殺してほしくない。
ただ、それだけだった。
『……セラちゃん』
脳裏に響くゼオラシュトの囁き。普段の軽薄さは抑えられ、試すような低い声がこだました。
シードはセラの瞳を正面から受け止めた。瞬間、胸の奥で小さな痛みが走る。忘れていた感覚――人としての迷い、ためらい。それは彼が捨て去ったはずの感情だった。
(迷っている? 僕が? この瞳……どこかで……いや、そんなはずはない)
思考を振り払うように、シードは掌を見下ろし、目を伏せた。魔術の光の残滓が宙を舞って消えゆく。
「くっ……!」
ミーティアが小さく声を漏らした。恐怖と緊張に縛られ、彼女の呼吸は浅く速い。数歩先で冷たい風が木々を揺らし、乾いた葉がかさかさと鳴る。
そして、シードは手を下ろした。ミーティアを囲んでいた亡霊たちの姿が霞のように溶け去った。
「……理解はできません」
彼は静かに告げた。
「ですが、あなたの目の奥にあるものを……無視はできない」
「シード様……」
銀色と白銀の瞳が重なり、セラの口から彼の名が溢れる。
ミーティアは肩で息をしながら顔を上げた。その瞳には安堵と困惑が交錯していた。
「……どうして……とどめを刺さねえ……? 俺を殺せば、済む話だろうが……」
シードは一歩踏み出し、ミーティアに真っ直ぐな視線を向けた。その動きは威圧ではなく、純粋な理に基づくものだった。
「……あなたの妹の病、その症状を僕に診せてほしい」
「……は?」と、ミーティアが眉をひそめた。
「僕は医師ではありません。しかし、人間の魔術体系については、ほぼすべて研究していました。治療法が見つかる保証はない。ですが、『他の方法』が存在するかもしれない。あなたが望むなら、力を貸します」
シードは、十六歳の時点で世界中の魔術書に記された現代の魔術を網羅した天才だった。その中には勿論、治癒の魔法も存在する。
ただ、「死霊術」だけは、祖国ロスリエス教国に侵入した女死霊術師を殺して奪い取った魔術書から手に入れたもの。
彼にとってそれは、人を助けるためではなく、あくまで「自分の魔術がどこまで届くか」を確かめるための、単なる興味本位だった。
短い沈黙が流れた。ミーティアの喉が動き、吐息が漏れる。その顔には怒りや憎しみではなく、迷いと混乱が滲んでいた。
「……俺は……死霊術師が……死ぬほど嫌いなんだ……!!」
絞り出すような声。その言葉の奥には、必死に抑えた感情が潜んでいた。
セラは迷わず駆け寄り、ミーティアの肩をそっと支えた。
「あなたが妹さんを想う気持ち、私……わかります。だからお願いです。彼を信じてみてください。ほんの少しだけでいいんです……!」
ミーティアは顔を伏せ、影に沈むように黙り込んだ。
やがて、地面を見つめたまま震える声が零れた。
「……信じてなんか、ねぇ。俺の妹は不治の病でずっと寝たきりで……もうあと数ヶ月もつかどうかの命だ……選ばれた人間の血から作れる薬でしか治らねえ。てめえを殺せば、薬が作れる……!」
つい先ほどまでの勝ち気な声が、涙を含んだ響きへと変わった。
「俺は……妹を……失いたくねぇんだよ……っ」
その言葉は、諦めと祈りの狭間にあった。
誰も目を合わさぬ静寂の中、時が流れる。
やがてミーティアは、握りしめた拳を膝の上でぎゅっと押しつける。言葉を失った時間が重く落ち、彼女の呼浅い吸だけが響く。
その胸の奥で、怒りと迷いと、希望が何度もせめぎ合った。
――もし、あいつらを信じたら。もし、裏切られたら。
それでも……今は、この道しか残されていない。
ミーティアはゆっくりと顔を上げ、湿った瞳に決意を宿して二人を見据えた。
「……ついてこい。妹のとこ、案内してやる」
彼女の声に宿るのは、命拾いでも、敵を信じ切った安堵でもない。
もしかしたら、妹が助かるかもしれない。ほんの小さな奇跡。
セラは大きく息を吐き、柔らかな笑みを浮かべた。
三人の背後、森の奥で枝が僅かに軋む音が響いた。一瞬、誰かの視線のようなものが空気を張り詰めさせたが、すぐに消え去った。
セラは気づかなかったが、シードの銀の瞳は鋭くその方向を捉えていた。追っ手か、あるいは別の何かか。今はまだ、確かめる必要はない。
セラはミーティアを支えながら、心の中で静かに誓った。
――今度こそ、誰も死なせない。
森の中、三人は並んで進んだ。微かな望みを、その歩みに湛えて……。